「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(箴言 18:20-21 新改訳)
聖書の教えを信じるクリスチャンであれば、「神の言葉」に力があることは、少なくとも、知識としては知っている。創世記第1章には、神が、「光あれ」と言葉を発せられた時に、その通りになり、天地創造が始まったことが記されている。神は、その言葉で無から万物を創造されたのである。悪魔の巧妙にして壮大な創作である「進化論」は、創造主の実在を否定すると同時に、神の言葉の絶大にして無限の力を否定しており、人類にとっての破壊的な危険思想であることは明白である。
さて、創世記にはまた、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(1:27a. 新改訳)とある。もちろんそれは、姿形といった外観のみを指すのではなく、霊を有する人格的存在という形のことである。人が神の性質に似せて造られているということは、神性の一部を分与されていると言うことでもある。神の言葉に在る力も、その神性の一部である。即ち、私たちの言葉にもまた、神よりも劣ってはいるものの、創造的な力が与えられている。創世記第2章19節には、「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」とある。最初の人であったアダムが被造物に名を付けた時、それぞれの性質が決まったとも言える。それくらいの力と権威とが、人の言葉に与えられたのだ。
約6、000年前(正確な年については諸説あるので、ここでは踏み込まない。)にアダムが創造されて以来、神と人の言葉に対する悪魔の攻撃が続いて来た。聖書の改竄の試みや、解釈を変質させることがそうであり、また、人の言葉を堕落させることも、その攻撃手法の1つである。俗語の類は、古代からどこの社会にもあったと思うが、今日ほど広範囲に使われているのは歴史上無かったのではないか。例えば、英語ではカスワード(curse word)と呼ばれる粗野な俗語が数々あるが、直接的な意味は「呪いの言葉」であり、神の名前さえも罵り言葉として使われている始末である。そのような言葉を使う時、人々は意識せずとも、神を呪っているのである。
私たちは、神や他の人々を呪うだけでなく、自分自身をも呪ってしまうことがある。何か大きな失敗をした時、何もかもうまく行かないような時、自責の念を抱くだけでなく、自分はダメな人間だと呪ってしまうことがある。あるいは、子供の頃から、親や教師など大人から、お前はダメな奴だと言われ続けて育つと、他者からの呪いの言葉に加えて、自分自身も同様に自らを呪い続けてしまう。呪いは祝福の対極であり、呪いの言葉は祝福を遠ざけてしまう。私たちは、自分自身に失望することがあるが、その時は、神の前に自分の思いを吐き出すべきであり、自分自身に呪いの言葉を投げつけてはならない。私たちの言葉には創造的な力があり、逆に破壊的な力もある。他者や自分を建て上げることも出来るし、壊すこともできる。私たちは、自分を呪うのはもう止めよう。神から与えられた言葉の力を、自分と他者を祝福するために用いたいものである。