TRANSLATE

GlobalNavi

AD | all

「亡命者」としての人生(記事No.141)

 先週、高橋たか子と言う作家の「亡命者」(講談社文芸文庫)を、移動中の飛行機などで2日間かけて読み切った。底本は、1995年12月に刊行された同名の小説である。不勉強で同氏の小説は読んだことが無かったのだが、今月京都新聞で関連記事が掲載され、彼女がカトリックの洗礼を受けたクリスチャンであったと知り、早速代表作の1つである同書を買い求めて読んだのである。京都新聞は、少しでも京都にゆかりがある著名人などは、大きく取り上げるが、高橋氏は1932年京都生まれであり、結婚後の1965年に神奈川県鎌倉市に転居するまで、大部分を京都で過ごしていたと言う。

 京都大学でフランス文学を専攻した高橋氏は、結婚後はフランス語記事の翻訳などの仕事をしながら、小説を書き続けた。しかし、39歳の時、1歳年上の夫が病没し、以後、魂の安息を求めてか、内面的な世界についての考察を深めて行く。その後、43歳の時、東京・目黒に在ったカトリック修道院において、交流のあった作家・遠藤周作が臨席する中、洗礼を受け、正式にカトリック信徒となった。その少し前から、彼女は、宗教とは何か、神とは誰かを求めて、主としてフランスの、ヨーロッパ諸国を幾度となく訪れていた。クリスチャンとなった後も度々フランスを訪問し、修道院に数ヶ月間滞在するなど、魂と信仰の深みを追い求め続けた。「亡命者」は、高橋氏の魂の旅路を描きつつ、小説としても際立っている秀作である。

 「亡命者」は、「亡命者」、「小説『亡命者』」、「手記『亡命者』」の三層構造から成っている。主人公は、最初は高橋本人であろう「私」であり、次に巡礼途中に出会ったあるフランス人夫婦、そして最後はその夫の方の手記という形をとる。優れた小説の常として、読みながら、あたかも自分もその情景を見たかのように思わされ、ぐいぐいと引き込まれて行った。ここから先は、ネタバレが含まれているので、これから「亡命者」を読んでみようと言う方は注意していただきたい。

 この作品中で、私が最も印象に残ったのは、「私」と、同じ古いアパートの別室に住むフランス人老婦人との会話であった。「私」が、修道院生活を送っている修道士たちのことを話題に取り上げて、こう言う。「あの人たち、亡命者ですね」「こちらから、あちらへと、亡命したのですね」それに対して、老婦人は返す。「マドモワゼル、それは逆ですよ」「何が、逆なのです?」「わたしたち全て、人間すべて、あちらからこちらへ亡命してきているのです」何と!私たちは全て、亡命者であると言う!亡命者とは、戦争や迫害などの理由により、心ならずも祖国を離れ、異国で生活している人々のことではないのか?霊的に捉えれば、神を信じることで初めて、人は神の国の国民になるのであって、それまでは、この地上に属しているのではなかったのか?

 「私」は、「生まれて以来、何処にいても、居場所でないと感じつづけた、わけが、わかった。」と気づく。老婦人は、次のように言葉を締めくくる。「あちらへ亡命するのではなく、この亡命地からあちらへ帰っていくのです。かつて、そこに居たのですから」そうか、そのような捉え方があったのか!最初の人アダムが罪を犯し、エデンの園から追放された時、彼は、この地上への亡命者となった。その時以来、彼の子孫らもまた、亡命者として生まれたのだ。亡命者にとって、今居る国は、彼らの祖国ではない。祖国は別の所にあって、本来はそこに居るべきであったのだ。だから、亡命者は祖国へ帰還出来る日を待ち焦がれる。聖書では、神に対する信仰を持つ人々を、この地上では旅人であり寄留者であると語る。その全く同じ本質的な意味において、私たちはまた、亡命者でもあるのだ。私たちの地上の人生は、亡命者としてのそれなのである。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」(ヘブル人への手紙 11:13-14 口語訳)