私はと言えば、年末の慌ただしい時期に年賀状を書くのは、特にそれが単なる儀礼で送る先であれば、面倒臭く感じてもいる。一方で、長い付き合いのある人々との年賀状のやり取りは、生存確認の意味も含めて、必要性があると思っており、やめる理由は見当たらない。心がけていることとして、プライベート関係でも、仕事関係でも、必ず一言は手書きで添えて書くことにしている。仕事関係では、これまでは、毎年数百枚の年賀状のほとんど全てに手書きで、相手に応じた一言メッセージを書き添えていた。しかし、今年の分からは、いつも印刷だけの文面で送ってくる先で、なおかつ、付き合いがほとんど無い所には、メッセージを書き添えるのをやめた。「受けるよりも、与える方が幸いである。」を座右の銘としている私としては、必ずしも本意ではなかったが、読んでいるかも疑わしいような先に、毎回丁寧にメッセージを書くのは虚しさも覚えていたからである。
日本全体でも年賀状の枚数は減少しており、昨今では、全く出さずに、親しい相手にだけメールやLINEなどで新年のメッセージを送る人も増えていると思う。日本郵便によれば、年賀状が初めて発売された1949年には約1.8億枚、ピークの2003年には約44.6億枚がそれぞれ発売されていたという。その後は、一貫して減少に転じ、2021年には約19.4億枚、2022年には18.2億枚の発売枚数となったそうである。何年か後には、紙の年賀状を送る人は少数派になり、やがては、民営化された日本郵便にふさわしく、土曜配達のように廃止されるのではないだろうか。
そのような年賀状を巡る状況であるが、中には、ここぞとばかり自慢のツールとして使う人もいるから面白い。今年、妻宛に来た年賀状の中にあった、20数年前の同僚からの1通もそうであった。それは、写真入りの年賀状であったが、お嬢さんが入学した音楽系ではトップクラスと言われている大学の、校門の大学名のプレートの前でポーズを取っている写真であった。私は、よほど嬉しくて自慢もしたかったのだろうと推察し、分かり易い行動を笑い飛ばすくらいの思いで聞いたが、妻は少し違った受け止め方をしたようで、これはマウントを取っているんだよと言う。なぜなら、妻の出身校も別の音楽系大学だからである。もちろん、相手の過去の言動に照らして、そのように受け止めたと言う。この種の自慢行為に対しては、男性よりも女性の方が敏感に受け止めるようである。実にくだらない話ではあるが、妻は、これまで何人もの知人からの自慢行為を数々経験して来たことから、私は、今回のことも含めて、いずれ本にまとめて書いたらどうかと勧めた。
はっきり言って、年賀状を自慢のツールに使うくらいであれば、出すのをやめた方がはるかにマシである。また、明らかに毎年自慢をするような人へは、年賀状を出すのをやめた方が精神衛生上も良いと思う。どうせ、心からの親しい付き合いは出来ないのだから、そのような人間関係は整理しても良いのではないだろうか。30数年前のテレビ・コーマーシャルで、「覚醒剤やめますか、それとも、人間やめますか。」と言うものがあったと思い出したが、そのフレーズに倣えば、「(自慢のための)年賀状やめますか、それとも、(思いやりを持った)人間やめますか。」である。
振り返ると、自分たちも以前、知らず知らずのうちに、無神経な年賀状を出していたのかも知れない。子供たちが小さい頃は、お揃いの服を着た写真入りの年賀状を作成して送っていた。親族や家族ぐるみの付き合いをしている友人なら良いが、そうでない人々の中には、もしかしたら、自慢と受け止めた人もいたかも知れない。世の中には、結婚したいのに良縁が中々無い人もいれば、結婚していても、様々な事情で子供がいない人もいる。そのような人々の中には、小さな子供の写真付き年賀状を受け取って、心がざわつく人もいると思う。他人に少しでも不愉快な思いをさせてしまう可能性があるのなら、いっそのこと年賀状など出さない方がまだ良いと思う。年賀状は、せいぜい70年くらい前からの風習であり、何がなんでも後世に受け継いでもらうべきものでも無い。限られた先に出すのは良いとして、そんなことよりも大切なのは、年賀状のやり取りをしていた相手を思いやる気持ちであろう。形式よりも、実質の方が大事なのは、ここでも真実である。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」(コリント人への手紙第一 13:4 新改訳)