まず、社会的な状況であるが、言わずと知れた古都であり、国際的観光都市としての京都の実相である。多くの日本人は京都に対して、どちらかと言えば肯定的なイメージを抱いていると推察する。先月、文化庁が京都に移転して来たが、古くから豊かな文化が培われて来た都市というイメージがあるとは思う。国内外からの観光客も多く、最近では、いわゆる旅割、全国旅行支援制度が開始されて以来、特に昨年11月くらいから、国内観光客数が急激に回復している。また同様に、新型コロナ対策入国規制の緩和と大幅な円安により、外国人観光客が激増しており、京都駅のタクシー乗り場などは彼らで長蛇の列になることも珍しくない。京都人の中には、京都が魅力あふれる都市であるから、国内外の観光客を惹きつけると思っている人も多いのであろうが。確かに、観光客として、少し多めの小遣いを持って遊びに来るなら、観光名所巡り、グルメ、買い物と楽しく過ごせること請け合いである。
しかし、これまで3年間、実際に住んで来た者として、率直な感想を言えば、京都は、その歴史ゆえに観光名所の多い、地方大都市の一つというのが実相であると思う。民度も、日本の他の諸都市と同レベルであろう。あえて具体的には書かないが、利権構造があるのも、スケールの違いは置いても同様である。生まれてから一度も京都を出たことの無い人々の多くは、京都が一番素晴らしい街だと思っているのかも知れないが、考え方は自由ではあるものの、「井の中の蛙」という諺を思い浮かべてしまう。実際には、約144万人(2023年4月京都市推計)の人口の内、15万人ほどが大学生と言われるなど、若い世代を中心に市外からの転入者も多いので、先祖代々からの生粋の京都人は、いずれマジョリティの座を降りることになるかも知れない。有名な寺社も多く、茶道や華道、美術や工芸なども盛んであり、豊かな文化があることは確かである。だが、その実態は、伝統行事を含め、結局は「金目でしょ。」の世界ではないだろうか。京都を特にディスっているのではなく、金が価値の最上位にあるのは、現代日本の他の諸都市と同じという意味である。まあ、これらを踏まえた上で住むのであれば、そこそこの環境の都市ではあろう。ただし、間違っても、誰もが憧れるような、万人にとって快適な都市ではないとは言えるが。
次に、霊的な状況であるが、これは、社会的状況以上に、奥が深い事柄である。数ヶ月前に、京都で20年近く牧会している牧師と会った時、何か霊的覆いがあるように感じるとの話を聞いた。私も、現在の京都は、霊的には、雲で覆われているような状況ではないかと思う。ただし、これも多くの日本の都市に共通している状況であり、国全体としてもそうであると思う。私の聞く限り、京都の有名寺社の多くは(ほとんど全てか?)、宗教活動よりも観光収入(拝観料等)で財政を維持しているようである。個々の寺社や信仰者の中には、天台宗の千日回峰行に象徴されるように、熱心に信心している人々もいるだろうが、総体的には、伝統的な仏教や神道の中に、宗教的情熱がどれほど残っているのか、疑わしいところである。そうは言っても、およそ宗教と名のつくところには、何らかの霊が働いていることも事実であり、京都の霊的状況としては、決して多くの人々を幸福にするような結果をもたらしてはいない。前述のように、これは京都に限った状況ではなく、日本全体に共通した状況であり、宗教のみならず、社会のあらゆる領域に、悪霊の働きが程度の差こそあれ存在している。例えて言えば、厚い雲が太陽を覆い隠すように、悪霊の働きが、人々の魂に覆い被さり、真の神の姿を人々が知り得ない状況ではないかと思う。
だが、京都は、初めから今のような霊的状態であったのではない。今でもその残滓が残っているように、元来は開明的な国際都市であったのが京都である。本ブログ記事No.154「熊本バンドの精神は何処に」でも、明治初期に新島襄が京都の地に同志社英学校を開いたことに触れたが、それを受け入れる精神的土壌があったからこそである。また、徳川幕府がキリスト教禁教令を出す前は、京都ではキリスト教宣教が活発に展開されており、市街中心部には南蛮寺と呼ばれたキリスト教会が建設され、市中には多くのクリスチャンが所在していた。1597年に豊臣秀吉の命により26人のクリスチャン(日本人信徒20名、外国人宣教師6名)が長崎・西坂で処刑された時、その内の24名は京都で捕縛されている。さらに遡れば、平安京の時代から、京都は、日本列島東西の交通の結節点であり、人々、物資、情報、文化、宗教などが交わる所でもあった。特に平安時代前期には、海外から多くの渡来人が集まり、国際都市の様相を呈していたようである。
「多くの牧者たちはわたしのぶどう畑を滅ぼし、わたしの地を踏み荒した。わたしの麗しい地を荒れた野にした」(エレミヤ書 12:10 口語訳)
現在の京都の霊的状況とは、最深部の岩盤の上に、時代の流れの中で、幾層もの地層が折り重なり、当初とは全く異なる風景が現れているようなものであろう。都市とは人為的に築かれたものであるから、建物に例えるならば、最初に据えられた土台の上に、設計通りの建物が造られたが、やがて増改築が重ねられるに従い、建築士の設計図とは似ても似つかぬ建物に変わってしまったようなものである。今となっては、建築当初の記憶は忘れ去られ、異なる物語によって建物の歴史が語られているようなものだ。それでは、京都の街の起こりは、どのようなものだったのか?そこに、本来の京都の霊的姿があったはずである。
本ブログ読者の皆さんの中には、既に答えを知っておられる人も少なくないと思われるので、勿体ぶらずに結論を書きたい。794年に後に京都と呼ばれる平安京が造られた時、桓武天皇の命を受け都を造営したのは、渡来人集団の秦氏(はたし、はたうじ)であった。秦氏は、景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)であり、数万人かそれ以上の規模で朝鮮半島から波状的に渡来したが、現在の朝鮮民族(韓民族)とは異なり、そのルーツは古代イスラエル人との説が有力である。彼らは、建築、土木、冶金、機織、言語、芸術など多方面に渡り高度な技術や知見を有していた。豊富な財力をも有していた彼らは、一族が集住していた山城国(山背国)の地に新たな都を建設した時、単に物質的な新都市を建設したのではなく、その地に霊的な土台をも据えたのである。その証拠に、唐の都・長安を模したと言われる碁盤の目の都市デザインは、その実、十字架の形に造られたのである。すなわち、街区は長方形のブロックと正方形のブロックとから形成されているが、長方形のブロックだけを抽出すると、そこにはT字形の十字架が現れるのだ。十字架の頭に相当する位置には、天皇の住居である大内裏が置かれていたが、そこはかつて秦河勝の住居があった所である。イエス・キリストの十字架で、罪状書が掲げられていた位置に相当する所には、「元稲荷」神社が置かれたが、「稲荷」とは、『INRI」すなわち、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(Iesus Nazarenus Rex Iudeorum)のラテン語の頭文字に由来する言葉である。これについては、聖書解説者の久保有政氏が、その著作やYouTube動画などで詳しく解説されているので、興味がある方は是非調べていただきたい。なお、現在の京都の碁盤の目部分は、豊臣秀吉が大幅に都市改造を行った時に造営されたもので、平安京とは場所自体も異なっている。
「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(コリント人への第一の手紙 3:11 口語訳)
聖書の原則では、何か物事が最初に始められた時、それは霊的にも土台が据えられたことを意味している。前述のように、京都は秦氏が平安京を造った時、その霊的土台が据えられたが、それは誰も動かすことが出来ないのである。平安京という名称自体にも、その事が表されている。平安京とは、読んで字の如く、平安の都=平和の都である。同じ意味の名称を持つ都市が、古代より現在に至るまでに西方にもある。それは、イスラエルの地にあるエルサレムである。「エル」はヘブライ語で「神」を表し、「サレム」は「シャローム」即ち「平和」の意味である。秦氏は、平安京を東のエルサレムとすべく造営したのではないだろうか。そして、その土台は、イエス・キリストへの信仰であった。そうなると、戦国時代から江戸時代初期にかけて、京都に多くのクリスチャンが起こされたのは、実に歴史の必然であった。彼らは、祖先の信仰に立ち帰った人々であったのである。このように、京都の真の霊的土台に目を向けると、この都市の本来あるべき姿が見えて来る。キリスト再臨の日の前に、もう一度、いにしえの真実の京都が回復されることを願う。もし、それが実現するならば、その時、この地は再び神の平和の都として、人々が救われ癒され幸いを得る地となるだろう。
「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」(エレミヤ書 33:6-8 新共同訳)