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時が来ると実がなる(記事No.15)

 先日、私の中学生の息子に、このブログを読んでいるかと聞いたところ、話の内容が難しいから読んでいないと言われてしまった。少し残念だが、内容が大人向けであるから無理もない。同じ事物に対しても、年相応の受け止め方があるだろう。人生を季節に例えることがあるが、中学生なら未だ春であろう。50代の私は年代的には秋であるが、笑うなかれ気持ちの上では未だ夏である。人がこの世に生を受けた時、それは播かれた種のようである。親や周囲の人々から物質的・精神的な養分を得て成長し、やがて芽を出し葉をつける。そして、実が成り、最後は枯れていく。人を1本の木になぞらえた聖書の言葉がある。

 「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。 その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことは全て栄える。」(詩篇第1篇2―3節・新改訳)

 私がこの聖書の言葉を読む時、思い出す人がいる。皆さんも、その名前を聞いたことがあると思う。青い目の国会議員と言われた、ツルネン・マルティその人である。彼は、フィンランド人として生まれ育ち、やがて、キリスト教会派遣の宣教師として来日した。来日後、日本人女性と結婚、日本に帰化したが、神奈川県湯河原町の町議会議員選挙に出馬して、見事当選を果たした。日本初のヨーロッパ系地方議員の誕生である。その後、1995年から2001年まで4回にわたり、衆参の国会議員選挙にチャレンジしたが全て落選した。

 苦杯を嘗め続けたツルネン氏に転機が巡ってきたのは、2002年2月のことである。民主党参議院比例区で当選した大橋巨泉氏が辞職し、名簿次位のツルネン氏が繰り上げ当選したのだ。その時の記者会見におけるツルネン氏の言葉を、今でも鮮明に覚えている。「やっと、私の季節が来ました。」ツルネン氏61歳の時である。61歳と言えば、今でも多くの人々にとって、これから新しいことに全力で取り組もうとする年齢では無いと思う。しかし、ツルネン氏にとっては、新たな活躍を始めるに遅すぎる歳ではなかった。彼はその後、11年余を参議院議員として国民のために働いた。

 神は、私たちひとりびとりに人生における使命を与えた。ツルネン氏が何度も落選を繰り返した後、ついに願っていた活躍の場に立ったように、私たちが何度倒れたとしても、それは神にとって問題では無い。私たちが諦めずに立ち上がって進み続けるのであれば、いつの日か必ず使命を存分に果たせる日が訪れる。神はツルネン氏にそうされたように、私たちにも立ち上がり、歩き続ける力を与えてくださる。そして、あなたの、私の、時が来たならば、多くの実を結ぶことができるようになる。私たちは失敗から学ぶことは必要であるが、過去に囚われてはならない。目先の状況に一喜一憂してもならない。神を見上げ、信じて前に進もう。そうすれば、やがて必ず、あなたの、私の、季節が訪れるだろう。

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人を潤す者は自分も潤される(記事No.14)

 本ブログをスタートして以来、主に時事問題などにも絡めたテーマで書いて来た。聖書の教えは、どのようなテーマに対しても答えを提供出来ることと、預言的な視点で事象を読み解くことが私に与えられている賜物の1つであるからだ。今回は、少し違う角度から聖書の教えの真実性について書いてみたい。

 人は誰でも、幸福な人生を送りたいと願っている。中には、人生に絶望し、幸福について願うことも考えることも出来ない人もいるであろう。一般的に、幸福は自ら掴むものというイメージもある。私としては、与えられるものという意味で、祝福という言葉を用いて書くこととする。キリスト教は御利益宗教ではないが、地上での物質的な面も含めた祝福があることを決して否定している訳ではない。例えば、旧約聖書に次のような言葉がある。

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」(箴言第11章24―25節・口語訳)


 実例として、私の友人のことを紹介したい。彼女(仮にDさんと呼ぶ。)は私より一回り上の経営者であり、神奈川県内で老舗の和菓子会社を経営している。創業は明治後期であり、Dさんは4代目の社長である。Dさんは、外見は少し上品な感じの普通のおばさん(失礼!)であるが、実は大した人物である。経営者としての手腕も優れているが、同時に人柄も素晴らしく、Dさんの悪口は聞いたことが無い。Dさんは決して順風満帆の人生を送って来たという訳ではなかった。先代から経営を引き継いだ数年後には、工場が火災に遭うという試練も経験した。ここでは詳しく書かないが、私生活で苦労されたこともあった。

 Dさんは人々に良くする人である。それも単に親切にするだけでなく、人々のために気前良くお金を使う。取引先の人だけにそうするのであれば、あるいは打算ではないかとも思えるが、決してそうではない。周囲の人々に対して、計算ずくで無い、しばしば費用がかかる親切を、さらりと行うことが出来るのだ。Dさんは長く慈善活動への寄付も続けている。日本やアジアの貧困家庭の子供たちへの支援活動などへ、惜しみなく財を投じる。財産を多く持っているから出来るのだと言うなかれ、いくら財産を持っていてもケチな人はケチである。そういう人は、良い行いをする時も内心見返りを期待しているのかも知れない。

 さて、それでは、Dさんはどのように祝福されているのだろうか。Dさんの会社の商品で、その都市の銘菓にも選ばれた看板商品がある。約40年前新商品として世に送り出してから、何年も販売個数は低迷を続けたそうだ。それでも地道に販売を続けていたが、特別な販促活動もしていなかったのに、ある時から突然販売個数が伸び出し、あっという間に地域の銘菓になり、以来毎年、会社に多くの利益をもたらしている。もう何年も前から、その商品を買うためには各店舗の開店2時間前から並んで整理券を受け取らねばならず、いつも午前中には売り切れてしまう。今なお伸び続ける需要に応えるため、最近新工場を稼働させたところである。

 聖書の言葉にあるように、いつも人々に気前よく施し、自分は豊かな祝福を受けているのがDさんである。実は、Dさんはクリスチャンではない。しかし、自分でそうと気づかずに、神の教えを実践しているのだ。人は仮に聖書の教えを知らなかったとしても、心にはそれが刻まれている。それは良心や善意とも称される。知らずに神の教えを実践し祝福を受けるのも素晴らしいことではあるが、知ってそれを行い祝福を受けることには、神と共に歩むという大きな喜びが伴う。あなたも神を信じ、その教えを実践し、地上と天上における豊かな祝福に与っていただきたい。
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神を畏れる指導者(記事No.13)

 早いもので、台湾元総統の李登輝氏が召天されてから7月30日で1年になる。私にとって、同氏は尊敬する人物の1人であって、日本語に訳された著作も大半読んだ。2016年5月には、李登輝氏と親しい日本人の知人と一緒に訪台し、お目にかかれる予定であったが、前日の蔡英文総統就任式に出席されたあと体調を崩され、結局お会い出来ずじまいであったことが残念である。そのような訳で、昨年8月には、私も東京の駐日台湾代表処にて弔問記帳させていただいた。

 私が李登輝氏を尊敬している理由は、彼が政治家として傑出した人物であったことはもちろんのこと、それ以上に、神を畏れる国家指導者であったからである。彼が第4代総統を務めた中華民国は、建国の父である孫文を始め、国家指導者たちの中にクリスチャンが少なくなかった。最も長期政権を敷いた蒋介石もクリスチャンであったとされているが、彼が政敵に残忍な弾圧を加えたことなどからすると、士林の官邸に専用礼拝堂を有していたからといって、生きた信仰を持っていたのかは分からない。

 日本統治下の台湾に生まれた李登輝氏は、長じて京都大学に入学し、その後学徒出陣で出征し敗戦により陸軍少尉で除隊した。その後、台湾大学を卒業し農学部助手として働いたが、奨学金を得て米国の大学で学び、帰国後は農業関係の行政官や研究職を歴任した。キリスト教信仰を持ったのは、台湾大学助教授を務めていた38歳の時である。農業関係の研究者また教育者としてキャリアを重ねて来た李登輝氏は、農業問題に関して蒋経国総統に報告する機会があり、それ以降重用されるようになって政界入りへとつながった。その後、蒋経国により副総統に選任されたが、蒋総統が任期中に死去したことから、憲法の規定により彼の後を襲ったのである。
 
 李登輝氏が中華民国総統職を継いだとき、台湾は未だ民主化の途上にあった。38年に及ぶ世界最長の戒厳令は蒋経国政権時代の1987年に解除されていたが、国民党の一党支配が続き、国会には大陸時代からの事実上の終身議員が多数在職していた。新総統となった李登輝氏は直ちに国政の改革に着手し、国民党内の反対論を抑えて、終身議員を全員退職させるなどの思い切った改革を断行した。その後1996年には、中華民国史上初となる総統直接選挙が実施され、李登輝氏が再任された。政治家としての李登輝氏は、改革者としてのイメージが強く、やがて、国民を強権支配のくびきから解き放ち、台湾を名実共なる民主国家へと導いたことにより、台湾のモーセとも称されるようになった。

 李登輝氏の人生は決して平坦なものではなく、留学当時や学者時代には平穏な日々もあったようではあるが、政治家となってからは、国内外の反対者たちとの戦いの日々でもあった。内においては、長年の特権を失うのを恐れる外省人を中心とした国民党旧守派と、外においては、台湾を併呑しようと圧力を強める中共政権との戦いであった。中共にとっては、李登輝氏は中華民族を分断させる悪の権化のような位置付けであった。民主化を求める自国民を平気で虐殺する独裁政権が激しい人格攻撃を加えたことは、逆に李登輝氏の正しさを証明したようなものであった。

 政治家になる前の李登輝氏は、大学教員を退職した後、台湾の山岳地域における伝道に残りの生涯を捧げるつもりであった。政治家への転身を決意した後は、国家と国民のために人生を捧げることが、そのまま神に対する献身ともなったのである。彼は、重要な決定を下すときにはいつも、まず神の前に祈り、聖書の言葉に導きを求めた。人に対する恐れには勝利したが、神に対しては常に畏れを抱き続けた。その有り様は、彼が称されたモーセのようであり、また、ヨシュアやダビデのようでもあった。私は、改めて李登輝氏の遺徳を偲ぶと共に、日本にも彼のような神を畏れる国家指導者が起こされることを切に願うものである。
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小麦1マスは1デナリ(記事No.12)

 パンデミックの陰に隠れて大きく注目はされていないかも知れないが、食料価格が高騰している。国連食糧農業機関の発表によると、今年6月までの1年間で、約40パーセントの価格上昇であり、特に小麦、大豆、とうもろこし等の穀物価格の上昇が著しい。日本人にとっては幸いなことに、今のところ米の価格は安定的に推移している。しかしながら、穀物価格の急騰は、小麦製品や食肉など広範囲に価格上昇をもたらすことから、今後は日本でも、食品価格が隠れ値上げではカバーできないほど上昇するだろう。

 食料は投機の対象となる商品でもある。どこかの国の庶民が食糧不足で苦しんでいたとしても、価格の高騰で莫大な利益を得る者たちにとってはどうでもよいことであろう。また、食料は石油や半導体などと同じく、戦略物資でもある。それゆえ、各国は食料安全保障の観点から、価格について政府がコントロールできる余地を残している。需給バランスが適正な範囲に保たれていれば価格は安定するが、それが崩れると大きく上下に振れることがある。そうなると、政府の介入によっても、輸入依存度が高い国ほど十分な食料が確保できない事態ともなる。まして、中国のような領土紛争の相手国に食料供給を依存することは、安全保障上極めて危険である。

 聖書には、終わりの時代が近づくと、食料価格が暴騰し、また、飢饉が起こることが預言されている。それらの預言に照らせば、現在進行中の食料価格高騰は、まだ序の口であろう。ヨハネの黙示録には、小麦1マスで1デナリという記述がある。これは、大まかな計算ではあるが、米換算で10キロでは15万円前後となる。もしそうなれば、大半の日本人は薄いお粥をすするしかなさそうだ。食料自給率がカロリーベースで37パーセント程度でしかない日本は、将来的に食料不足に陥る可能性がある。ただでさえ、食料品にも8パーセントの消費税を課している上に価格高騰では、国民の生活はますます苦しくなる。中央の政治家や官僚は、自分たちさえ食べていければよいとでも思っているのではとの疑問がわく。

 ロシアでは、ソ連崩壊後に食料不足が起きた時、多くの人々はダーチャと呼ばれる近郊にある別荘の家庭菜園で野菜などを栽培し、困難な時期を乗り切ることができた。その点、日本はどうなるのか?都会の人々の中には田舎を見下す人もいるが、食料の供給を担っているのは田舎である。敗戦後の食料不足の時期には、都会から多くの人々が農村部に買い出しに行き、現金だけでなく着物や宝石などとの物々交換で食料を手に入れた。一説によれば、その時足元を見られた都会人の恨みが、後に地方冷遇の政策に結び付いたとのことだが、それはどうであろうか。近年では、農村部の生産者と都市部の消費者が直接取引を行う方法もあり、このような動きは歓迎すべきことだろう。

 日本では、地震や台風に備えて各家庭で食料や水を備蓄する習慣があるので、1週間分程度の備蓄をしている人が大半であろう。都市部の住宅事情では、1年分の備蓄は難しいかも知れず、せめて1ヶ月分程度の備蓄を心がけるのが現実的なところか。アメリカには、数百万人のプレッパーズと呼ばれる、核戦争も見据えて実際的な備えをする人々がいるが、日本では、個人レベルでそこまで徹底した準備はできないであろう。私たちとしては、自分たちでできる備えをしながら、全能の神に信頼を置いて、その守りを受けることが最も確実なサバイバル法であろう。
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命が一番大切(記事No.11)

 昨年来のパンデミックを通して、命の大切さを多少なりとも思い起こした人は多いと思う。身近に新型コロナウイルス感染で亡くなった人がいなかったとしても、連日報道される感染拡大のニュースは、多くの人々に、自分や家族が感染したらどうしようという不安や恐れを抱かせたであろう。また、有名人が亡くなったというニュースは、人々の恐怖心と警戒感を否応なしに高めた。

 日本でも万を超える命が新型コロナで失われているが、ある種の人々にとっては、それもさざ波ということらしい。国内では、これまでの累計で、死者は1万5,000人以上に及んでいる。それに加え、新型コロナワクチンの副反応の疑いがある死者は、直近の厚生労働省の発表でも既に750人を超えており、しかも報告されていない事例が多いとも推測されている。コロナ関連倒産や失業などを苦にした自殺者も含めれば、この1年半で、どれほど死ななくてもよかった人々が亡くなっているのであろうか。

 このような状況の中、私たちは、何よりも命が大切であるとの考え方に立って行動しなければならない。台風や豪雨の際に、天気予報のキャスターなどが、命を守る行動をとってくださいと言うことがあるが、日々がそのように意識せざるを得ない状況であろう。ただし、ひたすら首をすくめてパンデミックをやり過ごすという姿勢は、少し違うのではないかと思う。企業であれ学校であれ、社会的使命というものがある。パンデミックを理由にやるべきことを怠るのであれば、企業ならば、顧客や取引先の信用と支持を失い経営が傾くであろうし、学校であれば、学生・生徒や保護者を失望させ信頼と評判は地に落ちるであろう。やるべきことは、命を守ることを最優先としながら、あらゆる工夫を重ねて、少しでも正常な活動に近づけることではないだろうか。

 それにしても、ここまで国民がやりたい事も我慢して感染防止に努めているにも関わらず、結局のところオリンピックは開催するとは、為政者や利権を貪る者たちは、国民を愚弄するにも程がある。人流を抑制するために都道府県をまたいでの外出は控えて欲しいと呼びかけながら、国をまたいで数万のオリンピック関係者が移動していることと、どう整合性があるのか。濃厚接触者とされたなら2週間は不要不急の外出はしないようと言われるが、オリンピック選手であればPCR検査が陰性ならば競技に出場できるとは意味不明である。このような現実を見るとき、私たち一般国民の生活は利権集団の踏み台にされているように思えるし、命さえも軽んじられているのではとの疑念が強まるばかりである。

 人は誰でも人生において大切なものを持っていると思うが、中でも命は誰にとっても大切であろう。「命あっての物種」という言葉もあるように、多くのものを所有していたとしても、命を失ったら何になろう。イエスは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」と言われた。ここでイエスは、肉体の命のことと霊的な命のこととを重ねて言われている。仮に霊的な命には無関心な人でも、肉体の命には関心があるだろう。であるなら、どのような思想・信条を持っていたとしても、普通は命が大切であることくらいわかる。自分の命は大切だが、他人の命はどうでもいい、という考え方は愚かである。人の命を軽んじる者は、自分の命が軽んじられることは決して無いとの確信でもあるのだろうか?神の前に、人は播いたとおりに刈り取るのである。
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多様性の罠(記事No.10)

 コロナ禍が続く最中、ついに東京オリンピックが始まった。「民族の祭典」ならぬ「利権集団の祭典」とでも呼ぶべき、嘘と賄賂(フランス当局が捜査中と報道されていたが、政治決着があったのだろうか?)で誘致した大会である。多くの国民が新型コロナ対策を優先させるべきと考えている状況の中、強行突破のように開催された。

 開会式で聖火の最終点火者を務めたのは、テニス選手の大坂なおみ氏であった。東京オリンピック開催の是非はさておき、彼女がこれまでに築き上げて来た実績からして、大役を務めるにふさわしい人物であったと思う。知られているように、大坂氏はハイチ系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフである。今回彼女が大役に抜擢されたのは、選手としての華々しい実績に加えて、多様性を象徴するに相応しいアスリートだからであったと聞く。

 スポーツの世界に限るものではないが、世の中には、人種、民族、性別、身体的特徴などの先天的な属性に加え、国籍、経歴、社会的立場、能力など、後天的な属性も様々な人々が共存している。その意味で、既に日本を含めて世界の多くの国々は、多様性に富む社会となっている。モザイク画のように、色も形もそれぞれ異なるピースが組み合わされて、美しい作品となるのであれば、多様性は素晴らしいものとなる。このように、多様性という言葉は、一般に肯定的に受け止められることが多い。

 今や多様性は、国際的な流行語としてだけでなく、各国の政策の中で具現化すべく推進されている。これと似たような世界的流行語には、地球温暖化対策やSDGsなどがある。いずれも、一見正しい取り組みのように映るであろう。しかし、それらの実態は十分検証されて来たのだろうか?私たちは、それらの実態を垣間見るとき、背後にある意図に十分警戒する必要があると気づく。

 話を多様性に絞ろう。ある国家で多様性が声高に叫ばれるようになる時、それは長年続いて来た社会の有様を指しているのではない。それらは、今更強調されなくとも、既にそこに存在するものであるからだ。もし新たに多様性が強調されるようになったなら、そこには、これまでの社会のあり方とは違う何かを実現しようとする意図があると考えられる。人種や民族の多様性が語られるなら、その国の人種や民族の構成が変えられようとしている可能性がある。ジェンダーについての多様性が語られるなら、その国や社会の道徳観や家族観が変化するよう試みられているのかも知れない。

 世界最大の移民国家は言わずと知れたアメリカであるが、WASPの言葉にもあるように、建国以来のマジョリティーは白人のプロテスタント・キリスト教徒であった。その上で、黒人(アフリカン・アメリカン)、ヒスパニック、ユダヤ系、アジア系、ネイティブ・アメリカンなどの多様な人種、カトリック、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教などの多様な宗教を信仰する人々が共存して来た。その紐帯はアメリカ国家に対する忠誠心と、アメリカ的価値観の共有であろうか。人種差別や経済格差などの根深い諸問題はあれども、これまでのアメリカは、結果的に多様性に富む社会を実現し、繁栄を謳歌して来た。多様性を受容することで移民を受け入れ続け、そのことで国家の活力を維持することが可能となったのだ。

 それでは、他の国々も同様に、さらに多様性に富む社会の実現を目指すべきであろうか?もしそうであるなら、どのような手段によってか?ヨーロッパの国々、西欧と北欧であるが、それらの諸国における多様性の実情から学ぶことが出来る。長くなるので歴史的経緯は省略するが、現在のヨーロッパ諸国は、、移民の人口に占める割合が軒並み10パーセント前後から20パーセント台となっている。移民の多数はトルコ、シリア、北アフリカ諸国出身のイスラム教徒であり、キリスト教徒は少数である。その結果起こっていることは、伝統的な文化を含めた社会の急激な変容である。イギリス人ジャーナリストのダグラス・マレーによる秀作、「西洋の自死(原題The Strange Death of Europe)」が明らかにしたように、ヨーロッパ諸国における多様性の実現は、少なくとも代々そこに住んで来た人々に幸福をもたらすことは無かった。

 ヨーロッパ諸国で起きたことを見れば、多様性を追求することが、必ずしも大多数の人々にとって有益とは限らないことが分かる。多様性自体が悪なのではなく、それは調和が取れているならば美しいものではある。悪いのは、自分たちの目的を実現するために、悪意を持って計画的に多様性を実現しようとすることであり、その共同謀議者と実行者らである。彼らにとって、多様性は利用する手段であって、目的ではない。彼らの最終目的はキリスト教の破壊とワンワールドの実現である。それは、悪魔を崇拝する世界統一国家である。今、それに向けて、キリスト教とその価値観を多様性の中に埋没させ変質させる試みが続けられているのである。

 私たちは、美しい言葉であっても、あるいは高邁な理想であっても、その背後の思想や目的を注意深く見極める必要がある。そうでなければ、日本も遠からず、多様性に富みながらも日本人にとっては暮らし難い国になるであろう。
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愛が冷えることについて(記事No.9)

本ブログ記事No.5において、不法がはびこると愛が冷えることを書いた。このテーマは奥が深く、人間の営みの広範囲にその現われが見られることから、今一度別の角度で取り上げてみたい。

イエスは、弟子たちから、世の終わりの時にどのようなことが起こるのかを問われ、挙げられたことの1つが、不法がはびこるので多くの人々の愛が冷えるということであった。この場合の不法とは、神の教えに背くという意味であり、愛は、正確に言えば、神的な愛を表すアガペーの語で語られている。つまり、全世界的なスケールで神の教えがないがしろにされるようになり、その結果として、多くの人々が神的な愛から離れてしまうという意味だ。
 
  神的な愛とはどのような愛か。それは、受ける側に対価を求めない無償の愛であり、無条件に与える愛である。これは、人が誰でも本来持っているはずの愛とは違う。誰もが持っているはずの愛、人間愛とは、家族や友人に対する愛である。家族愛、夫婦愛、兄弟愛、友愛、同胞愛、祖国愛などのことである。ペットに対する愛も含まれるだろう。人間愛は、愛を与えたなら、その対価として愛を受けたいと願う。与えることも、求めることもある愛である。

人間愛は、善を行うものだけでなく、悪を行うものであっても、多くの場合少しは持ち合わせている。人を人と思わないような凶悪犯罪者でも、自分のペットは大事にしたりする。マフィア映画などで部下に平気で殺人を命じるようなボスが、愛犬をいたくかわいがっているイメージである。人間愛には、自分が愛せる対象と愛せない対象とがある。

これに対して、神的な愛とは、どのような対象であっても愛を与える。後は、その愛を受け取るか否かである。神の教えがないがしろにされるなら、そこでは人々が神的な愛を知ることができなくなる。無償の愛を無条件で受けることができるにもかかわらず、その愛を知ることができないとは、何という悲劇であろうか。無償の愛と書いたが、正確には、対価が既に支払われている愛である。そう、2000年前にキリストが十字架の上で。
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何故いじめが悪なのか(記事No.8)

 先日、東京オリンピックで開会式の音楽制作を担当していた、ミュージシャンの小山田圭吾氏が、20数年前に雑誌に掲載された自身のいじめ加害者としての告白が問題視され辞任した。告白内容が反省を語っていたならともかく、その逆で、まるで武勇伝のようだと受け取られたからであろう。いじめの具体的内容が一部に報道されているが、事実であれば犯罪レベルであり、被害者に対する謝罪とそれを受けての許しが無かったならば、今般の辞任は当然であろう。

いじめ自体は人間社会のどこにでも見られる現象であり、日本だけに起こっているわけではない。しかし、他の国々と比べるまでもなく、日本社会におけるいじめは、しばしば悪ふざけの範疇にとどまらない陰湿で凶悪なものである。しかも、子供から大人の社会まで、年齢問わずそれが見られる。その理由は様々考えられる。同調圧力が強い社会であるから、少しでも他人と違った点が目立ったりすると疎まれることもある。出る杭は打たれるということわざもあるように、自分が出来ないことが出来る人に対する妬みも理由の1つであろう。

いじめられる方にも原因があると言う人もいるが、例えそうであったとしても、暴力や侮辱を加える方により大きな非があると断じても良いだろう。ちなみに、嫌いな人とは関わらないと言うのは、時に身を守る方法ともなり得るので、目上の立場の人が目下の立場の人にそうするのでない限り、それ自体はいじめとは言えない場合もある。ただし、他の人々を巻き込むといじめとなり得るから注意が必要である。

今回、小山田氏が批判を浴びた事にも見られたように、いじめ自体が悪であることは、社会の共通認識であろう。であるから、いじめが発覚すると、加害者の社会的立場や状況に応じて程度の違いはあるが、糾弾され世間に対しても謝罪を求められる。学校で児童・生徒によるいじめが隠蔽し切れず明らかになると、校長が保護者集会などで謝罪に追い込まれる。

いじめの加害者や、いじめを防止する責任がある者が被害者に謝罪するのは当然である。しかし、同時に重要なことは被害者のケアと、再発防止のための実効性がある措置であろう。

いずれにせよ、何故いじめが悪であるのか、説得力のある理由が示されなければならない。その理由とは何であろうか?自分が同じことをされたら嫌だから?人が嫌がることを強要してはならないから?人権侵害だから?犯罪だから?社会の秩序を乱すから?いずれも、いじめが悪であることの理由として正しい。だが、もう一つ根本的な理由がある。

私たちがいじめをしてはならない最も根本的な理由とは、人は神に似せて造られた尊い存在だからである。神は天地万物を創造された時、ご自身に似せて人を創造された。それゆえ、人は他の生物には与えられていない霊を有する存在である。人には創造主である神の性質、すなわち神性の一部が分与されているのだ。だから、人をいじめることは、創造主の尊厳を傷つけようとするに等しい。このことは、なぜ人を殺してはいけないかの理由でもある。

私もあなたも、あの人もこの人も、人は皆、神の前に尊い唯一無二の存在である。
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国が貧しくなると言うこと(記事No.7)

 最近、日本が貧しくなったとの話を耳にすることが増えた。実際、1人あたりの国民総生産は購買力平価で1990年の世界21位から、2020年には世界30位と低下している。それでも、世界の国々の中では日本はまだ恵まれた国ではあると思うが、少なくとも先進国と称される国々の中では貧困化が最も進んでいる国に入るであろう。特に母子家庭の状況が厳しいことを反映してか、2020年時点で、全国で5,000箇所以上の子ども食堂が存在している。

日本の貧困化の原因は、大きく分けて2つあると思う。第一に、経済成長が久しく止まっていることである。パイが大きくなっていないのだ。第二に、富の分配が正しく行われていないことがある。パイのピースの大きさに極端な差があるのだ。税制上の問題も、富の再分配の問題として、第二の要因に含めても良いだろう。これらの要因は、いずれも巨大災害など自然的な現象の結果では無く、政策など人為的な行為の結果として生じたものである。

このような日本の現状に対する評価は、寄って立つ思想や哲学により大きく異なる。いわゆる新自由主義的な思想を有する人々にとっては、小泉構造改革以来の約20年で、日本は随分と仕事がしやすく儲けやすい環境になったと考えているかも知れない。いや、構造改革がまだまだ足りないと考えてもいるだろう。一方、社会主義的な思想を有する人にとっては、貧富の格差が拡大している最悪の状況が続いていると捉えるだろう。

どのような思想的立場を取るにせよ、目を向けるべきは、制度や統計的数値だけではない。現にこの日本で生活を営んでいる国民の状況がどうであるのか、政治家だけでなく、学者やジャーナリストなど、社会を常に観察する職業人が有していなければならない視点である。この視点を欠く政治家や各種専門家は、皆偽物と断じても良いだろう。

「衣食足りて礼節を知る」と言う諺がある。イエスも、その教えを聞きに来た大群衆がお腹を空かせている様子を見て気の毒に思われ、超自然的な方法で彼らに十分な食物を与えられた。これは、5つのパンと2匹の魚の奇蹟として、4福音書全てに記録されている。仙人ならいざ知らず、普通は最低限の食事もままならい状況では、自分が生き延びるだけで精一杯である。中には、短絡的に犯罪に走ったり、自暴自棄となり暴発する人もいる。自殺する人もいるだろう。

国が貧しくなると言うことは、人々の生活が苦しくなると言うことであり、犯罪や自殺など様々な社会問題が深刻化することである。物質的な充足は幸福な人生を保証するものではなく、精神的な充足が不可欠ではある。しかし、最低限の生活までも維持することが困難であったなら、どうして精神的に充足出来るのか。国民の精神的幸福のためにも、国がこれ以上貧しくなることは押し止めなければならないと思う。そのためにも、神を信じる人々は、より一層天的な知恵を求める必要がある。
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ギャンブル依存症とスマホ依存症(記事No.6)

来月の横浜市長選挙では、IR誘致の是非が大きな争点になる。現職の林市長はIR推進である。彼女は前回選挙の時にはIRに関する考えを明確には示さず、当選後任期途中で誘致へと舵を切った政治家としては信用のおけない人物と言える。今回の選挙では、何人かの対立候補が名乗りを上げているが、ある程度知名度のある候補者は軒並みIR誘致反対である。

IRとは、統合型リゾートのことを指すが、事実上カジノ中心のリゾートあるいはカジノそのものを意味する。カジノはギャンブルそのものであり、広い意味では競馬や競輪あるいはパチンコと同類であろう。当初は、訪日外国人観光客を主な顧客層に想定しているとされ、彼らの落とすお金が地域に多大な経済効果をもたらすと説明された。しかし、その後、少なくとも勝ち金の課税においては、外国人からは徴収しない方向となっている。

既存の公営ギャンブルやパチンコなどでは、ギャンブル依存症になった人々がいることがマイナスの側面として知られている。ギャンブルのために借金を作り家庭が崩壊したり、遊ぶ金欲しさに犯罪に手を染める者達までいる。親がパチンコに夢中になるあまり、幼い子供を炎天下の車中に放置するケースもあり、毎年何人かの子供達が犠牲になっている。ギャンブル依存症は、大きな社会問題の一つであり、カジノを誘致すればその都市にどんな問題が生じるかは自明の理といえよう。

ギャンブル依存症よりは有害度が低いと思われがちであるが、広がりという点ではそれを上回るものがある。スマホ依存症である。こちらは、直接的に借金や家庭崩壊の原因となることは少ないかも知れないが、場合によっては生命まで失われることもある問題である。

最近でも、踏切の内側で立ち止まりスマホを見ていた女性が電車の接近に気づかず、はねられて死亡する事故が起きている。車を運転しながらポケモンGOのゲームで遊び、死亡事故を起こしたケースもあった。

ギャンブル依存症とスマホ依存症とは、それぞれ依存の対象が異なるが、弊害としては共通点がいくつもある。先に挙げた事例など、事故につながるケースも起きているが、それだけではない。最大公約数的な共通の弊害としては、人生の貴重な時間や労力、お金などが失われることであろう。自制心を働かせて適度な息抜きとして楽しむのであれば、他人がいちいち目くじらを立てる必要は無いかも知れない。しかし、往々にして、ギャンブルやスマホを使ったゲームやSNSなどでは、自制心が効かないことがある。

依存症あるいは中毒と呼んでも良いが、そうなる人々が一定数いると分かっていながらそれらを提供することは、神の視点では不法に該当する。そこには、顧客やその家族らに対する愛は無い。彼らは、いつまで不法を行うことができるのであろうか?
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不法がはびこり愛が冷える(記事No.5)

私は基本的にテレビを視ないので、ニュースはインターネットや紙媒体でチェックしている。経営コンサルタントの大前研一氏は、家族で食事中にテレビなんか視るな、頭が吉本レベルになると言っている。テレビを無批判に視聴することは、思考力を奪い、物事の表象的な面のみに目を留めるが、本質的なことを理解出来なくなってしまうということだろう。

テレビを筆頭に、あらゆるニュース媒体では、連日膨大な量の否定的な内容の報道が流されている。肯定的な事よりも否定的なことを伝える方が視聴率など商業的な側面では都合が良いと言うこと以外に、実際世の中には否定的な出来事が溢れていることの反映であろう。

日々ニュースに接していて感じることは、世の中には余りに非条理や不公正がはびこっていると言うことである。そんなことは古代から人の世の常ではあろう。文明は進歩しても、人間の本質が変わるわけでも無い。いつの世も富や権力をひたすら追い求める人々は絶えること無く、富や権力の前に平伏す人々もまた同様である。

イエスが弟子たちから世の終わりの時のしるしについて聞かれた際に、挙げられたことの一つに、不法がはびこるので多くの人々の愛が冷えるというものがあった。この場合の法とは法律のことではなく、神の法(のり)を指す。当時も不法は多くあったのに、なぜそれが終わりの時のしるしになるのか。それは、不法が、多くの人々から愛を失わせてしまうほどのスケールと根深さをもって世界を覆うということであろう。不法の世界的蔓延と愛が冷えることがワンセットであり、今がまさにそれが多く見られる時である。

最近の例で言えば、先日熱海市で発生した土石流災害の原因を作ったであろう、残土を含む土砂を不正に盛り上げた人物(実行主体は法人であっても、意思決定者は自然人である。)は、自らの利益のためならば、法令を無視するだけでなく、環境を汚染し他人に迷惑をかけることを厭わなかった。人々や自然に対して、少しでも愛があれば出来なかった行為である。このように、不法と愛が無いこととは切り離せない関係である。

鶏が先か卵が先かのようではあるが、不法が台頭 すれば愛が衰退し、愛が台頭すれば不法は衰退する。世の中には不法を行うことを好む者たちが存在し、逆に愛を実践することを志向する人々もまた存在する。その間で揺れ動く人々が多数派なのかも知れないが、どちらの生き方を選択するかで永遠の運命が変わる。現世は確かに大切ではあるが、来世、すなわち死後の世界も確かに存在し、それは人にとって最も重要な永遠の居場所である。
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オリンピック開催の不道徳(記事No.4)

まもなく、東京オリンピックが開催される。各種世論調査によってばらつきはあるが、概ね日本国民の半数以上は反対しているにも拘らず。多くの人々は、このオリンピックが誰のために、何のために開催されるのか気づいており、白けているのではないか。

同時期に、東京都は通算4度目の緊急事態宣言発令下に置かれ、都民の日常生活や事業活動は大きく制約されている。同様に、蔓延防止等重点措置が適用されている府県でも、人々の行動が制約を受けている。はっきりと、たとえ国民の生活を犠牲にしてでも、オリンピックは開催するという意思が現れている。

オリンピック開催の決定権は国際オリンピック委員会が持っているが、招致したのは東京都であり、また、当初から国家プロジェクトに位置付けられていた。開催都市が東京に決定された時には、多くの国民・都民が喜んだと思う。しかし、その後大きく状況は変わった。

独裁国家が国威発揚のために強行開催するなら話は分かるが、民主国家とされている日本で、国民多数の反対意見を顧みず、疫病の流行拡大のリスクも無視して開催へと突き進む様は、誰が言ったか、まさに現代のインパール作戦か本土決戦かといった感がある。

度重なる緊急事態宣言やマン防措置によって、飲食店はもちろんのこと、多くの事業者やそこで働く人々が苦しんでいる。私の知人にイタリアンレストランのオーナーシェフがいるが、彼は4月下旬から2ヶ月間店を閉めていた。常連客のためには開けたいが、行政の定めたルールに従えば、開けるだけで赤字となることから、苦渋の選択で休業していたのだ。彼の料理は極上の味であるが、それだけでなく、研究熱心で、絶えず新メニューの開発にも取り組んでいる。オリンピック開催論者たちは、アスリートたちは長年この時のために人並外れた努力を続けて来たと言う。しかし、努力や精進はアスリートだけのものではない。

多くの国民に大なり小なりの犠牲や我慢を強いてオリンピックを開催することは、はっきり言えば、不道徳の極みである。オリンピック開催によって多大な利益を得るであろう特権階級による、一般国民に対する公然の差別とも言えよう。オリンピックスポンサーでもあるマスコミ各社は、アスリートたちの感動物語をこれでもかと流し、特権階級の宣伝機関としての面目躍起となるであろう。

愛と正義の神の視点に立てば、いやそうでなくとも、少しでも良心と正常な判断力があるならば、東京オリンピック・パラリンピックは中止しかあり得ない。もう一度言うが、この状況下でオリンピックを開催することは不道徳であり、責任ある者たちはいずれ播いた種の実を刈り取ることになるだろう。
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新型コロナウイルスの欺瞞とワクチン接種(記事No.3)

2020年1月に中国武漢で始まったとされる新型コロナウイルスの流行は、短期間で世界の様相を一変させてしまった。ウイルスの起源は諸説あるが、まるであらかじめ準備されていたかのように、急速に管理社会化が進んでいることからも、ある目的のために人為的に生成されたと考えるのが妥当であろう。それが中共政府機関によるものか、あるいは米国など別の国の機関が関与したものかは不明であるが、ワンワールドの実現を最終目的としている集団が首謀したものであろう。

ワンワールドと書くと、しばしば陰謀論と決め付けられることは承知している。しかし、それは聖書が既に預言していることであり、ヨハネの黙示録には、誰が何のためにどのようにワンワールド化を進めるのか、黙示文学の形式を用いながらも詳細に記述されている。そのことについてはいずれ項を改めて書くが、今回の新型コロナウイルス流行は自然発生的なものではなく、あらかじめ計画された人為的なパンデミックであることは疑いない。それは、ワンワールド化を大きく進めるためである。副次的目的には、利権集団が巨額の利益を手にすることも含まれる。

このような視点に立って新型コロウイルスの流行状況を観察すると、その脅威が実体以上に喧伝されているのではという疑問が生じる。もちろん、ウイルス流行自体がフェイクというのではなく、感染、発症し死に至ったり重篤な状態になった人々がいることは事実である。何が不自然かと言えば、社会活動全般の制限や個人の行動をコントロールしようとする施策が、防疫上の要請による緊急避難的な短期的措置に止まらず、各国で恒久的措置として導入されようとしていることである。明らかに、ショックドクトリンのプロセスであると言えよう。

全世界的に展開されている、ワクチン接種のキャンペーンも異常である。各国の良心的な科学者などが、新型コロナワクチンの危険性に警鐘を慣らしているにかかわらずだ。国内では、新潟大学名誉教授の岡田正彦氏がYouTubeで新型コロナワクチンの危険性を解説しているのが分かりやすいが、同氏の警告は、少なくとも政策決定者やマスコミ関係者らの耳には届いていないということだ。ワクチン接種を推進している人々は、特効薬や免疫力の増強には関心が無いようだ。それらは、彼らの目的にそぐわないからであろう。

もちろん、大人が自分の判断でワクチン接種を選択するのは自由である。また、医師が自分の職業的良心に基づき、その結果に責任を負う覚悟でワクチン接種を勧めるのも自由である。大切なことは、為政者であれ、医師であれ、雇用主であれ、他人にワクチン接種をするよう圧力をかけてはならないということである。そうでなければ、いずれ薬害が世界中で広く認められるようになる日が到来した時、彼らは人道に反する罪で法廷に立つことになるだろう。

  神を信じる者たちにとっては、天的な守りと知恵を熱心に祈り求める必要がある時代である。中には、ワクチンに懐疑的であっても、職業上の要請や家族の勧めなどに抗し切れずに、既に接種した人々もいるだろう。そのような場合は、「彼らは、毒を飲んでも決して害を受けない」との聖書の約束を思い起こして欲しい。主なる神の守りは人造の薬物に勝る。恐れずに、神を信頼することが重要である。
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揺り動かされる日本(記事No.2)

 現在の日本の状況を預言的に理解するならば、端的に言えば、揺り動かされている状態であると思う。霊の領域で起きていることが、目に見える領域で起きていることの背後にある。神の御心が成るようにとのクリスチャンたちの祈りと聖霊の働きと、対する悪魔と悪霊たちの激しい衝突である。神の御使である天使たちと、堕落天使である悪霊どもとの戦いでもある。その戦いの中で、神は目的を持って、日本が揺り動かされるのを許されている。

揺り動かされていることの現れとして、現在進行中の新型コロナウイルスの流行や、それに伴うワクチンの接種キャンペーンもそうであろう。政治や経済だけでなく、社会のあらゆる領域が揺り動かされている。もちろん、多くの家庭や個人レベルでも同様であろう。以前の日常が失われ、非日常が日常になっている。揺れ動かされるのは人間の社会にとどまらず、自然もまた同様である。

近い将来、日本列島がまたも大きく揺れ動くことが、即ち、巨大地震が起こるだろう。東日本大震災が発生した時、韓国のある牧師が偶像崇拝に対する神の裁きであると言ったと伝え聞いたが、私はそうであったとは思わない。もし偶像崇拝ゆえの裁きであったなら、日本のみならず、世界の多くの国々で同様の悲惨な自然災害が連続するはずである。偶像崇拝とは、何も異教の神々を礼拝することだけではなく、富に至上の価値を求めることや、無神論国家の党や指導者を絶対視することも当てはまる。東日本大震災は裁きではなく、神の警告の意図はあったのかも知れないが。

なぜ神は、このような揺り動かしを許しておられるのか、それは、それらのことを通じて、人々が神を認めない自己中心の生き方が間違っていることに気づき、悔い改めて、真の神に立ち返るためである。特に権力者、為政者の立場にある人々はそうである。聖書は繰り返し、権力者は神を恐れて正しい政治を行わなければならないと戒めている。正しい政治とは、民を愛しその幸福を願いながら、公正な秤で国家社会を裁くことである。

確かなことは、神は日本と日本人とを愛しておられ、日本の人々が神のもとに立ち返ることを願っておられるということだ。日本が揺り動かされていることは、神が目的を持って許されていると捉えるべきであろう。
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ブログ開設挨拶(記事No.1)

今般ブログを開設するにあたり、筆者である私のプロフィールを少し紹介したいと思う。諸事情により私の本名は伏せるが、どこの誰が書いているか素性が全く不明では、読者が記事内容を評価しようとする時に不親切であると思うからだ。まず名前であるが、フィリップというのは前述のように本名ではなく、私のクリスチャンネームである。名付け親は、私の霊的カバーでもある、ルーマニア出身の預言者である。

私は、現在50代の日本人男性であり、出身地は神奈川県である。今は京都府に在住している。幼稚園と小学校はカトリック系に通い、中学高校はプロテスタント系の中高一貫校に学んだ。両親はクリスチャンではなかったが、子供をキリスト教系学校に入れる親たちの多くと同様に、教育内容が良いという理由で進学させたということだ。このキリスト教系高校に在学中、私はイエスと個人的に出会いクリスチャンとなった。

大学は浪人を経て、最終的にはアメリカの神学大学を卒業した。帰国後は、民間企業の営業マンなど3つほどの職を経験した後、10数年前より中小企業の経営者として働いている。この間、教会では宣教師のアシスタント兼通訳などの奉仕活動を担い、その後10年少々東京都下のある街で教会開拓に従事した。2020年に、神の導きを得て家族と共に東京を離れて京都に移住し、現在は会社経営に当たりながら、次の恐らくは教会開拓の、神の時に備えているのが現況である。

 信仰的には、本ブログのタイトルに「預言的」とあるように、また、先に「霊的カバーである預言者」と書いたように、広義のペンテコステ・カリスマ系の流れに属し、五役者、即ち、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の務めを受け入れている。私たちの諸教会は、教団を組織することはないが、決して各教会・教役者は孤高の歩みをするというのではなく、相互に連絡と親交を保ちながら、小規模ながらも全国レベルまた国際レベルでの聖会を開催し、教理の一致と協力関係の維持・構築に努めている。

以上が私の、クリスチャンとしての歩みを中心とした簡単なプロフィールであるが、次に、本ブログを開設する理由を少し述べたい。実は、ブログを始めたいという思いは、随分と前からあった。もう20年近く前になるが、イギリス人の預言者より、メディアを活用するようになるという預言も与えられている。当初は、それは出版のことを指し示していると受け止めていたのだが、やがて、ネットメディアを含めた意味であると悟った。これまで、遅々として具体的な行動に移さなかったのは、私がITの素人であるということもあるが、多忙を言い訳とした私自身の怠慢が主な理由である。神が度々私に小さな働きからでも始めるようにと促されるので、不従順を改めて、まずはブログから始めようと思う。

本ブログの内容は、一つには、クリスチャンとしての私の視点から見た、人生における様々なテーマについてである。しかし、個人的なことだけでなく、社会における現在進行中の問題についても取り上げることとしたい。むしろ、分量的には、こちらの記事の方が多くなると思う。私は五役者の預言者ではないものの、神から与えられた預言的賜物を用いながら、幅広いテーマを取り上げて、社会の事象について分析と意見を書いてみたい。勿論、本ブログの目的はそこに止まるのではなく、読者に激動の時代を生き抜くに有益な知識と知恵の一部を提供することにある。そして、そのことを通して、最終的にはキリストの福音に到達する人が現れることを心より願っている。
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