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真理は私たちを自由にする(記事No.60)

 今日10月31日は、衆議院選挙の投票日である。私は、数日前に、妻と期日前投票を済ませて来た。京都に移り住んでから、初めての選挙権行使である。昨年は、2月に市長選挙があったのだが、当時は東京に住んでいたので部外者であった。もし、京都市民であったなら、決して現職の門川市長には投票しなかったとは言える。それほど、門川市政は碌でもないものと実感している。今回は国政選挙であるから、日本の今後最大4年間の国家運営を委ねても良いと思える、候補者や政党に投票する訳である。自分の支持できる候補者や政党が無い場合もあるだろうが、その場合でも、批判票であったとしても、投票することが国民の権利であると同時に義務であろう。私は、棄権は白紙委任と同じであり、健康上の支障でも無い限りは、必ず投票に行くべきだと考えている。

 日本では、残念ながら、国政選挙や地方選挙で、投票率が50パーセント前後であったり、それを下回ることも珍しくない。有権者の中には、あらゆる選挙において、投票しない人々もいるだろう。一方で、台風でも大雪でも、必ず投票に行く人々もいる。組織政党と言われる、公明党や共産党の支持者などはそうであろう。投票に行くことが国民として正しい訳だが、どの候補者や政党に投票するかは、他人から薦められることはあったとしても、決して強いられるべきものでは無い。まして、政党や政治団体でも無い企業や宗教団体などが、その社員や信者に対して、特定の政党や候補者に対しての投票を、事実上強制することがあってはならない。もし、例えば宗教団体などが、信者に対して、特定の政党や候補者への投票行動を、信心や宗教的行動とも結びつけて押し付けるならば、そのような組織は、本来は宗教団体の看板を下ろすべきであり、それが宗教法人ならば解散するべきであろう。

 このように書くのも、投票行動は、私たちの思想や信条の発露の1つであって、内心の自由に関わることとして、他人から干渉されるものでは無いからである。自由と言えば、カナダのある病院で看護師として勤務していた女性が、最近、コロナ・ワクチン接種を拒み続けたために解雇された際に語った言葉が印象に残ったのだが、彼女はこう言っていた。「私は、救いの次に大切なことは自由だと信じています」「救い(Salvation)」という語を使っていたことと、その後で、「主(Lord)」と言う言葉も使っていたので、恐らくクリスチャンであって間違いないだろう。私も、彼女と同じ考えである。私たちの主であるキリストが、なぜ十字架にかかられたのか。それは、私たち人間の身代わりとなって罪の罰を受け、私たちを罪の束縛から解放し、自由を得させるためであった。ここで言う罪とは、創造主である神から背を向けた状態のことであり、それによる、あらゆる悪しき心や行いのことである。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳)


 今日の総選挙で選出される、選良とも呼ばれる国会議員たちは、当選後も日々国政に関する勉強に励むはずである。(少し嫌味かも?)特に新人議員などは、国立国会図書館をよく利用する人たちもいるだろう。もっとも、国会図書館は原則として誰でも利用出来るので、一般市民の利用者の方が多いのであろう。その国会図書館の東京本館ホール中央出納台の上には、「真理がわれらを自由にする」と言う言葉が、日本語とギリシア語で刻まれている。その由来は、国会図書館のホームページで説明されているので、詳細は省くが、国立国会図書館法の制定に参画した、参議院図書館運営委員長羽仁五郎議員(当時)が、ドイツ留学中に見た大学の銘板を基に創出したとされる。なぜ、日本語に加えてギリシア語でも刻まれているかと言えば、その銘文は、(原語はギリシア語であった)新約聖書の1節を記したものであったからである。そして、国立国会図書館法の前文にはこうある。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される」

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳)


 日本国憲法には、国会は国権の最高機関と規定されている。日本国の最高機関である国会により設立され運営されている国会図書館は、設立当時の国会議員たちが知ってか知らずか、聖書的な理念に基づき創設され、その理念は、今なおその根拠法と建物の中に刻み込まれているのだ。ああ、もし多くの国会議員たちが、その理念に立ち返ることが出来たら、少なくとも、国民を幸せにする政治を、本気で実現しようとするのではないか。私たちは、政治家の有様に憤ったり嘆息するだけでなく、神を畏れ真理に固く立つ政治家が起こされるよう、忍耐強く祈り続けなければならない。
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深く考えないことの末路(記事No.59)

 昨日から今日にかけて、札幌に出張して来たのだが、日中は気温が17度近くもあり、歩くと少し汗ばむ程であった。新千歳空港に到着した時には、ほとんど陽が落ちていたので、空港から札幌に向かう快速エアポートの車窓からは、外の景色は夕闇に紛れていた。帰路は昼間であったので、空港に向かう列車の窓外には、所々紅葉の林が美しく過ぎて行った。北海道は、真冬を除けば過ごし易く、自然豊かで魅力的な地である。最近言われるようになった、ワーケーションを、夏から秋にかけての北海道で実践出来たらと願ってもいる。

 さて、本土に生まれ育った私から見て、魅力溢れる北海道であるが、札幌を除けば、必ずしも繁栄しているとは言えない。かつての基幹産業の衰退や、全国的現象でもある、農漁村部の過疎の深化などで、どちらかと言うと活力が失われつつある自治体が多い。コロナ前のインバウンドによる経済効果も、道全体を活性化させるまでには至っていなかった。活力低下の根本的原因としては、一番は、明治以来の中央集権的な画一的行政システムと、それを所与のものとして受け入れて来た道民の意識があるだろう。もちろん、それは、北海道に限らず、全国的に言えることである。

 衰退しつつある自治体の中には、起死回生を図ろうと、中央政府がぶら下げる、特定の補助金や交付金といった、人参に飛びつくところも出てくる。人参を得るには、対価を支払わなければならないのは当然である。自治体が、つまりは、地域住民が支払う対価とは、往々にして、当座は大したことが無いように思えても、時が経つにつれ、確実に多くのものが失われていくものである。10月26日に町長選挙の投開票が行われた、北海道寿都(すっつ)町も、人参に飛びついた自治体の1つである。

 20年振りという今回の寿都町長選挙では、高レベル放射性廃棄物最終処分場選定に向けた文献調査の継続が最大の争点となったが、現職の片岡晴男氏(72)が対抗馬の前町議を下し、6選を果たした。争点となった文献調査は、片岡町政5期目の2020年8月に、町長が町議会への提案を経ずに、突然応募を表明したものである。寿都町は、同年10月に原子力発電環境整備機構への応募を行った。その後、是非を問う住民投票条例の制定案が住民直接請求により町に提出されたが、同年11月の議会で否決されている。確か東京新聞に掲載されていたと記憶するが、片岡町長は、文献調査応募について新聞記者から問われ、「いいじゃないの、深く考えなくって」と答えていた。

 文献調査そのものは、建前上は放射性廃棄物最終処分場の選定決定を前提としたものでは無いが、北海道や寿都町の周辺3町村は、調査自体と、それによる20億円と言われる国からの交付金受け取りを辞退しており、寿都町の独走が際立つ形となっている。寿都町には、今後どれくらいの交付金が配分されるのかは、現時点では明確でないが、人口2830人(2021年3月末時点)、年間町予算約55億円(令和3年度)、その内町税収入は僅か4パーセントの小自治体とすれば、かなりインパクトのある収入になるだろう。

 原子力発電所など、核関連施設を誘致することは、その地域にどんな影響を及ぼすことになるのか。近視眼的には、それなりに大きなメリットもあるだろう。国からの交付金収入などに加えて、電力会社などからの様々な協力金もある。それらにより、道路や町施設の整備も進む。原発や関連企業での雇用も創出され、勤労者が増えれば、税収増や経済効果も期待出来る。しかし、デメリットもまた大きい。福島第一原子力発電所の事故では、首都圏を含む広域が放射能汚染されてしまった。チェルノブイリ基準では、居住禁止となる汚染度の地域にも、国や福島県は住民を戻そうとしているのが現実にある。

 長期的なデメリットは、ひとたび事故が発生したなら、周辺地域が重度に汚染されることだけではない。原発などの日常運転でも、放射性物質が環境に放出される。この点を、核関連施設誘致推進の旗を振る人々がどう考えているのか、分かりやすい実例がある。敦賀原発や、建設以来1度もまともに稼働せずに国費を食い潰して来た、高速増殖炉もんじゅが立地する敦賀市の、高木孝一市長(当時)が、1983年1月に、石川県志賀町で開催された講演会で語った言葉である。「協力金で棚ぼた式のまちづくりが出来るからお勧めしたい。」、「50年後、100年後に生まれる子供が皆かたわになるか分からないが、今の段階ではやった方がよいと思う。」と、当時志賀原発の誘致を進めようとしていた町で語ったのだ。ちなみに、この高木市長は、あの高木毅元復興大臣の父である。血は争えないとも、思わせてくれる親子ではある。

 寿都町が候補地選定調査に手を挙げた、放射性廃棄物最終処分場は、その辺の産業廃棄物処理場(これはこれで問題もあるが)とは全く別物である。公表されている中では、現在世界で唯一の放射性廃棄物最終処分場である、フィンランドにあるオンカロは、堅い岩盤を地下400メートル以上も掘削して整備された。その想定保管期間は、何と10万年である。私は、聖書の記述を信じる創造論に立った歴史認識を有しているが、それに基づけば、10万年前は、この地球自体が今の形では存在していなかった。あるいは、進化論に立っている場合でも、10万年前と言えば、人類の祖先がアフリカに出現した頃であろう。日本列島は、ユーラシア大陸と陸続きだった頃である。

 高濃度放射性廃棄物の最終処分場を設置することは、本来ならば、10万年単位で物事を計画するべき事案である。どう理論を飛躍させても、10万年間安全に保管出来る確証など得られるはずも無い。この一事を以てしても、原子力発電とは、現在だけでなく、未来の人々にも重荷を負わせる、明らかに利己的で不道徳なシステムだと確信する。そして、それは、ほとんど全ての利益は自分たちに、不利益は後代を含めた他者に付け回す仕組みである。私たち今に生きる者たちは、将来の世代に、豊かな国土と、そこに根を張る人々の活き活きとした暮らしのある社会を、受け継いでもらう責任があるのではないか。

「彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう」(ヨブ記 20:21 口語訳)


 深く考える必要は無いとの、片岡寿都町長であるが、残念ながら、町民多数の民意により再選されてしまった。まだ最終処分場設置が確定した訳では無いが、このまま進めば、片岡町長だけでなく、彼を支持した町民も、未来の人々から厳しく責められることになるだろう。後は野となれ山となれか、あるいは、我が亡き後に洪水よ来たれのメンタリティか。その時、豊かな自然に恵まれた寿都町は、寂れた生気も魅力も無い田舎町として、北海道の片隅に、ひっそりと佇むだけであろう。
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分断して統治せよ(記事No.58)

 衆議院選挙が公示され、各地で政党や候補者による選挙運動が繰り広げられている。いつの頃からか、日本では、選挙公約は破られることが普通になってしまい、マスコミはもちろんのこと、有権者も公約不履行に対してあまり厳しい目を向けなくなってしまった。であるから、選挙公約の実質とは、政党が真面目に実現を図るべき、国民との約束ではなく、単なる政治的スローガンのようなものであろう。そうは言っても、各政党の公約には、日本をどこへ導こうとしているのか、そのメッセージを読み取ることは出来る。

 今総選挙の公約の中で、特に気になる点は、ワクチン・パスポート(接種証明書)の導入に関する政策である。政党レベルでは、国政政党の中では、ワクチン・パスポートの導入を図ると明確に打ち出しているのは、自由民主党だけである。その他の政党は、仮に導入に前向きであったとしても、選挙公約化はしていない。なぜ私が、ワクチン・パスポートの導入公約に着目しているのか。それは、導入されれば、国民の自由を束縛すると同時に、ワクチン接種の有無によって、国民の間に分断が生じるからである。

 かねてから書いているように、ワクチン・パスポートは、国民の健康を守るためのものではなく、国民の管理を強化するための方策であると受け止めて良いだろう。新型コロナ・ワクチンは、現在治験中のワクチンであり、その有効性や安全性は、接種を進めながら確認されるであろうものだ。また、接種の結果健康被害が生じたとしても、ワクチンを供給する製薬会社は、免責される契約であると言われている。ワクチン・パスポートを既に導入している国々で、未接種者がどのように社会活動を制約されているか、その実態は、意図的な差別であり、類別であると言える。

 昨年から続くパンデミックと世界的なワクチン接種推進は、明らかに各国で国民間の分断をもたらしている。各国政府が、国民の間に分断を生じさせる意図は無かったと考えることは、あまりに無邪気であろう。なぜなら、分断を生じさせないような政策は採られなかったからである。日本においても、今後ワクチン・パスポートが導入されたならば、接種者と未接種者の間で分断が生じることになるのは確実である。既に、職場内や学校内で、あるいは時には家庭内でさえも、ワクチン接種が正しく、非接種は誤りであるといった、非科学的かつ差別的な考え方と、分断が生じているところがあるだろう。

 収容所国家に堕してしまったオーストラリアなど、いつくかの国々では、ワクチン接種をしない人は、公衆衛生上の脅威と見做していると言う。しかし、感染症を予防するために、ワクチン接種ではなく、自然免疫力を高める努力をすることを選択した人々が、なぜ社会の脅威になるのか、そこには何らの科学的根拠は無い。あるのは、ワクチン接種が最も有効で不可欠な感染症対策であると、あらかじめ結論付けた各国政府や一部の研究機関及び報道機関による、都合よく提示された数字やパフォーマンスだけである。

 このように、国民の間に分断をもたらしている元凶は、(共産主義国などを除き)民主的に選ばれているはずの政府であることが分かる。これは、異常ではあるが、特別なことでは無い。古今東西で、独裁的な性質を有する為政者が行なって来たことである。「分断して統治せよ」あるいは、「分割して統治せよ」と言う言葉を、聞かれたことがあるかも知れない。この言葉は、古代ローマ帝国で既に存在していたと聞く。しかし、最もそれを有名にしたのは、世界中に植民地を有していた、かつての大英帝国であるだろう。彼らの植民地統治の基本は、被支配民らの中で、民族的、宗教的に少数派を社会の要職に登用し、多数派を支配させるという、間接統治の手法であった。

 少数派に支配された多数派は、当然のことながら、自分たちを直接支配する者たちに憎悪や嫌悪の念を抱く。本来は、彼らの共通の敵は、植民地統治の大本の宗主国であるにも関わらず、被支配民同士で敵対することで、大英帝国は安泰となると言う仕組みであった。これと同じ統治手法は、歴史を見れば、多くの国々で行われていたことである。そして、現在進行形で、世界の多くの国々で行われていることでもある。もし、私たちが歴史の教訓に学ぶのであれば、国民の間に分断を生じさせるのが確実な政策は、断固拒否するべきであろう。私たちは、たかがワクチン程度のことで、互いに裁き合ったり、反目し合ったりすべきではない。国民にとって重要な課題は、他にも山積しているのだ。

 いくつかの国々の統治者たち、特に世界統一国家の実現を願う者たちは、国民が彼らの推し進める政策に疑問を持たず、ただ羊のように黙々と従うことを求めている。疑問を持つ者や従わない者は、社会から排除し、そのことを他の人々が疑問に思わないように仕向ける。ワクチン・パスポートは、そのための効果的な手段となっている。現時点で、英国がワクチン・パスポート導入を一旦見送り、北欧諸国も導入しないことを決めた。また、米国でも、これまでに導入を決めたのは、ニューヨーク、カリフォルニア、ハワイの3州だけである。既に導入されているフランス、イタリア、カナダ、オーストラリアなどでは、激しい反対運動が継続中である。世界中で、決して少なく無い人々が、ワクチン・パスポートに隠された意図を見抜いていることには、一筋の光明が見出せるであろう。このような世界を生き抜くためには、神からの賢明さと、神に対する素直さが共に必要である。

「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(マタイによる福音書 10:16 聖書協会共同訳)
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ある鐘にまつわる話(記事No.57)

 京都に移り住んでから1年半ほどになるが、この街の良い面と悪い面、好きな部分と嫌いな部分など、次第に明確に認識出来るようになった。否定的な面も多くあるが、それらを書くと、拙文を読んでくださる方の徳を高めるとは限らないので、今回は、肯定的な面の1つを取り上げたいと思う。その京都の良い点、魅力的な点の1つとは、散歩に適した場所が多くあることである。今朝は、右京区花園の近くに用があり車で出かけたのだが、時間が少しあったので、車を駐車場に停めて周辺を散歩してみた。冷涼な秋風が吹いていたが、陽が出ていたこともあり寒くはなく、散歩日和であった。

 花園には、妙心寺という臨済宗の禅寺があるのだが、散歩してみると境内は随分と広く、ゆっくり全域を歩けば1時間以上かかるかも知れない。公式ホームページの案内によれば、その境内には、46の塔頭(たっちゅう)寺院(大きな寺の中にある小寺院)があると言う。たまに近所の人と思われる通行者とすれ違う以外、観光客はほぼ皆無であり、静かに散歩することが出来た。ちなみに、妙心寺は、境内に入るのに拝観料を払う必要はなく、宗教法人の免税特権を得ているとは言え、誰もが自由に境内を通行できるとは、数ある京都の寺院の中でも良心的な寺のようである。

 清掃が行き届いた境内通路を散歩しながら、随分と建物や塔頭が多くあるなと思っていたのだが、ある山門の前を通った時、その春光院と言う塔頭の門前に、銀色の金属製の案内板が設置されているのが目に入り、引き寄せられるように近づいて、その案内板に見入った。その案内板には、1つの鐘の絵が描かれており、説明文は全て英語で書かれていた。何と、案内文に描かれた鐘には、IHSの文字と十字架が記されていたのである。「IHS」とは、ギリシャ語の「イエス(イエースース)」の綴りの最初の3文字であり、イエス・キリストのシンボルとして、ローマ・カトリック教会などで伝統的に用いられて来た。英語で書かれた説明文は、明らかに外国人観光客を意識したものであろうが、近くには、日本語や中国語の説明文が記された別の木製案内板もあった。

 その鐘の由来はこうである。元々その鐘は、キリスト教禁教令が出る前に、京都にあったキリスト教会、当時の呼び方で南蛮寺に設置されていた物であると言う。禁教令の後、南蛮寺は破壊されたが、その鐘は仁和寺などを経て、やがて春光院に移されたそうだ。禁教令で、日本全土のキリスト教会や神学校、福祉施設などは全て破壊され、十字架やロザリオなどキリスト教に関連する物は全て破棄された。しかし、各地で膨大な数の宗教用具や信仰を象徴する意匠などが施された物品が、幕府の激しい弾圧にも関わらず隠匿されたことは想像に難くない。春光院に保存されている鐘も、その1つである。今回は、春光院は関係者以外立ち入り禁止になっており、鐘の実物を見ることは出来なかった。帰宅してから、春光院の公式ホームページを見てみると、戦争中に軍部が武器製造のために各寺院から鐘を供出させた時にも、当時の住職は、受け継いだそのキリシタン鐘を酒樽に入れて竹藪に隠し、守り抜いたとのことである。

 鐘の他にも、春光院には、キリスト教のシンボルが隠されている花鳥図の襖絵があると言う。実は、全国各地で同様に、キリシタン遺物やキリスト教のシンボルが隠された墓や灯籠などが遺された寺院がある。名古屋にある、浄土宗寺院の栄国寺もその1つであり、何年か前に、名古屋在住のクリスチャン実業家の友人らに案内してもらったことがある。栄国寺の境内には、キリシタン遺跡やキリシタン灯籠などのキリスト教遺物が残されており、寺内には切支丹遺跡博物館がある。徳川幕府の禁教令の下、1664年にキリシタン200余名が処刑された刑場跡に、当時の尾張藩主徳川光友の意向を受け、刑死者を弔うために、1682年に建立されたのが当寺であると言う。以来、340年近く経つ今日に至るまで、歴代浄土宗門徒の方々により、刑死(キリスト教の立場から見ると殉教)したクリスチャンたちが弔われて来た。その慈悲深い行いは、宗教の違いを超えて、ありがたいことであり、カトリック司教が感謝の意を捧げるために訪れたこともあると聞く。

 なお、栄国寺周辺では、江戸期より大火の記録が無いとのことであるが、戦時中に名古屋が広範囲わたり空襲に遭った時にも、栄国寺一帯に投下された焼夷弾は全て不発弾となり、当寺の付近のみは被災を免れたと言う。禁教下に始まり、絶えることなく、殉教したクリスチャンを弔い続けて来た栄国寺とその門徒に対する、神の恵みがあったためであろう。京都の春光院もそうであるが、父なる神は、その子供たちであるクリスチャンたちに善意を示してくれた人々に、恵みを以って報いを与えて下さることが分かる。今日は、30分ほどの散歩ではあったが、仏教寺院で思いもかけず、嬉しい発見をした心地良い散歩となった。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイによる福音書 10:42 口語訳)
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血の責任(記事No.56)

 一昨日、夕方に用件があった東京に向かうため、京都駅13時1分発新幹線に乗車した。ところが、滋賀県内を走行中に車内放送があり、豊橋駅で線路に立ち入った人が列車に接触したため、私の乗車していた新幹線も途中で止まるという。程なくして、列車は停止、暫くしてから岐阜羽島駅まで移動し、そこで運転再開を待つと言う。停車中に何回か車内放送があったのだが、その度に運転再開予定時刻が延びて行った。ようやく運行を再開したものの、今度は先行列車で急病人が出たため救護活動中とのことで再度停車し、結局約4時間遅れとなった。

 翌日の新聞報道では、豊橋駅で通過中の新幹線のぞみ号に人が接触し、遺体は損壊が激しく、性別も年齢も不明とのことである。また、豊橋駅には、ホーム柵は設置されていなかったと言う。状況からすると、ホーム転落事故ではなく、自殺であろう。接触と言うよりも、衝突であり、遺体は原形を留めず四散したため、現場検証が長時間に及んだのであろう。鉄道自殺とは、かくも悲惨な結果となる。

 いつの頃からか、首都圏や関西圏の鉄道路線では、飛び込み自殺が毎日のように起こるようになった。自殺数もほとんど人口に比例すると仮定すると、首都圏では特に多い訳である。私も、数年前までは満員電車で通勤していたので、特に朝の時間帯は、毎日のように、どこかの路線で人身事故と称される鉄道自殺が発生し、しばしば電車の遅れを体験した。以前は、長時間満員の電車内に缶詰になったり、予定に遅れそうになると、鉄道遅延の原因を生じさせた自殺者に対して、迷惑なことをするなとも思ったものである。

 ところが、10年くらい前に、当時開拓していた教会の礼拝に、自殺願望を持っていたと言う女性が出席し、彼女の話を聞いたことをきっかけに、鉄道自殺に対する受け止め方が変わった。その女性の話では、死にたいといつも思っていた時期には、駅のホームに立ち、電車の近づく音が聞こえて来ると、今飛び込んだら楽になるだろうなという思いがよぎり、体が線路の方に引き込まれそうになったのだと言う。なるほど、鉄道自殺者を図る人が、遺体となった自分の姿や、他の人々の迷惑など考える余裕は無いであろう。

 こうなると、鉄道自殺が起きる原因は、自殺志願者の方にあると言うよりも、分かっていながら十分な対策を実施しない、鉄道会社や主務官庁である国土交通省の怠慢にあるのであろう。今回事故が発生した豊橋駅のように、新幹線の駅でさえも、未だにホーム柵が設置されていない所があるとは、安全よりも利益追求を優先させるJR各社の体質が端的に現れている。多くの私鉄各社も、同様の体質があると思う。自動改札機の設置スピードに比べて、ホーム柵やホームドアのそれは、明らかに遅いという事実からも、そのことは明らかであろう。

 多くの場合、自殺者は、精神的に追い詰められることで、自ら死に至るのであろう。しかし、それはまた、霊的な問題でもある。人が重苦しい精神的問題を抱えると、そこに悪霊が足場を築くことがある。そして、自殺を促す死の霊に囚われてしまうと、思いの中に、死にたいという願望が強くなっていく。周囲に親身になって手を差し伸べてくれる人がいれば、助けを得られることもあるだろうが、そうでない場合は、最悪の結末として自ら死を選んでしまうことにもなる。自殺者は自らの選択の実を死という形で刈り取るが、その死に対する責任を有しているのは、往々にして当人だけではない場合がある。いじめ自殺などは、死に追いやった者たちや、いじめを止めさせるべき立場だった者たちに、全面的な責任があるケースと言えよう。

 鉄道自殺の場合も、責任があるのは自殺者当人だけではない。むしろ、防止できる技術的方策がありながら、それらの導入を様々な理由を見付けて怠って来た、鉄道会社各社の歴代経営陣と、国土交通省の歴代大臣と幹部たちに大きな責任がある。彼らは、これまでに鉄道自殺した夥しい人々の血の責任を負っている。その責任を人々は見逃したとしても、神は知っておられる。責任を負っている人々は、これまでの不作為の罪を悔い改めて、実効性のある自殺防止策の導入を急ぐべきであろう。

「『できなかったのだ』などと言っても 心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される」(箴言 24:12 新共同訳)
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預言的ミニストリー(記事No.55)

 昨日、東京都内にある教会で奉仕をさせていただいた。礼拝メッセージ(説教)と、礼拝後には希望者に対して個別に祈る時を持った。祈りの時間には、その教会の牧師同席のもと、礼拝堂の片隅で順番に祈らせていただいた。私たち新約教会では、牧師などの教役者が兄弟姉妹のために個別に祈る時には、しばしば個人預言が伴う。私自身は預言者ではないが、そのような機会には、預言的賜物を用いて務め(ミニストリー)を行う。昨日も同様であり、祈りと個人預言がセットであった。

 個別の祈りや個人預言の中身については、当然書けるはずもないが、幸い兄弟姉妹に励ましを与えることは出来たようである。預言者の中には、祈る時にビジョンが見える人もおり、その場合は、それに伴って示しが与えられる。その示されたことを語るとき、それは預言となる。私の場合は、祈る時に印象(イメージ)が与えられることが多い。過去に、あることについて、その中身だけでなく、時期もピンポイントで示されたことがあったが、それは特別な体験であり、私の場合普段は、未来の出来事を期日付で指し示すような示しは与えられない。

 預言や預言ミニストリーについては、キリスト教会の中でも、否定的な考えを有しているところも多い。個々のクリスチャンについても同様である。預言とは、聖書の言葉そのものがそうであり、預言者とは、聖書の言葉を語る者がそうであるという考えである。私も、その考え自体には同意する。同時に、現在においても、預言の賜物は与えられ得るものであり、預言の働きに召されたクリスチャンも存在することを信じている。預言については、聖書解釈が大きく分かれてはいるが、それらの考え方の違いに関する詳細は、興味のある方が自分で調べていただきたい。

 これは、癒しや解放のミニストリーや異言(聖霊の霊感を受けて、知らない言葉で祈ること)を語ることについても言えるが、行き過ぎや混乱を警戒するあまり、それらの賜物や働きまでも否定することは、残念であり、もったいないことである。預言の場合も、聖書に基づくガイドラインに沿った用い方をしないと、混乱や弊害が生じる場合もある。また、神の霊ではない、別の霊による惑わしにも警戒する必要がある。個人預言の場合も、その人自身の悩みや問題について何か聞いている場合には、先入観が入ることを防ぐために、余程明確に示されない限りは、あえて語らない方が良いと思う。であるから、昨日祈った際も、相手が自ら話さない限り、祈りの課題については聞かず、ただ示されたことを語った。

 神から示されて語られた真の預言は、人を慰め、励まし、建て上げる結果をもたらす。逆に、人を傷付け、落ち込ませ、混乱させるならば、それは真の預言ではなく、それを語った者は、神の霊で預言したのではない。全ての霊的務めがそうであるように、預言とそれを語る者もまた、その実によって判断されるべきである。中には預言と称して、実は人々をコントロールしようとしているケースもあるので注意を要する。また、預言を受けたいと願う者は、それが占いとは違うことを認識している必要がある。占いは聖書が明確に禁じている。何か選択に悩んでいる時には、まずは、自分で神に祈って導きを願うべきである。その上で、預言によっても確認が与えられるなら感謝なことである。

 あらゆる預言的ミニストリーにとってそうであるが、クリスチャンとしてのいかなる務めや働きにとっても、最も欠かすことの出来ない要素は、愛があることである。神の愛によって動かされる時、自己中心的な動機は潔められ、自らに栄光を帰すような思いは消し去られる。であるから、どんな務めを行うにしても、まず、神の愛を求めることが大切である。愛に基づいて預言を語るのであれば、相手を支配しようと思うはずは無く、まして、それを通して金銭的・物質的な利得を得ようとはしない。預言的ミニストリーに携わりたいと願うならば、神の愛を祈り求めることから始めるべきであろう。
 
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(コリント信徒への手紙一 14:1 聖書協会共同訳) 
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誰の力によるのか(記事No.54)

 先週、ある有名女子大総長の講演を聞く機会があった。自ら積極的に参加を申し込んだとは言えないのだが、仕事絡みで案内され出席して来た次第である。講師は、長く官僚を務め、その後大学教員となり、トップに上り詰めた優秀な女性である。講演のテーマを書くと、その人が誰だか分かってしまうかも知れないので、その部分には触れないことにする。なぜなら、はっきり言って、話の内容は面白く無かったからである。私大総長という公人ではあるが、政治家や官僚のような公職者では無いので、一方的な批判は控えようと思う。

 その講演の中で、コロナ禍にあっても、危機をチャンスに変えることが出来るという話があった。お説ごもっともではある。誰もが、この状況をチャンスに変えられるものなら、変えてみたいと思うだろう。実際、コロナ禍を絶好のビジネスチャンスと捉えて、大きく売り上げを伸ばしている企業や、収入や資産を増やしている人々もいるだろう。それはそれで、公正な競争の中での結果であれば、決して非難されるべきものではなく、むしろ、実力や才能があるということであろう。

 私が気になったことは、危機をチャンスに変えるのは、誰の力によるのかということである。もちろん講師は、それは自分自身の力だと言いたいのであろう。確かに、人はそれぞれ、自分の内側に力を秘めていると思う。だが、その力を十二分に発揮している人もいれば、全く発揮出来ていない人もいる。今回の講師のように、社会的には誰もが認める成功者であるならば、これまで自分の力をよく発揮して来たであろうし、そのための努力も人一倍重ねて来たはずである。その点は、賞賛されるべきかも知れない。しかし、世の中には、自分の力を上手く発揮し切れていない人々も多い。それは、必ずしも、それらの人々の努力が足りなかったのではなく、人生の歯車が思うように噛み合って来なかったという場合もある。

 当たり前のことではあるが、人生が常に右肩上がりということはあり得ない。それを停滞期というか、踊り場というか、あるいは暗黒時代と言うかはさておき、誰でも困難な状況に直面することがある。自分の努力や精神力で、そのような状況を乗り越えられる人もいるだろう。多くの場合は、家族や友人の助けを借りて、困難を乗り越えるのであろう。それはそれで、人の優しさにも触れることが出来る良い機会ともなるだろう。しかし、誰もが周囲の人々からの助けを常に得られるとは限らない。苦難の中で、誰からの助けも得られずに、一人苦しみもがく人々もいる。自分の力はもとより、他の人々からの力も得ることが出来ない状況に陥るケースもある。

  人の力は有限であり、それは、頼れる場合もあれば、頼れない場合もある力である。自分自身の力も、人々の力も、組織の力も、いや国家の力さえも、それは有限であり、絶対的な力とは言えない。私たちが、それらの力に全幅の信頼を置くだけであるなら、コロナ禍に象徴されるような想定外の困難の中で、常に状況を乗り越えて行けるとは限らない。しかし、この世の全ての力を合わせたよりも、遥かに偉大な力を持つ方がいる。神である、イエス・キリストである。私たちが、困難や問題に直面した時、自分の力が足りないことを率直に認め、神の前にへりくだって、その助けを願い求めるのであれば、神からの偉大な力が私たちを強くしてくださる。例え私たちは弱い者であったとしても、神の内にあって強い者とされ、困難な状況を突破して行くことが可能となるのだ。この偉大な力を、是非とも自分のものとしていただきたい。

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ人への手紙 6:10 口語訳)
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暗殺者の影に(記事No.53)

 最近、東京都内の駅や鉄道などで、通り魔事件が相次いで発生している。昨日も、上野駅構内で、男性2人が相次いで男に刺され負傷する事件があった。報道によれば、40代の犯人と、被害者2人には面識は無かったようである。今年8月には、小田急線車内で、30代の男が牛刀で乗客に襲いかかり、10人が重軽傷を負わされる事件が起こっている。同じく8月に、無差別の通り魔とは違うが、地下鉄白金高輪駅改札口付近で、20代の大学生の男が、知人の20代男性に硫酸をかけ、失明寸前の重傷を負わせる事件が発生している。昔から通り魔事件はあったが、連続して発生すると、最近この種の事件が増えている印象を持つ。

 さて、海外に目を向けると、イギリスで現地時間10月15日昼ごろ、エセックス州リーオンシーの教会で開かれた、有権者との対話集会に参加していた下院議員のデービッド・エイメス氏(69)が、25歳の男に刃物で複数回刺され死亡する事件が発生した。ロンドン警視庁の発表では、犯人は単独犯で、イスラム過激主義と関連している疑いがあるとのことだ。また、地元紙は、犯人をソマリア系と報じている。殺害されたエイメス議員は、保守派で、ブレグジット(EU離脱)推進派だったと言う。事件の背景に関する警察の迅速な発表に、何か不自然さを感じ少し調べてみた。イギリスの独立系インターネット・ニュース・サイトなどの報じるところでは、エイメス議員は、ワクチン・パスポートの導入に強く反対していたという。

 こうなると、犯人が本当にイスラム過激主義に影響されて殺害を実行したのか、疑問が生じる。イギリス国会では、まもなく、エイメス議員の主導で、ワクチン・パスポートに関する緊急討議が行われることになっていたと言う。その国会討議の直前に、ワクチン・パスポート導入反対の中心的議員が刺殺されたことが、果たして偶然であろうか?私は、この事件に既視感にも似た、日本で起こったある事件との相似形を感じざるを得ない。それは、2002年10月25日に発生した、石井紘基衆議院議員(当時61)の殺害事件である。民主党(当時)議員であった石井氏は、その日、国会に向かうために東京都世田谷区の自宅から出たところ、待ち伏せていた自称右翼団体代表の伊藤白水に刺殺されたのである。

 殺害犯の伊藤は、警察の取り調べに対して、石井議員に借金を申し入れたが拒否されたことで恨みを晴らすために殺したと供述した。裁判では金銭トラブルという動機は信用できないとされたが、真の動機が解明されることは無く、無期懲役の判決が確定した。ところが伊藤は、刑務所で彼と面会したテレビ朝日記者の質問に答えて、裁判での証言は出鱈目であり、実はある人物から頼まれてやったのだと告白したのだと言う。彼は結局、頼んだ人物の名を明かすことは無く、その後は記者との面会にも応じていないので、真相はなお藪の中である。しかし、殺害事件現場からは、石井議員が国会に提出する予定だった、鞄に入れてあった質問書類が手帳と共に紛失しており、その後も発見されていない。

 それでは、石井議員は何を質問しようとしていたのか?彼が、政界を震撼させるだろうと語っていたと言われる、その内容は何であったのか?石井議員は、1993年に日本新党から衆議院議員選挙に立候補し初当選して以来、政府支出の無駄遣いや政府機関の不正を徹底的に調査していた。そして、一般会計を遥かに上回る特別会計の闇を追求していた。ちなみに、石井議員が暗殺された2002年当時の一般会計予算は約83兆円であったが、同議員は、重複を除いた国家予算の総額は約200兆円あるのではないかと国会で指摘している。つまり、一般会計以外に毎年百数十兆円規模の公金が、国会の審議を経ることなく支出されていたのである。当然それらは、各省庁の官僚機構のコントロール下にあり、天下りや関連業界との癒着を生む温床ともなっていたことは想像に難くない。

 石井議員が暗殺された当時は、小泉純一郎氏が首相を務めていたが、小泉政権の期間中、政治的不正を調査していた新聞記者などが何人か不審な死を遂げている。前記の伊藤受刑者の告白でも頼まれたとされているように、それらも政治的暗殺であった可能性がある。指令者は、一部の与党政治家か高級官僚の周辺にいる、秘密工作を担当する者たちかも知れない。暴力団の中には、鉄砲玉レベルではない暗殺要員を抱えている組織もあると言われているが、あるいは、実行犯は彼らの可能性もあるだろう。また、ある種の半島系新興宗教団体の中には、別の事件で海外から暗殺者を招き入れた疑いが持たれる組織もあることから、親密な与党政治家の意を受けて動いた可能性も捨て切れない。そのあたりの話となると、推測の域を出ないことから、この辺にしておく。

 いずれにせよ、政治的暗殺は映画や小説の世界だけの話ではなく、今日においても、民主主義国家とされている諸国の中でも、現実に起こっている可能性が高い。ある人物が暗殺された時、それによって誰が最も利益を受けるのかを考えれば、おおよその背景は推測がつくであろう。しばしばそれは、一個人や一組織ではなく、政権や国際的な利権集団の可能性がある。ケネディ暗殺事件が今までそうであったように、私たちの前には真実が明らかになることは無いのかも知れない。暗殺者の影にいる者たちは、隠し通せると考えているのだろう。しかし、全知全能の神は知っておられる。そして、例え人の思いでは裁きが遅いように感じられていたとしても、必ず悪を滅ぼされる。権力者であっても、巨万の富を有する者であっても、誰も神の裁きを逃れることは出来ない。いつの日か必ず、私の尊敬している数少ない日本人政治家の1人である、石井紘基氏の無念も晴らされるであろう。

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のらくろが走る(記事No.52)

 数日前、首都高速道路を車で移動中、車体に「のらくろ」の顔が描かれたトラックが走っていた。のらくろとは、もちろん、同名の漫画に登場する主人公の犬のことである。「丸運」との屋号か社名かが表示されていたので、早速調べてみると、創業129年にもなる老舗運送会社であった。のらくろの絵は、同社のアイドルマークとして、1981年に導入されたそうである。

のらくろと聞いても、恐らくは50歳以下の人たちにとって、余程の漫画通か実家にその漫画があったので無い限りは、聞いたことも無いかも知れない。田河水泡原作であり、1931(昭和6)年から10年間、少年向け雑誌「少年倶楽部」に連載され、大いに人気を博した漫画である。主人公は、本名を「野良犬黒吉」と言い、通称が「のらくろ」である。のらくろは、大日本帝国陸軍を模した、「猛犬連隊」に二等兵として入隊する。のらくろは、やがて戦地に派遣され、中国兵(恐らくは国民党軍か)を模したと思われる、豚の敵軍と戦いを繰り広げる。のらくろは軍功を重ねて、最終的には大尉(中隊長)で除隊するという流れである。1970年から翌年にかけてテレビアニメが放映されていたようだが、私は小学生の時、親にねだって復刻版の漫画を全巻買って貰い読んだものである。

 私は、今は堅いテーマ中心でブログを書いてはいるが、幼少期より漫画も大好きであった。「サザエさん」、「オバケのQ太郎」、「ゲゲゲの鬼太郎」、「ドラえもん」などは小学生の頃よく読んだ。中学生になると、「ワイルド7」、「ブラックジャック」などの他、床屋に行くと、「漂流教室」や「後ろの百太郎」など、今では決して読まないようなホラー系漫画も読んでいた。高校生の頃からは、「ゴルゴ13」が愛読漫画となった。大人になってからは、床屋以外ではあまり漫画を読まなくなったのだが、数年前、ある人から、「キングダム」の第1、2巻をプレゼントされたところ、これが面白く、それ以来、新巻が出るたび買い続けている。

 さて、「のらくろ」であるが、戦争中のシリーズには戦後の続編もあって、除隊した後に探偵などで活躍した、民間人のらくろが描かれている。その他、意外なところでも、のらくろは登場している。「信徒の友」という、日本基督教団出版局が発行している月刊誌に、のらくろのイラストと共に、田河水泡氏の講話が連載されていたのだ。私も、1980年代中頃の一時期、同教団の信徒ではなかったが、信徒の友誌を購読していたことがあり、田河水泡氏の記事とのらくろのイラストが掲載されていたことに、軽い驚きを覚えたものである。そう、田河水泡氏は、戦後、イエスを信じるクリスチャンになっていたのである。

 田河水泡氏がクリスチャンになった経緯はこうである。後に「サザエさん」で国民的漫画家となった長谷川町子氏は、14歳の時に母親と姉妹と一緒に上京した。幼い頃に父親と死別した長谷川町子氏は、夫の闘病中にキリスト教の信仰を持った母親の影響を受けクリスチャンとなった。その後、女学校(現在の山脇学園)を卒業後、漫画家になりたいと言う願いを叶えようと、田河水泡氏に弟子入りを願い許される。その際、母親が田河氏に、日曜日には娘を教会に通わせて欲しいと願ったことがきっかけとなり、田河水泡氏と妻の高見沢潤子氏も付き添って教会に通うようになる。その後、まず高見沢潤子氏が信仰を持ち受洗、伝えられるところでは、長谷川町子氏よりも熱心なクリスチャンになったと言われる。そして、戦後、夫の田河水泡氏もクリスチャンとなり受洗したのである。

 クリスチャンとなった田河水泡氏は、90年の地上での生涯を走り抜け、1989年に天に召された。しかし、同氏が生み出した、のらくろは、1931年に世に出て以来、90年後の今日でも、人々から愛されるキャラクターとして生きている。のらくろは田河水泡氏の残した実であるが、それ以上に、のらくろを生み出した田河氏の人生そのものが、神によって結ばれた実ではなかったか。私たちも、人生において実を結ぶ者とならせていただきたいと願う。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネによる福音書 15:16 口語訳)
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辛亥革命110周年と孫文(記事No.51)

 今年10月10日は、中国で辛亥革命が起きてから110年となる記念日である。この日は、中華民国建国記念日であり、台湾では双十節として祝われている。1911年のこの日、孫文らを指導者として武装蜂起した革命軍は、多大な犠牲を払いながらも清朝軍を次々と撃破し、ついに清国は滅亡した。辛亥革命により成立した中華民国は、アジアにおける最初の共和制国家である。なお、革命の指導者孫文は、亡命を含めて何度か日本を訪れたことがあり、彼を支援した日本人も多くいた。その内の1人であった実業家の梅屋庄吉は、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と約束し、生涯孫文を支援した。また、孫文らの掲げる理想に共鳴し、革命軍に身を投じて戦死した日本人もおり、最初に斃れた山田良政は、今でも革命義士として台湾の忠烈祠にて顕彰されている。
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地震列島に住まう(記事No.50)

 10月7日の夜、久しぶりに少し強い地震が首都圏を襲った。その時、私は横浜市内のホテルに滞在中で、そろそろ休もうかとベッドに入ったところだったが、携帯電話のエリアメールの音と揺れの始まりがほぼ同時にあり、一瞬で眠気が吹き飛んだ。震源地が遠ければ大地震が発生したものと思い、すぐに地震情報を確認したのは言うまでもない。強い揺れがあった地域の人々は、10年半前の東日本大震災のことが脳裏を過ったのでは無いだろうか。

 東日本大震災については、マグネチュード(M)8クラスの余震が必ず起こると言われて来たが、これまでのところは、M5〜M6クラスの中規模の余震が起きているだけである。しかし、遠からず、それは起きると思っていた方が良いだろう。その時は、当然大津波も襲来するだろう。東日本大地震の余震以外にも、首都圏直下型地震や東海、東南海、南海など、いずれ起きると予想されている巨大地震がいくつも控えている。また、中央構造線が動く可能性もあり、全国津々浦々にある大小の断層も、いつ動くかわからない。まさに、日本は地震列島そのものである。

 このような国土の特性に鑑みて、1969年に国土地理院の関連専門機関として、地震予知連絡会が設置された。以来、トップレベルとされる地震学者たちが集められ、多額の国費が観測や研究に使われてきたが、これまで、ただの一度も地震予知に成功したことは無い。数十年のタイムテーブルで予測することが全く無意味とまでは言わないが、少なくとも防災の役には立っていないことは確かである。それよりも、私たち一人一人が、日頃より自然や生物の変化に注意を払い、変わったことがあれば警戒を強めた方が良いのかも知れない。私の場合は、20年ほど前から、地震雲など自然現象に気をつけるよう心がけている。10数年前には、家族旅行で大阪方面に行った時、夜ホテルの窓から北側の山に発光現象があるのを見たが、翌日夕方に、その山の方面を震源とする震度4くらいの地震が発生したことがあった。都市部ではビル群のため雲の観察も思うようにいかないが、注意力は常に働かせるようにしておきたい。

 さて、聖書の中にも、地震に関する記述が何箇所かある。その中でも、世の終わりの時代に関するイエスの預言では、方々に地震が起こることが示されている。これは、歴史上かつてなかったほど、世界各地で大きな地震が次々と発生することだと考えられる。これは、どの程度の期間の中で起こる出来事であるのかは、はっきりは分からない。しかし、仮に百年単位の期間中に起こるのだとしても、終末が近づくにつれ、頻度も規模も激しさを増すことは確かであろう。そうでなければ、世の終わりが近い徴にはならないからだ。

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日本人とは誰か (記事No.49)

 2021年のノーベル物理学賞を、愛媛県出身で米国プリンストン大学上席研究員の、真鍋淑郎氏が受賞することが決まったとのことである。新聞に、日本人のノーベル賞受賞者は28人目と書いてあったが、よく読むと、真鍋氏は米国籍だと言う。細かいことを言うようであるが、それなら、正確には、日系アメリカ人と書くべきだろう。シュクロウ・マナベ氏とまでは、無理に書かなくても良いとは思うが。日本人の両親から生まれたなら、出生時には確かに日本人であるが、成人後に自分の意思で外国籍を取得したなら、その場合は日本人とは言えないのではないか。

これとは逆に、外国人が日本国籍を取得したなら、その人は日本人である。正確には、出身国○○を接頭語として、○○系日本人となる訳である。日本には、韓国系日本人や中国系日本人も多くいる。ところが、外国人が日本国籍を取得しても、いつまでも日本人とは認識されず、出身国の人と受け取られることが多いのではないか。となると、日本人という語の意味するものは、単に国籍だけを意味するのではなく、日本民族をも意味していることは明白であろう。そうなると、明らかに日本民族とは違う外観を有する民族の人が日本に帰化したとしても、真の日本人と認められることは無いのかも知れない。また、民族的属性に加えて、日本精神の有無を問題とする考えもある。

 先日、中国出身で日本に帰化している、評論家石平(せき へい)氏の講演を聞く機会があったのだが、話の中で自身のことを、今は日本人だからというように語っていた。私としては、同氏は中国系日本人という認識であり違和感は無かった。石氏は、当然のことながら中国事情に精通し、中共政権に対しては厳しく批判する立場である。日本の政治家や企業家でありながら、中国に媚びるような人々が散見される中で、その種の人々よりも、石氏の方が余程日本を愛していると思う。ところが、日本人の定義を狭く考え、日本民族であり、日本精神を有していることとするなら、石氏は日本人としては不十分となる。

 日本精神と書いたが、これは強調の仕方によっては、息苦しい社会を作り出してしまうだろう。例えば、日本人ならば皇室を敬愛するのが当然であると言う考えの人もいる。しかし、皇室に対する敬愛の念とは、強いられて持つものではなく、天皇をはじめとする皇室の方々の国民を想う姿勢を見て、自然に形成されるべきものである。少なくとも、これまでの上皇や天皇の言動からは、国民のことを深く案じておられることが伝わっていると思う。多くの国民も自然に、その想いに敬愛を以って応えて来た。もし、日本精神を言うのであれば、真面目、勤勉、正直など、最も基本的かつ最大公約数的な、日本人の長所を言うだけで十分ではないだろうか。

 ノーベル賞受賞が決まった真鍋氏がアメリカ人であることに触れたが、当然のことながら、アメリカ国籍(市民権)を取得する条件に、人種に関するものは含まれていない。犯罪歴や麻薬使用歴、あるいは反米組織との関与などはチェックされるが、それ以外に思想や信条が問われることも無い。しかし、初歩的な英語力以外に、絶対にクリアしなければいけない条件がある。それは、アメリカ国籍を取得するに際して、出身国を含めた他の国に対する忠誠を放棄し、アメリカのみに忠誠を誓うことである。ただし、イスラエルなどとの二重国籍は認められているので、この場合は、それ以外の国に対する忠誠を放棄することとなる。仮に二重国籍の一方の国と米国が戦争状態になった場合には、どちらかに対する忠誠を放棄することになるのではないだろうか。

 アメリカの例を挙げたように、本来は、ある国の国民とは、その国に忠誠心を有していることが最大の条件であろう。これに、愛国心を加えても良い。それ以外の、出身地、人種、民族、思想、信条、宗教などの属性は、社会に危害を加えるような具体的事情が無い限りは、国民を定義するに、一切必要条件では無いと思う。以前も書いたが、古来より日本人とは、多様な民族が長い年月をかけて融合して、単一的民族となったものである。私の先祖も1000年以上遡れば、大陸から渡来したのかも知れない。いや、実は、私のルーツは、古代イスラエルではないかと思っているのだが。それはともかく、今日でも、日本国籍を有していて、かつ日本を愛し、日本に(政府ではなく、日本という国に)忠誠心を有する人が日本人であり、それ以外の属性で純化を求めることに何の意味があるだろうか?あとは、日常生活に不自由無い程度の日本語が出来れば尚可といったところか。

 以上に記した私の考えは、聖書の教えから影響を受けて形成されたことは言うまでもない。イエス・キリストが、彼を信じる人々との間で交わされた新しい契約(新約)とは、全て彼を信じる人々は、神の家族であり、神の国の国民であるということである。神の家族とは、イエスが人として自身を現された、ユダヤ人だけがその資格を有しているのではない。イエスを神として、救い主として、個人的に信じ受け入れたならば、誰でも神の家族となり、神の国の民に加えられる。最も大事なことは、人の外側にあるのではなく、内側に、すなわち、心にあるのだ。日本人のことも、また同様であると思う。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」(エペソ人への手紙 2:19 新改訳)
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携挙は近いのか?(記事No.48)

 今日は久しぶりに、横浜の主に在る姉妹(クリスチャン)のゲストハウスにおいて、少人数の特別集会を持った。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18:20)とのイエス・キリストの約束のとおり、神の目においては、人数の多寡ではなく、神を愛する人々が集っていることこそが重要である。礼拝メッセージでは、終末時代を生き抜くために、欺かれずに歩むことについて語らせてもらった。

 メッセージでも触れたのだが、私は、世界は終末に向けて大きな分岐点に差し掛かっていると捉えている。すなわち、悪魔の側に立って世界を統一しようとしている、反キリストの勢力が勝つか、それとも、神を愛し、自由を愛する、世界の人々が勝利するかである。それは、闇と光の戦いである。もし闇側が勝つなら、世界は一挙に患難時代に突入するだろう。しかし、光側が勝つなら、患難時代の到来はもう少し先となり、愛と自由が世界を覆うとの希望を持つことが出来る。どちらの方に世界が進んで行くのか、恐らくは、これから半年から1年くらいの間に帰趨が決すると思われる。

 さて、ここからの話は、聖書にあまり馴染みが無い方々にとっては、分かりづらいかも知れず、なるべくシンプルに書きたいと思う。それは、聖書の中で、世の終わりの時に起こると預言されている、「携挙」についてである。携挙とは、キリストが天から降臨(再臨と言う。)し、地上のクリスチャンたちを天に携え上げるという聖書の教えである。御伽噺のようでもあるが、聖書の中で明確に語られていることであり、初代教会より多くのクリスチャン(決して、全てのクリスチャンではない。)によって、信じ続けられてきた教えである。

 
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サーバント・リーダーシップ(記事No.47)

 自由民主党の新総裁に、岸田文雄氏が選任された。岸田氏は、祖父の代から数えて3代目の政治家である。岸田氏が会長を務める宏池会は、池田勇人氏が設立した、自民党で最も古い派閥である。宏池会のある議員による岸田評は、人の意見を受け止めるタイプのリーダーであると言う。私は昨年、岸田氏の講演会に参加したことがあるのだが、その時の印象は、真面目そうではあるが、総理・総裁を目指すには、もう少し情熱が伝わるような話し方をするべきでは、というものであり、正直あまり魅力的な人物とは思えなかった。

 それはともかく、今般岸田氏が自民党の総裁に就任した以上、菅氏の後を襲う次期総理大臣は同氏となる訳である。私は、今回の自民党総裁選に出馬した4人の中では、消去法で、岸田氏がまだマシだと考えていた。決選投票を争った河野太郎氏は、中央官僚からの評判がすごぶる芳しくないと聞いていた。政治主導は重要であり、官僚は選挙で選ばれた政治家による内閣の方針に従うべきではある。しかし、官僚と言えども感情を有する人であるから、何でも力で押さえ付けようとするならば、面従腹背の輩を量産するだけであろう。河野氏の性質では、総理として人心を掌握することは出来ないと思う。何だか、政治ブログのようなことを書いているが、高市早苗、野田聖子両氏については、いずれも、河野氏以上に、一国の宰相の器では無いと思う、とだけ述べておきたい。

 今般の自民党総裁選挙を観察しながら、リーダーとしてのあり方を思い巡らせていた。リーダーが持つ統率力などの能力や資質のことを、リーダーシップと言う。原語では、リーダーとしての立場や資格を含めた、もう少し幅広い意味がある。EQ(心の知能指数)を提唱したダニエル・ゴールマンは、リーダーシップを次の6種類に分類している。
1. ビジョン型、2. コーチ型、3. 関係重視型、4. 民主型、5. ベースセッター型、6. 強制型

 実際は、どれか1つに該当する場合だけでなく、複数のタイプを兼ね備えているリーダーもいるので、この分類方式で明確に区分されるという訳でも無いと思う。リーダーシップの類型としては、他にもいくつか考え方がある。その1つが、アメリカのビジネスマンであり、マネージメント研究者であった、ロバート・グリーンリーフ氏が1970年に提唱した、サーバント・リーダーシップである。その真髄は、リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その後相手を導くものであるという、リーダーシップ哲学である。支配することにより組織や部下を導くこととは、正反対の考え方である。

 サーバント・リーダーシップを備えたリーダーの特徴には、次のようなものがある。その人は、恐怖心や義務感を相手に与えるのではなく、進んで行動したいという動機付けを与える。服従することを求めるよりも、リーダーのビジョンに共感して共に行動するよう導く。言われたことを、その通り行わせるよりも、工夫しながら行動するよう促す。自己中心的な姿勢を持たず、どうすれば周囲の役に立つかを考える。などなどである。

 サーバントとは、仕える者という意味であり、直接的には召使いのことである。リーダーは、まず仕える者となるべきである、という考えがサーバント・リーダーシップである。提唱者のグリーンリーフ氏は、リーダーの指導力の源泉は地位や職権ではなく、人々に奉仕することであると考えたのだ。彼はこう語っている。「サーバント・リーダーは、まずサーバントである。それは生まれながらに持つ奉仕したい感情であり、奉仕が第一である。そして、意識的に選択して、リードしたいと思うようになるのだ」私は、グリーンリーフ氏の示すサーバント・リーダーの、最高のお手本となった人を知っている。それは、他でもない、イエス・キリストである。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また、偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』」(マタイによる福音書 20:25−28 口語訳)


 敬虔なクエーカー派のクリスチャンであったグリーンリーフ氏は、イエス・キリストが実践された、真のリーダーとしての姿からインスピレーションを得て、サーバント・リーダシップの理論を確立したことは疑いない。世の中には、数々のリーダシップ理論があり、それらを教えるセミナーやトレーニング・コースも数多くある。しかし、サーバント・リーダーシップがそうであるように、私たちは、真に有益なことは、聖書の中にこそ見出すことができるのである。
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