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偽りの舌(記事No.22)

 東京オリンピックが終わった。思えば、国立競技場建て替え案のドタバタ劇や大会エンブレムの盗用疑惑、招致活動における贈収賄疑惑と竹田恒和日本オリンピック委員会(JOC)会長の退任、森喜朗大会組織委員会会長の失言と辞任、演出や音楽に関するトラブルや関係者の辞任など、開会前において既に数々の問題や疑惑が噴出していた。新型コロナウイルス流行をついて開会した後も、選手やスタッフらのコロナ感染、酷暑に耐えかねた選手らのブーイング、関係車両の事故多発、バブル方式の破綻など短期間に多くの問題が発生した。さらに、当初予定の3倍以上に膨張した開催経費と無観客試合による減収もあって、巨額の追加費用負担を迫られるのが必至の東京都と、国や関係機関との交渉が控えている。

 なぜ、近代オリンピック史上稀に見る問題だらけの大会になったのか、その最大の理由は、出だしから既に間違っていたからであろう。2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで開催された、国際オリンピック委員会(IOC)総会で招致に向けた最終プレゼンテーションが行われた。そこでの安倍首相(当時)のスピーチが、開催都市が東京に決定された決め手になったと言われた。ところが、当時から指摘されていたように、その内容には、福島原発事故の状況がアンダーコントロールであるとの重大な嘘が含まれていた。さらに、立候補説明資料には、開催時期の東京は気候が温暖であり、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮出来るという、日本人なら子供でも分かる嘘が平然と述べられていた。その後、招致に便宜を図ってもらうために、国際陸上競技連盟のセネガル人幹部にシンガポールのペーパーカンパニーを通じて多額の賄賂が渡されたとの疑惑が明らかになり、フランス当局の捜査対象となった竹田恒和JOC会長は、逮捕の懸念があった為か、自らが理事を務めるIOC理事会にも出席することなく辞任している。

 このように、東京オリンピックは、誘致には成功したものの、その後は、安倍首相らがついた嘘を糊塗するため、嘘に嘘を重ねて、問題だらけの大会として終了した。招致準備期間中から現在に至るまで、オリンピック利権に群がる電通やパソナといった企業や関係者らに食い物にされた大会でもあった。嘘や偽りの上に立つものは、見た目は良くとも内実は悪いという見本そのものである。なぜ、安倍首相や猪瀬都知事(いずれも当時)ら誘致に関わった人々、また、準備や運営に携わったJOCや大会組織委員会の幹部らが、揃いも揃って嘘や偽りに手を染めたのか。当然のことながら、組織としても個人としても利益を得る為である。はっきり言えば、金銭、地位、名声を得る為である。それが、彼ら自身に最後は何をもたらすかは知らずに。

「偽りの舌をもって宝を得るのは、吹きはらわれる煙、死のわなである。」(箴言21:6・口語訳)

  聖書は嘘を言うことを禁じている。それは、神の嫌われることであり、また、嘘をついた人に不利益がもたらされるからでもある。例外は、敵に追われている人の命を守るために、嘘をついてその人を助けるような場合である。旧約聖書のヨシュア記には、イスラエルの斥候を、追っ手に嘘の情報を伝えて逃した遊女が彼女の家族と共に、神の恵みを受けたことが記されている。嘘も方便という諺があるが、私たちは安易に嘘をつくことを正当化してはならない。それは、私たち自身の信頼性を傷つけることにもなる。もはや安倍前首相の言葉をそのまま信じる人がほとんどいないように、私たちも同じようになってはならない。馬鹿正直も困るが、神に知恵の言葉を求めながら、人々からの信頼を得る者となろうではないか。

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妬みと凶悪事件(記事No.21)

 世の中(の一部)がオリンピックに浮かれている最中、またもや凶悪な通り魔事件が発生した。満員の小田急線車内で男が若い女性らを斬りつけ、乗客10人に重軽傷を負わせた事件である。犯人として逮捕された男は、幸せそうな女性を見ると殺したいと思っていた、と供述したそうである。また、人生がうまく行かないのは他人のせいだ、とも話したという。自分に何の害も与えていない人を無差別に襲ったことから、確かに反社会性が強い凶悪な犯人であろう。しかし、犯人の男が凶悪事件を起こすに至った心の闇は、実は、私を含めて誰もが持っているものであり、それは妬みである。



 妬みは、全ての人が持っている罪の性質の1つであり、それゆえ、子供でさえ大人が教えてもいないのに、自然に妬みの感情を抱くようになる。例えば、自分が仲良くしている子が他の子と親しそうにしていると、やきもちを妬き、相手の子に意地悪をしたり、その子の悪口を言ったりする。兄弟でも、どちらか一方だけが親に褒められると、褒められなかった方は、不機嫌になるだろう。成長と共に、うわべは繕えるようになったとしても、心の中までは中々繕えるものではない。大人になっても、それは同じで、紳士淑女の振る舞いは出来ても、それだけでは、妬みの感情を抱かなくなる訳ではない。



 情報技術をはじめとして、テクノロジーが日進月歩で進化している現代社会であるが、それらを使う人間の性質自体は、本質的には古代社会と何ら変わりがない。この社会は人々の合理的な判断も働いているが、それ以上に、感情によって動いていると言っても過言ではない。人々が、感謝や喜びあるいは憐れみといった感情に満たされるなら、そのような人々は、自然に善い行いをしたいと願うようになる。あるいは、人々が憎しみや妬みあるいは利己心といった感情に満たされるなら、それは通り魔事件がそうであるように、人々の悪い行いを誘うであろう。



「妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。」(ヤコブの手紙3:16・聖書協会共同訳)


 私たちは、自分とあまりにかけ離れたと思う存在に対しては、妬みの感情を抱くことが少ない。日本人で、皇室に妬みを覚える人は少ないだろう。皇室に対する尊敬の念の有無に関わらず、あの方々は雲の上の人たちと思うからである。あるいは、芸能人やプロスポーツ選手がどんなに目立っていても、それに激しく嫉妬する人も少ないだろう。多くの人々にとって、彼ら、彼女らは、別世界の住人だからである。多くの場合、私たちが妬みを抱くとすれば、それは自分と近い人々に対してであり、友人やクラスメイト、同僚や年齢の近い知人などに対してであろう。マウントを取るという優越感からの行動も、妬みの裏返しである。



 それでは、私たちは、どのようにすれば妬みの感情に囚われずに済むのであろうか?自尊心を保つことは大切であるが、感情コントロールのテクニックだけでは根本的な解決にはならない。最も有効な方法は、神の内にある自分の正当な立場を知ることと、神の愛を受けている事実を知ることである。私たちがイエス・キリストを通して父なる神に近づくとき、私たちは神の子となり、子としての立場を得ることになる。そして、自分だけに与えられた、オリジナルの人生の使命と賜物とを知るようになる。それらは、富によっても人の努力によっても得ることの出来ない、父なる神からの贈り物である。他の人と比べることは無意味であり、最大の関心は、どのように自分の人生における使命と役割を果たすかとなる。私たちの内に宿られる神の霊が、私たちの魂に触れて、その性質を一歩一歩変えてくださる。そして、私たちに神より与えられた愛が、妬みやマイナスの感情に勝利することを体験するようになる。人には出来ないが、神には出来るのである。
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長崎と原爆(記事No.20)

 広島と長崎に原爆が投下されてから,今年で76年になる。2021年1月には核兵器禁止条約が発効したが,日本は不参加のままである。原爆の被害を受けた両都市は日本も条約に参加することを訴えて来たが,アメリカによる核の傘の下にあるとする日本政府は終始一貫冷淡である。核の傘が本当に実効性があるものなのかは疑問であり,アメリカが自国の国土が核攻撃に晒されるリスクを日本の為に引き受けるとは思えない。実態は政治的スローガンに過ぎないか,あるいは本来の期待レベルに比して妄想レベルと言っても過言ではないだろう。アメリカの属国である日本としては,アメリカ抜きでの国防体制を構築することが未だ許されていない以上,核の傘を謳うしかないと言うことか。

 戦後長い間アメリカでは,原爆投下が戦争の終結を早め,結果的に双方の多くの人命を救ったとの見解が支配的であった。仮に原爆投下が実行されず,日本本土上陸作戦が決行されたならば,連合軍側にも最大25万人規模の死傷者が見込まれていた。その場合,日本側死傷者は数百万人に及んだであろう。しかし,この説は前提として,原爆投下が戦争終結に不可欠であった場合にのみ成り立つ。今日では,長崎への原爆投下の同日未明に開始された,ソ連による満州侵攻が,日本をして降伏への最終決断をさせたという説が有力である。原爆投下は,既に日本の敗戦が決定的な状況の中で実行されたのであり,軍事的には不要であったことは明白であろう。このあたりの事情は,鳥居民の労作である,「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」に詳しく解き明かされている。

 原爆投下が新兵器の人体実験でもあったことは,広島と長崎に投下された爆弾のタイプが,それぞれウラン型とプルトニウム型とに使い分けられていたことからも明らかであろう。原爆投下の目的については,さらに衝撃的な説もある。アメリカ陸軍情報士官であったデイビッド・J・ディオニシが退役後に著した,「原爆と秘密結社(原題:ATOMIC BOMB SECRETS)」を読んだ時,私は衝撃を受けると同時に,記されている内容が歴史的事実と照らしても矛盾が無く,ストンと腑に落ちたのである。それは,原爆の目標都市は長崎が本命であったという説である。広島はそのことをカモフラージュするために,最初の攻撃目標とされたと言うことだ。もちろん,両都市への原爆攻撃は,実験の意味もあったことに変わりは無い。なぜ,長崎が狙われたか,それは,ここが日本におけるキリスト教の中心都市であったからだと言う。

 それでは,なぜキリスト教国と言われるアメリカが,敵国とは言えキリスト教の中心都市を原爆で攻撃したのか。ディオニシの書名にあるように,ある秘密結社がそう仕向けたと言う。著者は,この本の中で秘密結社の名称を明らかにしてはいないが,どう考えてもフリーメーソンしかあり得ない。フリーメーソンは当時も今も,アメリカにおいて強大な影響力を有し、軍内部にも多数の会員がいる。現在でも,日本国内の主要米軍基地にはメソニックロッジが存在している。フリーメーソンは会員に特定の宗教への信仰心を持つことを奨励していることから,クリスチャンの会員も少なくないと言われる。実際私も,アメリカ人クリスチャンでフリーメーソンの元会員と個人的親交を持っていたこともある。しかし,33階級あると言われている組織の中で,最高位会員らは名目上はどうであれ,聖書の神を信仰していないと断言しても良いだろう。彼らが信仰しているのは悪魔であり,その事実は末端会員らには伏せられている。

 フリーメーソンの起源については,中世ヨーロッパの石工組合とする説が一般であるが,実際にはもっと古く,古代バビロニアやバベルの塔を築いたニムロデの時代とするなど諸説ある。そのルーツがいつの時代であったにせよ,確かなのは,この組織が最初から神に反逆する思想を有し,またキリスト教成立以降は反キリストで一貫していることである。このため,カトリック教会では,1738年に教皇勅書でフリーメーソンへの加入を禁止し,結社員は破門とすることが定められた。しかしながら、1962年の第2バチカン公会議以降は,カトリック教会は実質的にフリーメーソンとの融和路線に転じ、これを危惧してバチカン内の結社員を排除しようとした教皇ヨハネ・パウロ1世は、在位33日目に急死した。このように、フリーメーソンとキリスト教、中でもカトリック教会とは本来は不倶戴天の敵同士であるが、現在ではバチカンも相当侵食されていると見做せるだろう。

 以上のような背景を考えるとき、アメリカ政府や軍の内部にいたフリーメーソンが、恐らくはさらに上部組織からの指令を受けて、原爆を日本におけるキリスト教の中心都市長崎に投下したことは、彼らにとって、少なくとも一石何鳥かの重要な目的の1つであっただろう。長崎に投下された原爆は、軍事目標であったはずの三菱長崎造船所ではなく、浦上天主堂のほぼ直上に投下された。280年近くに及ぶ激しい迫害に耐えて公然と復活した、長崎におけるキリスト教信徒らの信仰の結晶であり、日本のみならずアジアにおけるカトリック教会の象徴的な大聖堂である。悪魔の意思を受けた邪悪な人々により、神を愛する素朴な信仰者らを含めた、多数の人々の命が一瞬にして奪われたのである。 


「主に忠実な人たちの死は 主の目に重い。」(詩篇116:15・聖書協会共同訳)

 長崎は、現代ではそうは認識されていないかも知れないが、16世紀以来、日本におけるキリスト教の一大中心地であり続けた。日本に最初にキリスト教が伝わったのは、教科書的には1549年にフランシスコ・ザビエルが来日し教えを広めたとされているが、実際は1世紀中には原始キリスト教会の宣教師が到来した可能性があり、遅くとも7世紀頃には景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)が数万人規模で大陸より渡来している。カトリック到来以前のキリスト教が、やがて神道や仏教と融合し、その実体を失ったのに対し、カトリック教会によって宣教されたそれは、2百数十年に及ぶ世界最長の禁教時代と厳しい弾圧を生き延びた。そして、1865年に、居留外国人のためという名目で教会堂を建てたフランス人司祭のもとに浦上の婦人信徒らが訪れたことを契機に、長崎とその周辺の潜伏信徒らがカトリック教会に公然と復帰したのである。

 現在、日本におけるキリスト教の中心地があるとすれば、数の上では人口が最も多い東京都であろう。文化庁の2020年の宗教統計では、東京都には約87万人のキリスト教信者がおり、その人口比は約6.3%である。これに対して、長崎県は約6.3万人、4.8%の人口比である。しかし、この統計には、キリスト教系の異端宗教(統一教会系、モルモン教、エホバの証人等)もカウントされており、本来のキリスト教徒の人口比では、恐らくは長崎県が日本最大であろう。長崎地域は、実に400年以上も日本におけるキリスト教の中心地であった意味が分かるであろう。このことは、文化的に重要であるだけでなく、霊的にも重要であり、それはカトリック、プロテスタントといった宗派の別を超えた意味がある。弾圧と原爆というこの世の地獄に耐え抜いて復興した長崎と彼の地の教会は、やがて日本におけるキリスト教の中心地として、もう一度回復されるに違いない。その時には、日本人の、埋もれていた開明的な霊性と精神性もまた回復され、再び長崎は、世界に向けてキリストを証する都市となるであろう。
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塩の効能(記事No.19)

 連日猛暑が続いているが,こうなると水分補給はもちろんのこと,塩分補給も大切である。かつては,炭鉱や土木工事の現場で働く人々は,塩を舐めながら仕事をしたと言う。今でも,塩飴を舐めながら作業する人たちもいるだろう。大阪のある建設会社では,作業員が手軽に塩分を補給できるように,スティク型の塩ゼリーを開発し市販もしたところ,結構な人気商品になったそうだ。

 重労働に従事してる人たちだけでなく,誰にとっても塩は体にとって欠かせないものである。ところが,塩分という言葉になると,摂り過ぎは良くないという話になる。世界保健機構(WHO)では,1日あたりの塩分摂取量は5.0グラム未満を推奨している。厚生労働省の2019年の調査では,日本人の1日あたり平均塩分摂取量は男性が10.9グラム,女性が9.3グラムとのことである。データだけを見ると,確かに日本人は塩分摂取量が多いようだ。そのせいか,日本人には高血圧気味の人が多いとも言われる。

 ところで,本ブログのタイトルには,「預言的」という形容詞をつけている。神から与えられた,預言的賜物を活かしながら,この世の事象を読み解くという意味を込めている。もちろん,記事には、私の知識や経験を用いた分析や,私自身の意見や考え方も含まれている。しかし,大胆にも預言的と称しているように,私の習性として,常識や通説をそのまま受け入れることはない。少しでも,腑に落ちない点があれば,祈りつつ思考し真実を見極めようと試みる。そこで,今回のテーマに選んだ塩である。結論から言えば,良質の塩は,あまり神経質になり過ぎずに摂った方が,むしろ健康に良いということである。

「確かに塩は良いものだ。だが,塩も塩気がなくなれば,その塩は何によって味がつけられようか。」(ルカによる福音書14:34・新共同訳)

 聖書には,塩に関する記述が40回以上も出てくる。有名な聖句では,イエスが山上の垂訓として知られる一連の教えの中で,「あなたがたは地の塩である。」と語られた言葉がある。ここでは,イエスを信じる者たちは,この世に在って良い影響を与える者たちであるという意味である。また,特に旧約聖書では,神が土地や人に対して裁きを下された際に,塩を用いられたことが記されている。言うなれば,浄めの塩である。このように,塩は用いられる対象物を変化させる効能がある。

 私たちが良い塩を摂るなら,私たちに良い変化がある。良い塩とは,電気分解で製造された精製塩ではなく,昔ながらの窯などで煮詰める方式で製造された天然塩である。精製塩は成分の大半が塩化ナトリウムであるが,天然塩にはミネラル分が豊富に含まれている。一般的には,岩塩よりも海水塩の方が良いだろう。私たちは,この世に在って精製塩のようにではなく,自然塩のように良い変化をもたらす者でありたい。
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現代の棄民(記事No.18)

 先日、日本国内の新型コロナウイルス感染者が1日あたり1万人を超えた。これは、正確に言えば、コロナ陽性が確認された人数であって、必ずしも症状が出ている人だけではない。しかしながら、感染者の増加に伴い、通常は入院が必要とされるケースでも待機中となる人々がいる。政府や自治体の政治リーダーたちや医師会の幹部らは、口を開けば医療逼迫と言うが、この1年半の間何をしていたのか。自分たちの無責任と無能を、国民の自粛破りに責任転嫁しているのだから、呆れるばかりである。

 ついに菅首相は、重症患者などを除き自宅療養を基本とすると述べて、政府方針の転換を明らかにした。東京都では、自宅療養者が既に1万人を超えており、政治方針の転換とは現状の追認に過ぎない。このタイミングで発表したのは、オリンピック番組の視聴率を睨みながらか。これまでに、自宅療養中に容態が急変し死亡した事例もあり、特に単身居住者にとっては、孤独死のリスクもある。国民が決して安いとは言えない健康保険料を支払っているのは、必要な時に適切な医療を受けられるようにである。それが無理だというのであれば、少なくとも自宅療養期間中の保険料は免除するべきであり、税金も同様であろう。そうでなければ、公共サービスにおける負担と受益が釣り合わない。

 本来入院するのが普通であるような健康状態であり、患者も入院を希望しているのにも関わらず自宅で療養せよと言うのは、棄民に等しいのではないか。そうでないと言うのならば、今後は他の病気でも重症患者など以外は原則自宅療養として、その代わりに健康保険料を引き下げて国民負担の軽減と医療費の削減が実現できるはずである。国民皆保険制度がありながら、病気に罹った国民の公的ケアを疎かにするとは、国家としても人としても間違っていると思う。

 「そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」(マタイによる福音書25:44-45・口語訳)


 歴史的に見て、日本は苦境に陥った国民を国家が度々見捨てて来た、棄民政策が御家柄のような国である。明治期からのハワイや南米への移民送り出しはまだ希望があったが、満蒙開拓団はどうだったか。ソ連の満州侵攻の際には、関東軍は居留日本人を護らなかった。敗戦後も、在外邦人は現地に残留させるのが政府の当初方針であった。1956年から始まったドミニカへの移民事業では、土地の無償提供などの約束が反故にされ、2000年には日本政府に対する集団訴訟にまで発展した。(1審原告敗訴の後、特別一時金支払いで結着)残念ながら、日本は国民を大切にする国では無いと言えよう。

 今後も、日本政府の棄民政策は事あるごとに発動されるだろう。為政者やエスタブリシュメントが、真に祖国と国民とを愛していないことの現れである。自助の国の民としては、自衛に努めるしかない。しかし、希望も道もある。私たちが神を信じるなら、常にこの方の庇護の下に置かれ、祈りに応える最高のサポートを受けることが出来る。全知全能の神の守りこそ、最も確実な自衛策である。
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自由を与えるもの(記事No.17)

昨年来の新型コロナウイルス流行と、それに対する日本や諸外国の政府の動きは、人々に様々なことを思考する契機を与えたと思う。その意味においては、パンデミックをショックドクトリンとして計画し実行した者たちにとっては、想定内のリアクションとは言え、多くの人々が考えることを放棄するのでは無く、その逆であるという事実は忌々しいものではないかと推察する。

日本では報道の扱いも小さいようだが、フランスやイタリアなどワクチンパスポートの導入を進めているヨーロッパ諸国では、それに反発する国民が大規模なデモを起こすなど抗議活動が続いている。SNSなどで全世界に拡散されている映像からは、数万から10万人規模のデモが各地で行われている様子である。疫病対策の名目であったとしても、自分たちの健康や行動を政府に管理されたくないという、自由を守ろうとする人々の意思の現れである。

ヨーロッパ諸国では、人々は自由は権力者から与えられたものではなく、天賦の、あるいは神与のものとして、人が生まれながらに与えられているものと信じられている。人権もまた同様であり、これらは自然権とされる。であるから、政府が人々の自由を侵すのであれば、そのような政府は、国民により打倒することが出来ると考えられており、革命権や抵抗権と呼ばれている。それゆえ、今般のワクチンパスポートのように、政府が人々の自由を奪おうとするなら、人々が大衆威示行動としてのデモや集会で抵抗を表すことが当然なのだ。

このように、政治的、社会的な自由を守り、あるいは、それらを得るためには、人々の具体的行動が必要となる。自由のための行動は、時には生命の危険が伴うことがある。アジアでも、香港やミャンマー(ビルマ)で、官憲の激しい弾圧にも関わらず、多くの人々が自由を守るために立ち上がったことが記憶に新しい。それらの運動の背後には、外国情報機関の関与があったとも言われているが、例えそうであったとしても、人々の自由を守ろうとする決意と勇気は素晴らしいと思う。

ところが、私たちが得るべきある種の自由は、政治的、社会的な戦いによっても得られない。それどころか、人のあらゆる努力や行動によっても決して得られない。それは、罪と死に対する自由である。この場合の罪とは、犯罪や社会的規範に反することではなく、創造主である神に背を向けて生きることを言う。言い換えるなら、自己中心的な神無き歩みのことである。死とは、今ある肉体の死ではなく、霊と魂の死、すなわち、神からの永遠の別離である。罪からの自由は、罪を赦すことが出来る権威と力のある存在だけが与えることが出来る。死からの自由は、永遠の命を与えることが出来る力のある存在だけが与えることが出来る。これらの自由を与えることが出来る存在は唯一人、イエス・キリストである。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ人への手紙5:1・口語訳)
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戦争の8月(記事No.16) 

 毎年8月になると、メディアは恒例行事の如く戦争に関する話を取り上げる。敗戦後76年が経過しようとしているが、日本は戦争の歴史から何を学んできたのだろうか?天皇(現上皇)は戦後70年にあたる2015年の新年所感の中で、満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学ぶことが大切であると語られた。1941年に始まる太平洋戦争でもなく、あるいは、1937年から敗戦に至るまでの大東亜戦争でもなく、1931年に勃発した満州事変に遡って戦争の歴史を学ぶようにと政権と国民に促されたのである。

 それでは、15年戦争とも称されるあの戦争とは、どのようなものであったのだろう。侵略戦争、防衛戦争、アジア解放戦争など、様々な捉え方がある。サンフランシスコ講和条約を締結した以上、極東軍事裁判(東京裁判)の結果を受け入れたのであり、少なくとも日本政府の公式な立場は、日本による侵略戦争であったと言う見解のはずである。しかしながら、東京裁判は勝者による敗者に対する一方的な断罪であった訳で、その結果を受け入れると言うことは、勝者を納得させ、日本が国際社会に復帰するための、一種の通過儀礼でもあった。いわゆる東京裁判史観に抗う動きは、日本が主権を回復してから後も、今日に至るまで続いている。

 あるいは、日本はもう十分戦争について反省して来たと言う人もいるだろう。中国や韓国が、今もなお歴史を政治的に利用し、日本に対して事あるごとに、反省と謝罪が十分で無いと非難を浴びせることも、日本人にとっては、むしろナショナリズムが刺激され反発するだけである。それでは、天皇が戦争の歴史を学ぶようにと促された背景は何か。直接的には、天皇にとって、当時の安倍政権の姿勢は歴史の教訓に学んでいないと危惧されたのであろう。しかし、そのメッセージは、ひとり政権に対するものではなく、広く国民全体に向けられたものであったはずである。

 私にとって、あの戦争をどう受け止めているかに少し触れたい。戦争について何かしらの関心を持つようになったのは、小学生の頃である。当時は、従軍経験のある大人が親族を含め周囲に何人かいた。私が通っていたカトリッ系小学校にも、理科の教師で元海軍士官の人がいて、謹厳実直であったが、子供たちに対する愛情が感じられた。戦争の話は、大人たちから断片的に聞かされた。私や何人かの級友は、乗り物に対する興味と同じような感覚で、零戦や戦艦大和に関心を持ち、子供向けの図解などを手に入れた。親にせがんで、田河水泡の「のらくろ」復刻版シリーズを手に入れたのもその頃である。一時期は、戦争ごっこなども流行ったが、程なく学校では禁止されてしまった。高学年になると、私は戦記物なども読むようになり、僅かであるが、兵器や軍人のカッコよさとは違う、戦争の悲惨な実相にも触れるようになった。

 その後、中高生時代には、単に兵器に対する関心にとどまらず、軍事や国際関係の視点からも戦争について知ろうと、様々なジャンルの書を読み漁ったりもした。その延長線上で、高校時代の一時期は、将来は海上自衛隊幹部候補生学校に進みたいと考えていたほどである。そんな私が、日本が経験した戦争について、世界史的な意義など広い背景を含めて考えるようになったのは、米国留学中の20代の頃からだったと思う。しかし、あの戦争について自分自身の考えが定まったのは、その後40歳くらいになってからである。私は、日中戦争も対米戦争も、やってはならなかったし、避けることも出来たと考えている。日本だけが一方的に侵略者であったとは思わないが、特に中国に対しては、防衛戦争であったと強弁することは出来ないであろう。あの戦争は、先に挙げたように、侵略戦争、防衛戦争、アジア解放戦争という多面性を有する壮大な戦いであり、その戦いに日本は敗れたのだ。勝者は、米英中ソであり、また、広義の国際共産主義勢力であった。私は、そう考えている。

 戦争について、どのような史観を有していたとしても、日本人に共通して必要なのは、あの戦争に対する国家的な検証であり、総括であるだろう。日本は戦後、そのことに正面から向き合って来なかった。であるから、戦争の責任についても、勝者による裁きはあったが、日本人として、国家と国民に対する責任の所在を追及することはなかった。ドイツが戦後今日に至るまで、政治的にそうせざるを得なかった面はあるにせよ、ナチス時代の戦争犯罪者の責任追及を続けていることと対照的である。私が危惧していることは、あの戦争を謙虚に顧みること無しに、軍人らの祖国に対する献身と犠牲を美化し、あるいは、国民が辛酸を舐めた経験から、被害者としての側面だけが強調されることである。またそれは、遡ること明治維新を無批判に賞賛することと、大日本帝国に対する憧憬にもつながる。

「『昔が今よりもよかったのはなぜか』と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」(伝道の書7:10・口語訳)

 私たちは、昔よりも今が、今よりも未来が、明るい国を造らなければならないと思う。そのためにも、ただ8月にだけ戦争のことを考えるのでなく、学校教育を含めて、より深く考察し続ける必要があるだろう。
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