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公正な裁判とは(記事No.37) 

 2019年4月に東京・池袋で発生した、親子2人が死亡し9人が重軽傷を負った交通事故の、1審判決が東京地方裁判所で出た。運転者の飯塚幸三被告に対して、禁錮5年の判決が下された訳である。この事故では、他の同種の死亡交通事故とは異なり、飯塚氏が現行犯逮捕されず、その後も、警察、検察とも一貫して在宅取り調べであったことで、「上級国民」優遇との批判が巻き起こった。旧通産省工業技術院元院長という高級官僚出身であり、退官後は叙勲もされていることから、警察・検察の配慮が無かったと考える方が無理であろう。

 今般の判決で、下津健司裁判長は、飯塚被告がブレーキとアクセルを踏み間違えたことが事故の原因であると認定した。被告側の、車の電気系統に異常が生じブレーキが効かなくなったとの主張は、明確に退けられた判決内容である。飯塚氏は事故直後に、被害者の救護を行うのではなく、息子に電話して、Facebookなどにある個人情報の削除を頼んだことが明らかになっている。最悪の交通事故の当事者になってしまったにも関わらず、自分の保身を最優先させたような行動には、誰もが憤りを覚えたことであろう。私自身も、飯塚氏の高慢さに対して、それは恐らく高級官僚と称される者たちが多分に持ち合わせているのであろうが、憤りと不快の念を抱いたものである。

 それにもかかわらず、この裁判には疑問を拭い去れない点がある。それは、飯塚被告の車の異常でブレーキが効かなかったという主張に対する、裁判所の証拠認定にある。事故車は、トヨタのプリウスであった。そして、捜査当局(警察か検察かは不明)が、当該車両の技術的検証を依頼した先は、製造者のトヨタ自動車であった。トヨタ自動車が2021年6月21日に、マスコミ向けに発表したコメントでは、「当局要請に基づく調査協力の結果、車両に異常や技術的な問題は認められませんでした。」との内容が含まれていた。事故の当事者が、車に問題があったと主張しているのに、その検証を行なったのは、当の車を製造したメーカーである。本来であれば、第三者機関が調査するのが公正な検証方法ではないだろうか?しかし、東京地裁の下津裁判長は、そうは考えず、トヨタ自動車による調査結果を証拠として認定し、飯塚被告が有罪となる物証としたのである。

 私が、何故この事に拘っているのか。それは、このような証拠認定手法が是とされるならば、同様の事故が発生した際、誰もがほぼ100パーセント有罪にされるからである。本ブログの記事No.35、「死刑制度の是非」で触れた冤罪のように、車を運転することがある誰もが当事者となり得るのだ。何故、誰もがほぼ100パーセント有罪認定されるのか?メーカーが自らの非を認めるなら、リコールだけでなく、世界的に巨額の賠償請求を起こされる蓋然性が高いからである。製造会社に技術的検証を要請した時点で、結論は決まっていたようなものであろう。うがった見方をすれば、捜査当局とトヨタ自動車の暗黙の合意があったとも言えるのかも知れない。

 ちなみに、私はトヨタ自動車とは何の利害関係も無いし、現在所有している車は他のメーカーのものである。10代後半の頃は、マニアックな話で恐縮だが、AE86という型式名を有するトヨタの1600ccスポーツタイプ車が欲しかったのだが叶わず、結局1300ccのEP71を購入したことがあった。だが、車が好きなことと、裁判の公正さを願うこととは、全く別次元の話である。今回の技術的検証については、捜査当局の手法や裁判所の証拠認定に、大いに疑問を感じる。またマスコミ各社が、この点をほとんどスルーしているのも不自然である。はっきり言えば、トヨタ自動車の政治力と広告スポンサーとしての力が、影響を及ぼしたのでは無いだろうか?少なくとも、それらが全く作用しなかったとは言えないと思う。

 愛知県、特に豊田市はもちろんのこと、名古屋市に住んでいる方々なら分かり易いと思うが、当地におけるトヨタ自動車の影響力は絶大である。最近も、トヨタ自動車所属のオリンピック選手の金メダルに齧りついてしまった、河村名古屋市長が、豊田章男社長からの抗議文を受け、慌ててトヨタ本社を訪問し謝罪文を提出したが、同社の政治力が如実に顕された出来事であった。笑い話のような本当の話であるが、名古屋駅周辺に林立する高層ビル群は、トヨタ自動車が建てた、ミッドランドスクエアの高さ247メートルを超えないように、配慮の上で建設されていると言う。あるいは、コロナ禍でトヨタグループが賀詞交歓会や各種懇親会を中止にすると、名古屋の財界は一斉に右に倣えをするなど、今更珍しくもない光景である。トヨタ自動車の政治力からすれば、警察・検察が、飯塚氏の事故で、第三者機関に検証を依頼しなかったことは、残念だが当然であるだろう。むしろ問題は、下津裁判長がそれを是認したことであり、彼は法治国家の裁判官としては失格であろう。

 人の自然な習性として、自分の身内や仲間に対しては、他の人々に対すよりも、何かと特別扱いをしたいと思う。民間企業などが、人材採用や取引において縁故で優遇することが、全てにおいて悪いとも言えないであろう。得意客への特別サービスであれば、むしろ行わない方が商売センスが無いとも言える。だが、公共サービスはそうであってはならない。人の人生を決定的に左右する刑事裁判なら、尚更そうである。その意味において、今般の飯塚被告に対する判決と、それに至る司法手続きについては、これまで述べたように、疑念に思う点がある。繰り返すが、飯塚氏の事故についての証拠認定手法は、誰に対しても、同様に採られると考えた方がよい。本件が、仮に控訴審に持ち込まれた場合には、裁判所は、改めて第三者機関による技術的検証を行うべきであろう。

「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの」(箴言16:11・口語訳)
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夏は暑くて眠れない(記事No.36)

 毎日暑い日々が続いているが、私が生まれ育った街は海沿いにあり、夏でも夕方などは海風が心地良かった思い出がある。京都は盆地であり、市街地中心部は緑も少ないので、余計に暑く感じる。こう暑いと、ある映画の中で登場人物が語った言葉が思い返される。黒澤明監督の、「天国と地獄」で、殺人犯が言った、「夏は暑くて眠れない。冬は寒くて眠れない。」という言葉である。

 「天国と地獄」は観たことがある方も多いと思うが、三船敏郎、仲代達矢、山崎努、香川京子など、錚々たる俳優が出演した名作である。誘拐事件を軸に物語が展開するのだが、引用したのは、逮捕された、山崎努扮する犯人の研修医が語るセリフである。彼は自分が置かれた境遇と、富裕層(と彼が思っていた)の人々とのそれとを比べ、憎悪と妬みがない混ぜになった感情を吐露したのだ。この映画が制作されたのは1963(昭和38)年であるが、当時も貧富の格差は当然のように存在していた。格差社会とも称される現代であるが、格差そのものは、古代から、およそ社会と呼ばれる人間集団があるところには、一部の原始共産制社会を除いては、万遍なく存在していたであろう。

 それでは何故、近年になって、格差の存在がしばしば語られるようになったのか?いくつか理由が考えられるが、1つには、格差に対する問題意識を持つ人が増えたと言うことかも知れない。それは、インターネットなどのメディアを利用して、情報発信が容易になったことで、格差問題が取り上げられることが増えたことでもある。もう1つには、実際に格差社会の下層部に置かれ、生活苦に喘ぐ人々が増えていることも見逃せない。先進国と呼ばれる国々の中で、唯一日本だけが、20年前と比べて勤労者の実質賃金が減少していることはよく知られている。また、労働者の約4割が、非正規雇用となっていることも周知の事実である。小泉政権による、いわゆる構造改革と、歴代政権が踏襲して来た、税制を含めた新自由主義的な政策こそが、今ある状況の直接的な原因であろう。

 私自身は、経済学者宇沢弘文氏が説いた社会的共通資本の考え方や、公益資本主義を支持しているので、弱肉強食的な新自由主義の考え方には違和感しか覚えない。しかしながら、この20年くらいで、日本も、自己責任が強調される社会に変容したのは事実である。それは、多くの人々が格差社会の深化を受容したことでもあるだろう。格差社会の上層部に位置する人々、それはほとんど富裕層と同義語でもあるが、彼らの多くは、自分たちの才覚や努力がその地位を築いたと考えているかも知れない。そして、対極に位置する底辺の人々に対しては、しばしば、能力や努力が足りなかったのだと考えているのであろう。

 確かに、社会の上層部に位置する人々は、全般的には、能力に恵まれた上に、努力を惜しまなかった人たちであろう。私も、例外も多く見られるという条件付きで、その点は同意する。しかし同時に、彼らもまた、社会から多くの恩恵を受けて、その位置に到達したのだ。競争社会で勝ち上がって来たことの背景には、社会から有形無形のサポートがあったと思うべきであろう。熾烈な競争社会を異常と思う私でも、互いに切磋琢磨することは必要だと考えているが、問題は、それが公平な環境でなされていないことである。よく言われる、機会の平等と、公平な果実の分配が不可欠である。例を挙げれば、教育を受ける機会もそうであろう。1,500万円の教育資金贈与非課税枠をフルに使って、経済的な不安無く勉強できる青少年がいる一方で、奨学金という名目の学資ローンを借りなければ、高等教育機関で学べない人々も多くいる。どちらも、社会の制度を利用して教育機会を得る訳だが、個人の経済的負担となると、天国と地獄ほども違う。

 新自由主義と言えば、竹中平蔵氏らが提唱した、上が潤えば下もその恩恵を受けると言う、トリクルダウン理論は、既に完全に化けの皮が剥がれている。それは格差の縮小では無く、拡大こそをもたらした。もっとも、提唱した当人らは、最初からこうなると分かって言っていたとは思う。社会が活力を回復するために、本当に必要であるのは、むしろ底辺層の底上げであろう。それは、おこぼれに与らせるということではなく、社会の制度を、より公平なものと変えていくことである。それは結果的に、犯罪や自殺の減少、社会保険料を含めた担税能力の上昇、国力の増進など、富裕層を含めた社会全体にとって有益となるであろう。本当に苦しんでいる人々は、自らの権利を主張することも出来ないでいると思う。私たちは、声が大きい人々よりも、か細い声の人々に心を向ける者でありたい。

「弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ」(詩篇82:3・口語訳)
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死刑制度の是非(記事No.35)  

 今週、北九州の暴力団幹部の刑事裁判で、殺人などの罪に問われていた被告に対して、福岡地方裁判所は死刑判決を言い渡した。判決では、暴力団工藤会総長の野村悟被告は、4件の市民に対する襲撃を部下に命令したと認定された。野村被告は、判決を不服として控訴している。一連の市民らに対する襲撃事件は凶悪な犯罪であり、関与した暴力団員らは厳罰に処せられるべきであろう。しかし、本件で裁判所が野村被告の指揮命令があったと認定したからと言って、真実がその通りであったのかは分からない。暴力団は存在自体が社会悪だと確信するが、個々の事件で第三者が先入観を持って決めつけてはならないと思う。

 この死刑判決のニュースを読んだ時、改めて思ったことが2つあった。1つは、凶悪事件の犯人とされた人に対して、国民の多くが死刑を望んでいることは、当然のことと受け止めて良いのかどうかである。もう1つは、死刑制度そのものの是非である。前者については、凶悪事件の被害者や被害者の遺族らと、事件と無関係の国民とは分けて考える必要があるだろう。家族を無残に殺された被害者遺族が、犯人に対して強い報復感情を抱くことは人として当然である。同じ立場になったら、誰もが犯人を激しく憎悪するだろう。しかし、被害者とは面識も無い国民が、犯人を死刑にせよと軽々しく口にすることには、どうしても違和感を感じてしまう。なぜそう感じるのかと言えば、自分が絶対に死刑に処せられる側にならないとは、誰もが断言できないということが1つである。もう1つは、死刑制度の是非にも関わることであるが、絶対に冤罪処刑が無いとは言い切れないからである。

 もう30年くらい前のことであるが、図書館で面白い本はないかと探していた時、イギリス人ジャーナリストが書いた、アメリカの死刑囚についてのルポタージュ本が目に止まり、一気に読んだことがある。残念ながら、本の題名を忘れてしまったのだが、読んだのは日本語翻訳版であったので、古本なら探して手に入れることも可能だろう。何人もの死刑囚に実際に面会して、その肉声を聴くという作業を積み重ねてまとめ上げられたものであった。本の最後に筆者が記した言葉が、今でも印象に残っている。それは、「神の恵みが無かったら、私も彼らの1人になっていたかも知れない」というものであった。

 死刑についての私自身の考え方を明かすなら、数年前まで、一貫して死刑制度賛成の立場だった。実は、クリスチャンの中でも、死刑制度については考え方の隔たりが大きい。賛成派は、旧約聖書にある、命は命で贖われるべきだという教えを根拠にしていることが多い。これに対して、反対派は、新約聖書の報復禁止の教えや赦しについての教えを、より重視していると思う。聖書の教え自体には、死刑を禁止している箇所は無いので、社会の中でどのように取り扱うかは、私たち人間に委ねられているとも言える。牧師の中でも、死刑制度の維持は当然と教える人と、逆に死刑制度廃止を説く人とに分かれているし、その種のテーマにはなるべく触れないようにする人もいるだろう。そのような中で、数年前、私はそれまでの死刑制度維持の考えから、死刑制度原則廃止の考えに変わった。

 死刑について、私が考え方を変えた最大の理由は、冤罪処刑があってはならないと思うからである。日本でも、一応は近代的な刑法体系が成立していたはずの大日本帝国憲法下において、数々の冤罪処刑があったと言われている。中でも、1911(明治44)年に、幸徳秋水氏ら24名が明治天皇暗殺計画を理由に死刑判決を受け、その内12名が処刑された冤罪事件はよく知られている。日本国憲法下でも、幼児2人を殺害したとして死刑判決が確定し、最期まで無実を訴えながら、森英介法務大臣(当時)の命令により2008年に処刑された、いわゆる飯塚事件の久間三千年氏のケースが、冤罪疑いが濃厚ではないかとして知られている。本件は、久間氏の遺志を継いだ同氏の妻が再審請求を起こしたが棄却され、その後新たな有力目撃証言も得て、現在2度目の再審請求中である。飯塚事件で証拠とされたDNA鑑定は、別の再審事件では証拠価値が否定され、服役していた人が釈放されることになったものと同じ方式であった。久間氏については、裁判所や検察庁は今でも真犯人と捉えている訳だが、DNA鑑定結果に合理的な疑いがある以上、少なくとも、再審裁判を開くのが法治国家として当然ではないか。

 このように、一度死刑が執行されてしまうと、たとえ、後年に冤罪事件だったと判明したとしても、決して取り返しがつかないのだ。しかも、冤罪に関与した裁判官、検察官、警察官といった公務員は、決して、個人責任を問われ免職されたり、まして処罰され服役することも無いのである。それどころか、退官後は叙勲などの栄典も受ける。これは、著しく公正に欠き、正義に反するとは言えまいか。国家の威信、その実は役人の面子のために、過ちが正されないとすれば、もはや法治国家とは言えないであろう。ちなみに、誤判で死刑が執行された場合の補償金額はご存知だろうか?刑事補償法の定めるところでは、3,000万円以内である。これは、車の自賠責保険の死亡保険金額と同額である。国家が国民の生命を、1人あたり3,000万円程度と見做しているのだ。本来は、もし冤罪処刑なら、関係者個人の処罰に加え、天文学的賠償金を支払うべきだと思うが、如何だろうか?

 日頃、品行方正に生きている人であっても、何かのきっかけで冤罪事件の当事者になる可能性が絶対無いとは言い切れないであろう。もしそれが、殺人事件など死刑の定めがある犯罪であれば、あなたも冤罪で処刑されるかも知れないのだ。そう考えると、凶悪事件について、私たちがより関心を持たなければならないことは、第1に被害者と被害者遺族に対する国家の全面的なサポート体制の構築であり、犯人を絞首台に吊るすことではないと思う。そして、公正な裁判が行われるよう、司法手続きで改善すべき点は改めるべきだ。国民が裁判員として参加する、再審裁判所の設置も必要だろう。ヨーロッパ諸国をはじめ、死刑を廃止する国々が増えているが、日本も一般刑事犯罪については死刑を廃止し、最高刑は仮釈放無しの終身刑に改めてはどうだろう。それで社会正義が損なわれるとは思えないし、冤罪処刑も根絶することが出来る。私たちは、自分と死刑囚との運命を分けたのは、ほんの紙一重の幸運の積み重ねだったかも知れない、という意識を持った方が良いだろう。

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」(ヨハネによる福音書8:7・口語訳)


 先に書いたように、私は死刑制度原則廃止の考えを持つに至った訳であるが、例外的なケースもある。それは、戦争犯罪に対する場合である。刑法犯に対する死刑を廃止したヨーロッパ諸国などでも、戦争犯罪に対しては死刑適用の余地を残している。一般刑法と戦争法規では、違反者の認定や処罰に対する考え方が違うからである。私も、戦争犯罪については、死刑制度を存置することに賛成である。戦争法規は、日本人としては馴染みが薄いが、ハーグ陸戦条約など戦時国際法は日本も批准している。現行憲法が特別裁判所の設置を禁じているとは言っても、国際条約が上位法であるので、国内法制の不備があるにせよ、戦争犯罪者を裁く特別法廷の設置は可能であろう。あるいは、日本人が、例えば、人道に対する罪を犯した場合、外国に移送されて裁判を受ける可能性もある。戦争犯罪は、武器が用いられる戦争や紛争の場合だけでなく、例えば、将来世界規模の薬害事件が認識された場合などにおいて、人道に対する罪が適用されることも十分あり得る。自分が死刑に直面するとは夢にも思って居なかった人々が、その時、特別軍事法廷に立つことが無いとは誰も言えないであろう。 
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万事が益となる(記事No.34)

 今朝、中学生の次男が所属するサッカー部のオンライン・ミーティングがあり、秋の新人戦が中止になったとの連絡があったという。次男は、中学生になってから本格的に始めたサッカーで、しかも昨年は部活動が全面中止されていたというハンディを、必死の努力と工夫で乗り越え、新人戦ではフォワードとして出場することが内定していたので、随分と落ち込んでいた。オリンピック・パラリンピックは開催したのに、それよりは比べ物にならないほど小規模の、一地方都市の中学生新人戦は中止である。西脇・門川の京都府・市政では教育行政もお粗末であることが、またしても現されたような格好である。これも、現代日本社会の異常さを象徴しているような出来事と言えなくも無い。

 日本人は、もうそろそろ、為政者ら支配階層(と思い込んでいる者たち)は、国民に仕えるという思いなど、少しも持ち合わせていないことを学習すべきであろう。口だけなら弁舌爽やかに何とでも言えるが、結果が全てを証明している。パンとサーカスで誤魔化されることと、いい加減決別しなければ、この国の未来は無いと思った方がいい。現在進行中の新型コロナ騒動にしても、本気で国民を守ろうと思えば、少なくとも台湾並みのコントロールは可能であったと思う。だが実際は、昨年1月末、既に中国武漢市の都市封鎖が始まった段階で、安倍首相(当時)は、春節に中国人の訪日を歓迎すると宣伝していたのだ。その後も、場当たり的な全国学校休校を行いながら、オリンピックは開催方針を堅持するなど、支離滅裂な対応を続けた。今さら、医療体制の逼迫などと言っても、言い訳にもならないであろう。

 日本がかくもお粗末な社会となってしまった原因は、危機感を抱いている人々の中でも、様々な見方があるだろう。政治的立場が異なれば、視点も異なるのは当然である。だが、最大公約数的に、愛の欠如があるとは言えまいか。国に対する愛、隣人に対する愛、(自己中心とは違う)自分自身に対する愛である。その代わりに増進したのは、今だけ、金だけ、自分だけの利己的な行動様式ではなかったか。書きたいことは山ほどあるが、小ブログは政治的主張を行うことを目的としていないので、脱線しないよう、この辺で今回のテーマに戻りたい。

 さて、秋の新人戦が中止となったことで失望した次男に対して、私は、聖書の法則の1つを示して励ました。それは、神を信じる者たちのために、万事が、すなわち、良いことも、悪いことも、全てが益と変えられるという法則である。私たちは、神に対する信仰の有無に関わらず、この世では悩みがある。それは、この世界の中に、罪の法則が働いているためであり、それは、世の終わりの万物更新の時まで続く。であるから、神を信じるクリスチャンにとっては、この世界は信仰の訓練の場でもあるのだ。なぜ、全能の神がそれを許容されるのか。それは、訓練が無ければ成長も無いからである。神は、人をロボットのようには創られなかった。自由な意思で、神に従い、聖書の教えを実践することを、神は望んでおられる。そして、聖書にある神の言葉を信じる時、神の法則が私たちの人生の内に現される。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8:28・口語訳)


 私も、万事が益となるという聖書の法則を、自分で認識しているだけも幾度となく体験した。いや、万事であるから、人生の全ての歩みが、失敗も、挫折も、過ちも、ことごとく有益であったのだ。強がりでは無く、負け惜しみでも無く、そう言えるのは、神が私の人生の唯一無二の援護者であるからだ。楽しみにしていた新人戦の中止で、今は失望している次男であるが、いずれ聖書の法則が真実であることを身を持って体験し、このことさえも益となったと言える日が来るだろう。
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アフガンの呪い(記事No.33)

 今回のテーマ名は、少しおどろおどろしい題を付けてしまったが、本来はストレートに、「呪われたアフガニスタン」としたかったぐらいだ。しかし、いかに小さく始めた個人ブログとは言え、1つの国全体を呪われたと決めつけることには、ためらいも少しあり、デフォルメしたようなテーマ名とした。

 このところ連日、アフガニスタンに関連したニュースが流されている。タリバンは、一部地域を除き、国土の大半をその支配下に治めた。今後のタリバンによる統治がどうなるかは、1996年から2001年まで続いた、前回のタリバン統治を見れば明らかだろう。当時も今も、彼らはイスラム法の厳格な適用を公言しており、その通りに国内統治を行うだろう。どうして、彼らが米軍や有志連合諸国の情報機関が予測したよりも早く、国土の大半を制圧することができたのか。前政権が著しく腐敗しており、ガニ大統領を戴く国軍は、最初から徹底抗戦するつもりが無かったことが大きい。もう1つ見逃せないのが、恐らくは、アフガニスタン国民の多くもタリバンの復権を支持していることだろう。日本を含む自由主義圏のメディアは、抑圧に怯える女性の姿などをクローズアップし、国民の多くはタリバンによる恐怖政治を嫌っているとの視点で報道することが多い。しかし、これほど迅速にカブールまで無血開城させたのは、首都や一部地域を除き、民衆からの支持があったことが大きいと思われる。

 それにしても、アフガニスタンは近現代において、外国との戦争や内戦が繰り返されて来た国である。その理由は様々に言われて来た。古くから東西文明の交差点と言われて来たように、中央アジアに睨みを効かせるという地政学的な理由もあるだろう。イギリスが19世紀から20世紀にかけて、3度に渡りアフガニスタンに侵攻したのは、ロシアの南下を食い止めるために、保護国化を図ったからだとも言われている。1979年には、親ソ政権を支援するソ連が侵攻し、イスラム系ゲリラ組織と10年間に及ぶ戦いを繰り広げた。この時にアメリカが支援した反ソ連ゲリラ組織の中から、やがてタリバンが生まれたのは皮肉である。2001年にアメリカが、アルカイダに根拠地を提供しているという理由でアフガニスタン侵攻を開始した時、全土の90%近くを掌握していた。その後の20年に及ぶ戦争でもアメリカはタリバンを殲滅できず、結局は、流されたアフガニスタン国民とアメリカ兵らの血は、彼の国に平和と安定をもたらすことは無かった。

 アフガニスタンに戦火が絶えない理由は、地政学的理由や対テロ戦争の舞台とされたこと以外にもある。同国は、アヘンの原料である、ケシの世界最大の栽培国である。少し古いが、2018年の国連の報告では、推定6400トンのケシが生産され、約630億円の収益があったと見られるという。麻薬の生産過程は、ケシ→アヘン→モルヒネ→ヘロインとなるが、当然、精製が進むほど末端価格は高価になる。国連推計の約630億円というのは、、相当控えめな見積もりであろう。国際的麻薬流通ネットワークの中で、ゴールデン・トライアングルに並ぶ、世界最大の原料供給地であるアフガニスタンを押さえることは重要であろう。ベトナム戦争の時もそうであったが、アメリカ中央情報局(CIA)の秘密活動には、麻薬流通をコントロールすることが含まれていると言われている。この他、アフガニスタンを巡っては、希少鉱物資源の宝庫とも言われていることから、アメリカによる侵攻の、隠された動機の1つではないかとの推測もある。

 以上、アフガニスタンに戦乱が絶えない理由を挙げたが、これらは、政治的、経済的、軍事的カテゴリーに属することである。私たちは、もう1つのカテゴリーにも着目した方が良いだろう。それは霊的な理由である。これについては、旧約聖書に記録されている、イスラエル(ユダヤ人)の歴史が教訓となる。彼らが神に従って歩んでいた時、外敵を打ち破り国内には平和と繁栄があった。しかし、彼らが神に背いた歩みをしていた時は、彼らは外敵に敗北し、国内は不安定であり国は衰退した。最後は、2度に渡って外国の捕囚となり、国は滅亡した。現代においても、その原則は同じである。これをアフガニスタンに当てはめて考えると、麻薬の生産は、戦乱を招いている霊的理由の1つとなる。それは、仮に一部が医療用モルヒネとして供給されるとしても、大半は各国のマフィアなど裏社会によって流通させられ、多くの人々の人生を破滅させることと引き換えに巨額の利益を得る、悪魔のビジネスだからである。

 アフガニスタンには、もう1つ、戦乱という呪いを招く霊的理由が存在する。それは、権力者らによる児童に対する性的搾取である。ここ数年は日本のメディアでも報道されているが、現代でもアフガニスタンでは、男児を性奴隷とする、バチャ・バジ(バチャ・バーズィーと表記されることもある。)という古くからの習慣が現存している。この悪習の対象とされる不幸な子供たちは、幼児から思春期頃までの男児である。彼らは、誘拐されたり、騙されて連れて来られた子供たちであり、地域の権力者や警察幹部などによって所有され、踊り子などを兼ねた性奴隷として過酷な日々を送る。イスラム法では、未婚の男女が性的関係を持つことに対しては、軽くて鞭打ち、重刑となると石打により処刑となる。どう考えても、成人男女の合意の上での不品行よりも、児童を性奴隷にする方がはるかに悪質な戒律破りだと思うのだが、イスラム法では軽重の考え方が逆のようである。タリバンは表向きはバチャ・バジを禁止しているが、徹底的に根絶することまではして来なかった。このペドフィリアの悪習は、いつまで経ってもアフガニスタンに平和と繁栄が訪れない、霊的理由の1つであろう。

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」(申命記11:26–28・新共同訳)

 実は、ペドフィリアの問題は、アフガニスタンに限らず、先進国とされる国々を含めた、世界中に存在している。個々の幼児性愛者による犯罪だけでなく、支配者層を含めた、ネットワーク化された集団犯罪もある。当然のことながら、欧米諸国にも、この日本にも、そのようなペドフィリア・ネットワークが現存している。時折、被害者の勇気ある告発や末端の関係者が摘発されることなどで、その存在が垣間見えることがある。近年では、2016年にアメリカで明るみになったピザ・ゲート事件、2003年に日本で起きたプチ・エンジェル事件などが知られている。これまでのところでは、前者はトランプ支持の陰謀論者の妄想とされ、後者は発覚直後に自殺したとされる男の個人的犯行と片付けられた。もっとも、欧米諸国のペドフィリア・ネットワークが、悪魔崇拝者らの組織と重なっていることが多いのに対して、日本の場合は、どちらかと言うと、性的に倒錯した権力者らによる秘密の娯楽といった性格が強いものと推察される。

 今回は、重苦しいテーマを取り上げてしまったが、アフガニスタン政府崩壊の事態に接し、表層的な事象の背後には、しばしば霊的な問題が存在していることを書きたかったためである。これは何も、国家レベルの問題だけでなく、個人レベルの問題にも当てはまる。何でもかんでも霊的な理由や法則を見出そうとする必要は無いが、それらを全く考慮に入れないのでは、時に問題の本質を捉えることが出来なくなる。人生において何らかの問題に直面する時、神からの知識と知恵を祈り求めるなら、私たちは霊的な面も含めた、解決の道を見出すことが出来るのである。
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キリストに在る兄弟姉妹(記事No.32)

 今日は、記事No.24に書いた、大阪のM牧師が牧会する教会の日曜礼拝に夫婦で出席した。最後にM牧師ご夫妻とお会いしたのは2016年5月であったので、およそ5年3ヶ月ぶりの再会である。礼拝後は、教会堂に残ったメンバーの皆さんとも30分ほど話したが、楽しいひと時であった。その教会には、マーレーシアやベトナムから来た留学生も集っており、私も隣席に座っていた、その内の1人と話が弾んだ。その後は、徒歩30秒のM牧師宅に移動し、奥様の手料理をいただきながら、これまた楽しい時を過ごすことができた。時節柄、会話をするときにはマスクを装着するように気をつけながらであったが、良い親睦の時を持てたのは感謝であった。
「見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう」(詩篇133:1 口語訳)

 キリスト教会では、クリスチャン同士、兄弟姉妹と呼び合うことがある。A兄弟、B姉妹と言う具合である。クリスチャンである人のことを言うとき、キリスト(主)に在る兄弟姉妹という表現を使うこともある。キリスト(主)を長子とする、神の家族という概念があるからである。あるいは、クリスチャンは皆、父なる神の子供であるからだ。この考え方は、全世界のクリスチャンに共通した考え方である。例外は、相手がクリスチャンと称していても、生きた信仰を持っているのか分からない場合である。このような場合には、特に相手の方から接近してきたような場合には、どのような人なのか、慎重に見極めることも必要となる。なぜなら、キリスト教を詐称する異端宗教が、クリスチャンを引き込もうと接近する場合もあるからである。中には、詐欺師など犯罪者が、相手を信用させようと、キリスト教を利用しようとする場合も無い訳ではないだろう。

 時には、お互い相手が真のクリスチャンかどうか見極めようとする場合もある訳だが、その関門を過ぎれば、キリストに在る兄弟姉妹となり、一挙に距離が縮まる。私も、日本国内のみならず、アメリカで、韓国で、中国で、ヨーロッパ諸国でと、異国で異民族の、初対面のクリスチャンと、親しい友人同士のように親睦の時を持った経験がある。アメリカ留学中には、ただクリスチャンであるという理由で、助けられたことがよくあった。韓国では、日本人のクリスチャンであるというだけで、初老の紳士から夕食をご馳走になった。フランスでは、もちろん事前の紹介を受けてだが、初対面の人の家庭に数日間ホームステイさせてもらった。しかし、特にメンバーの大半が白人の教会では、文化的な問題から、紹介や事前連絡無しで礼拝に出席するとあまり歓迎されない場合もあるのは事実だ。どうしても、同じ文化圏や言語圏の人々の方が接し易いということはあるにせよ、根本的なところでは、同じ神、同じ信仰、同じ聖書の教えを共有する兄弟姉妹である。
「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ人への手紙3:28・口語訳)

 このように、人種、民族、出自、国籍、社会的立場などが異なる人々を、兄弟姉妹として結びつけるのが、同じ神に対する信仰である。ただし、残念なことに、歴史を振り返ると、キリスト教国とされる国々同士が戦火を交えたこともあった。中世から近代にかけてのヨーロッパでは、そのような戦争が繰り返されて来た。その中で、正戦論という、合法的な戦争のあり方を規定する理論が編み出されもした。歴史の教訓は、ひとたびナショナリズムが激しく刺激されるなら、宗教(教会)が政治的熱情を冷ますのは困難であると言うことだ。政治と宗教が密着している場合は、なおさらである。今なお、イスラム教諸国では、同じ神を信じる国や部族同士が戦うことがあるが、アメリカとロシアが将来そうならないという保証は無い。政治体制を異にする、中国と台湾では、それぞれの国のクリスチャンたちが、互いの国同士が戦うことが無いように祈っていると聞く。

 クリスチャンであっても、この地上では、イエスを信じて新しくされた霊の部分を除いては、罪の性質を有している。それゆえ、互いに争って、神を悲しませて来たのが人間の歴史である。だから私たちは、互いに愛し合いなさいというイエスの教えを、日頃より実践することを心がける必要がある。キリストに在る兄弟姉妹の親睦は、また、互いに愛し合い仕え合う良い機会でもある。
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34・口語訳)
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食事を共にすること(記事No.31)

 度重なる緊急事態宣言の発令で、対象地域を中心に、国民生活の疲弊が続いている。経済的にも、打撃を受けている事業者や勤労者が増えている状況である。企業信用調査会社の帝国データバンクが8月19日に発表したところでは、新型コロナウイルス流行に関連した倒産が、昨年来の累計で1905件判明しているとのことだ。業種としては、飲食業、建設・工事業、ホテル・旅館業、食品卸業の順となっている。倒産形態としては、破産が1685件と多くを占めており、ある程度余力を残しての事業整理ではなく、ぎりぎりまで踏ん張って力尽きた事業者が多かったものと推測できる。

 営業時間の短縮に応じた飲食業者には、中小事業者の場合で1日当たり4万円から最大10万円が支給されることになっている。(東京都の場合)仮に、昨年の1日あたり売上高が10万円以下であったなら、1日4万円が支給されるはずである。4万円と言う金額は、オーナーが1人で切り盛りしているような、小規模店であれば十分かも知れない。しかし、駅近など賃料が比較的高いエリアに立地し、アルバイトを雇っているような店では、小規模店でも十分な金額とは言えないだろう。飲食店だけが補償を受けるのはおかしいという声もあるが、前述の帝国データバンクの発表にあるように、緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置によって最も打撃を受けているのが飲食店である。

 飲食店の苦境は、同時に常連客を中心に、利用客が我慢を強いられていることでもある。感染予防のための工夫や、テイクアウトなど新たな販路の開拓は、飲食店側にも企業努力が必要な点ではある。しかし、全ての飲食店で、一律に営業時間制限や酒類提供制限を課すことはいかがなものであろうか?よく言われることだが、ウイルスは夜8時を過ぎると活発化する訳ではあるまい。あるいは、1人で食事をしながらビールを飲んだところで、直接的には感染リスクが高まる訳ではない。念のためであるが、私は酒を飲まないので、飲酒出来ないことへの恨み節では無い。様々な生活リズムがある中で、夕食難民になっている人も少なく無いのでは無いか。

 このように、今は家族や友人と外食をするのも、しばしば不便を感じるご時世である。特に、人恋しい性格の人にとっては厳しい状況であろう。かく言う私自身も、グルメというほどではないが、親しい人々と食事をするのを好む性質があるので、何かと物足りない今日この頃である。食事というのは、単に生命維持のために栄養を補給することではない。おいしいものを食べること自体が喜びであり、気の置けない人々と共に食事をするなら、なおさらそうである。実は、聖書の中にも、食事のことを記した箇所が多くある。私が学んだ神学校で旧約聖書を教えていた老教授が、新学期に彼の講座の履修生を昼食に招待した。私も招待された1人であったが、学内のカフェテリアでの昼食に、デザートは教授お手製のアイスクリームであった。

 老教授曰く、旧約聖書の時代には、食事には和解の意味が込められることがあったという。敵対していた者同士が和解した時、その証として、食事を共にすることがあったそうだ。言わば、信頼関係を結んだことの表れか。それはそうであろう。敵対者かも知れない相手と食事をするなら、食べ物に毒をもられて殺されるかも知れない。日本の戦国時代もそうであったと思うが、信用出来ない相手と食事するのは命懸けであったであろう。くだんの老教授は、自分がこれから教えようとする学生たちと、信頼関係を持っていることを示したのだ。それと同時に、聖書にある食事の記事が、神と人との和解を象徴していることを教えたかったのだと思う。

 「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20・聖書協会共同訳)

 イエスは、当時のユダヤ社会では罪深いとされていたり、人々から忌み嫌われていた人々と、しばしば食事を共にされた。それは、食事を共にした彼らが、自分の罪を神の前に悔い改め、イエスとその教えを信じたからであった。イエスと食事を共にすることは、彼らが、イエスを通して神と和解したことを象徴していた。今日でも、それは同じである。現在この地上では、見える形でイエスと食事を共にすることはないが、霊の内にあって、それは可能である。自分と家族や親しい友人たちとの間に信頼関係があるならば、食事を共にすることは楽しく平和なひとときであろう。イエス・キリストとも、また同様である。
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