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スイスよ、お前もか(記事No.46)


 報道されているところでは、9月26日にスイスで、同性婚合法化の是非を問う国民投票が実施され、賛成が64.1パーセントと多数を占めたという。今後は、法改正手続きが進められ、同国では同性婚が合法となる見通しである。同性婚は、2001年にオランダで法制化されたのを皮切りに、現時点で、一部の州で認められている米国を含め、29ヵ国で合法とされているそうである。

 近年は日本でも、「LGBT」あるいは「LGBTQ+」という用語が人口に膾炙されているように、多様な性認識や性的指向を認めようとの動きが活発化しており、同性婚合法化を訴える人々もいる。これは、一見すると、人権問題のようでもあり、社会的な影響力のある人が、これに対して否定的な言説を唱えることは、激しく糾弾されることにもなりかねない。マスメディアなども、同性婚に肯定的な声を紹介することが多いようにも感じる。ドラマや映画などでは、ごく自然に同性愛者を登場させるなど、同性婚も社会的認知が得られているという前提に立って制作されているケースもある。特にNetflixは、その傾向が露骨である。

 古代より、同性愛者は公然か非公然かは別として、どの文明や国家にも存在していたと思われる。日本でも、16世紀に渡来したキリスト教宣教師が、僧侶や武将の中で広く見られた同性愛の風習について厳しく非難したことが記録されている。かく言うカトリック聖職者の中には、学校などで男子児童に性的虐待を加えていた者たちが、現代に至るまで存在して来た訳で、これはもう、人類普遍の問題であろう。しかしながら、同性婚が徐々に社会的に許容されるようになったのは、前記のとおり、20年前くらいからである。

 同性婚の前提となる同性愛者の数については、もちろん日本では正確な統計は存在していない。諸外国の意識調査などでは、人口の10%未満、数パーセントの割合で同性愛者が存在するようではある。私は、これまでに、自分が同性愛者であると明言する人には数えるほどしか出会ったことがないが、そのような人に最初に巡り会ったのは中学生の時であった。今から思い返しても不愉快な体験であったが、中学3年生の時に、ボーイスカウトのキャンプに参加した際のことである。休憩時間にテントに戻ると、そこでは中3と中2の団員が2人で同性愛行為の真っ最中であった。私も加わらないかと誘われたが、速攻拒否したのは言うまでもない。トラウマにならなかったことは、不幸中の幸いであった。

 これまでの私の観察では、日本では同性愛者よりも、いわゆるバイ・セクシャルの性的指向を有する人の方が多いと思われ、合わせれば、あるいは人口の1割近くにもなる可能性がある。であるから、異性の恋人がいたり結婚しているのにも関わらず、同性愛にも興味を抱く人がいると言うことだ。そのような人々は、通常は自分の密かな性的指向を決して表には出さないが、何かの機会でそれが顕在化することがあるのかも知れない。どうであれ、大人同士が、自分の意志で同性愛者カップルとして生きるのであれば、そのこと自体には他人が無闇に干渉することは出来ないであろう。問題は、それを同性婚の合法化という形で、社会的承認を与えて良いかどうかである。

 そのことに対する社会的答えは、本来は、私たちの社会における最大公約数的な世界観や人間観に基づいて導き出される筈である。しかし、同性婚合法化を推進する勢力は、それらを政治的行動によって変革しようと試みて来た。例えば、2012年に米国コロラド州で、同性婚のウェディング・ケーキを注文しようとしたカップルに対して、キリスト教信仰を理由に製造を拒否したケーキ店の店主が、人権侵害だと訴えられたケースがあった。恐らくは、分かっていて仕掛けた言いがかりであろうが、州裁判所が人権侵害を認定したのに対して、2018年に連邦最高裁判所は、同性婚に反対する宗教観を人権侵害としたことは信教の自由に反しているとして、ケーキ店主勝訴の判決を下している。

 このように、同性婚合法化推進勢力は、自分たちの自由や権利が不当に侵害されているという主張に立っている。しかし、実際は、彼らの方が、自分たちと異なる考えを持つ人々の自由や権利を、侵害するような行動を重ねて来たのでは無いだろうか。であるから、ポリティカル・コレクトネスとしては、同性婚合法化に正面切って反対することは、間違っているとされる可能性が高い。それでは、人間の考えではなく、神の言葉である聖書は何と言っているのであろうか?

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記 1:27 新改訳)


 聖書の教えの中には、同性婚を容認する余地は無い。残念なことではあるが、欧米諸国のみならず、日本においても、少数の教会とは言え、同性婚に肯定的な教えを説いているところもある。また、同性愛者であることを公言している牧師も数名存在する。確かに、神は罪人である私たちを、ありのままで愛してくださっている。しかし、それは、何をしても許されるということとは違う。神の創造の秩序に反することは、少なくとも、教会として、また、教会が置かれている社会として、容認することは神の教えに反することである。近年、ソドムの街の跡と考えられる遺跡が確認されている。ソドムは、同性愛を含めた度を越した性的堕落によって神の怒りを買い、ゴモラの街と共に滅ばされた街である。英語で男色や獣姦などを意味する、「ソドミー」の語源は、このソドムである。

 なお、同性愛については、これは自然な性的指向の1つではない。聖書の教えから判断するに、幼い頃に受けた霊的抑圧や性的虐待などに起因する、精神的、肉体的影響が、その主な要因であると考えられる。私は、同性愛から解放された、韓国人クリスチャンJ兄の体験談を直接聞いたことがあるが、神の力により、そこから自由になることが可能である。この種の問題は、聖書の正しい教えによく通じ、神の霊の力に満たされ、かつカウンセリングの訓練を受けた牧師などが取り扱うべきものであろう。

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タクシー・ドライバー(記事No.45)

 仕事柄あちこちに移動することが多く、また、新型コロナ感染予防で満員電車を避けていることもあり、タクシーに乗る機会が多い。タクシーに乗るたび、余程の近距離でない限り、少しでもドライバーと会話をすることにしている。ドライバーは、地元の様々な情報を知っているからである。特に、昨年京都に移住してからは、市内の地理などを覚えたいということもあって、乗るたびにあれこれ質問したりしている。新幹線で帰京した際には、たいてい京都駅八条口からタクシーに乗るので、個人タクシー・ドライバーで3、4人顔馴染みも出来た。

  京都は観光地と言うことで、人口あたりのタクシー台数は日本有数と聞く。今は海外からの観光客が無いに等しいことと、修学旅行生や団体客も激減しているので、タクシーの乗客数も大きく落ち込んだ状況が続いている。京都駅からタクシーに乗る場合、なるべく個人タクシーに乗るようにしているので、顔馴染みのドライバーが出来たという訳である。彼らと話すと、もちろん乗客相手に話せないことは多々あるだろうが、業界のことや京都の面白い話も聞くことが出来るので、豆知識が増えることになる。利用客にとってはサービスが良いと評判のMKタクシーが、他のタクシー会社からは随分と嫌われていることも、ドライバーたちとの会話で知ったことである。

 タクシー・ドライバーとの会話の中で、さりげなく京都出身か聞くことも多いのだが、意外なことに、随分と他県出身者も多いことが分かった。顔馴染みになった個人タクシー・ドライバーの1人は、福岡県出身で30代の時に、九州で行われていたMKタクシーの募集に応じて京都に来たと言う。京都生まれの京都育ちのドライバーの中には、京都出身ということを誇りに思っているような人も多いのだが(なぜ、京都出身ということだけで誇りに思うのか不思議ではある。)、他県出身者は総じて京都の良いところだけでなく、悪いところも忌憚なく話してくれる人が多い。であるから、新参者としては、飾らない本当の京都の実情を、ドライバーから多少なりとも聞くことが出来る訳である。

 国際的観光都市という土地柄、タクシー・ドライバー、特に個人タクシーのドライバーの中には、外国語が出来る人も少なくない、中には、中国残留孤児の子息として来日し、今は個人タクシーを生業としている人もいる。ワゴンタイプ車に乗るその人は、コロナ流行前には、中国人観光客相手に連日フル稼働で稼いでいたそうである。英語が出来るドライバーの中には、英語のホームページで外国人観光客を集客していた人もいる。旅行代理店経由では手数料を差し引かれるので、自分で集客した方が利益が上がると言う訳だ。概して、外国人観光客相手の貸切営業は、うま味のある仕事であったと聞く。タクシー・ドライバーと言うと、長時間労働の割には、収入が低いというイメージもあるが、実際は、様々な工夫と努力で、自営の個人タクシー業者として、そこそこの収入を得て来た人もいるということだ。

 さて、こちらは個人ではなく法人車のドライバーであったが、カリスマ・タクシー・ドライバーとも言われる人がいる。現在は武蔵野市議会議員である、下田大気(しもだ ひろき)という人物である。同氏は、父親が作家の志茂田景樹であることでも知られている。現在45歳である下田氏は、中学時代からギャンブルを覚え、高校生になると新宿や麻布などのクラブに繰り出すなど、遊び人としての生活を送っていた。高校卒業後は、起業家を志すが、ことごとく失敗し、自己破産の憂き目にも遭う。そんな破天荒な人生を送っていた下田氏のために、クリスチャンであった母親は忍耐強く祈っていたと言う。

 下田氏に転機が訪れたのは、彼が32歳の時である。家族を養うために、本業の他にタクシー・ドライバーとして働いていると言う知人の話を聞いて、人生をやり直すためにハンドルを握ろうと思い立ったのである。タクシー会社に就職した下田氏は、たちまち頭角を現し、入社1ヶ月で社内トップの売上をあげるドライバーとなり、3ヶ月後には業界トップクラスの売上を上げるようになった。その秘訣は、かつて遊び歩いた繁華街などでの人々の行動パターンを熟知していたことと、何よりも、母親に倣って神を信じるようになったことで、神からの恵みを得たことであった。祈りつつ仕事をすることで、稼がせてくれる乗客を神が送ってくれたのである。

「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ人への手紙 4:2 口語訳)

 
 下田氏はその後、タクシー・ドライバー派遣事業やコンサルタントしての活動も手がけたが、政治家になるようにとの神の導きを受け、2015年4月の武蔵野市議会議員選挙に立候補し、見事当選を果たした。現在でも、無所属議員として、精力的に政治活動に従事している。クリスチャン・メディアのインタビューや、教会での講演などで、彼が常に語ることは、祈りこそ人生における最大の武器ということである。放蕩に明け暮れた少年時代にも、事業の失敗を重ねた青年時代にも、常に背後には母の祈りがあって守られて来た。タクシー・ドライバーの時代には、いつも祈りながら働き、神はその祈りに応えて優良顧客と売上を与えてくださった。政治家として市民のために働く今も、彼自身と周囲の人々の祈りが、その重要な働きを支えている。下田氏に倣い、私たちも、祈る者でありたいと思う。
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ポイント・オブ・ノー・リターン(記事No.44)

 暑さも少しずつ和らぎ、日によっては過ごし易くもなって来た。国内の新型コロナ・ウイルス感染者数も、PCR検査数のコントロールのためか、あるいは、季節的な要因からか、このところは減少傾向が続いている。この1年数ヶ月の間、私たちは、いつになったら元の社会に戻れるのかと言って来た訳だが、どうやら、戻れるのかどうか怪しくなって来たようである。

さて、ポイント・オブ・ノー・リターンという言葉がある。帰還不能点や回帰不能点などと訳される、元々は航空用語である。飛行機が離陸のため滑走路を走る時、ある地点を過ぎると取り止めることは出来なくなる。その地点を過ぎてから離陸を止めると、オーバーランで事故になるからである。あるいは、目的地に向かって飛行中、ある地点を過ぎると、出発地に戻ることは出来なくなる。戻るだけの燃料が残っていないからで、そうなると、そのまま目的地に向かって飛行を続けるか、その手前に着陸可能地点があれば、そこに向かうしかない。転じて、この言葉は、引き返すことが出来る最終段階を言い表す時にも使われる。

 昨年1月以来、国内外の状況を観察する中で、ワン・ワールド化へ向けて、世界が急激に変化して来たと感じる。私も昨年までは、パンデミックがそのための手段だと思っていた。しかし、今はっきりと世界中に現れていることは、パンデミックを理由としたワクチン接種キャンペーンが、ワン・ワールド実現のための手段であるということだ。これまでも書いて来たように、現在進行中の新型コロナ・ワクチン接種キャンペーンは、私たちの命と健康を守るための手段ではなく、社会を正常化するための方策でもない。彼らの目的は、世界統一政府樹立のために、人々に対する管理を飛躍的に強化することにある。であるから、ワクチン接種と共に、ワクチン・パスポートを導入しようとしているのだ。

 各国政府による、新型コロナ・ウイルス流行対策を名目とした社会生活の規制と、ワクチン・パスポート導入に対しては、欧米諸国を中心に人々の反発が強く、強権的な政府に対して各国で大規模な抗議活動が続いている。イギリスでは、国民の反発を受けて、ジョンソン政権は、一旦はワクチン・パスポート導入を断念した。一足早くワクチン・パスポートの導入に踏み切ったフランスや、徹底した行動コントロール政策を採り殆ど鎖国状態となったオーストラリアでも、怒れる国民による抗議活動が継続中である。ネット上でも、モグラ叩きのように消されまくっても、自由を守ろうと、多くの人々による様々な情報が掲載されている。

 世界規模で現在進行中の、ワクチンをツールとしたワン・ワールド化への動きと、それに反発する民衆の抵抗は、どちらが勝利するかで、世界の運命が決まる段階に来ていると言えるだろう。もし、彼ら、即ち、世界統一政府推進派が勝利したら、世界は一気に終末に突入し、決して後戻りは出来ないだろう。ヨハネの黙示録などに預言されている、世の終わりの最終段階、7年間の患難時代の幕開けが目の前に迫ると言うことである。逆に、自由を守ろうとする世界中の民衆が勝利したなら、悪魔崇拝者らは一旦退却して態勢を立て直す他無く、暫くは世界に再び自由の風が吹くだろう。

 私たち自身の人生においてもそうであるが、進む道がある方向に確定する前には、引き返せる点というのがある。例えば、事故のように一瞬の判断ミスで最悪の結果につながるということもあるが、人生の多くの局面において、どこかで分岐点あるいは回帰不能点があるとは言えないだろうか。決して特定の誰かを指し示しているのではないが、A男さんとB子さんが恋に落ちたとする。2人の気持ちが燃え上がり、結婚を堅く誓い合い、期日まで定めたとすと、もうそれはポイント・オブ・ノー・リターンを超えたということであろう。そうなると、もはや誰も2人を止めることは出来ない。

 個人の結婚問題であれば、行く末がどうなっても、通常は無関係の人たちには影響は及ばない。しかし、これが国家規模、まして世界規模の問題であれば、そうは言えない。結果がどうなるかは、世界中の人々の命運がかかっている。今なら、まだ世界は、かろうじて破滅への道を引き返すことができる。私たちに今必要なことは、世界が今どの方向に向かっているかを認識し、それに対する自分自身の考えを持ち、直面する一つ一つの問題に対して、正しい選択をすることである。私を含めた多くの日本人は、欧米諸国などで起こっている抗議デモのような、直接的行動には出たくないのが本心であろう。そこは、和をもって尊しとなす国民性である。しかし、いよいよ私たちの自由が奪われるような、ポイント・オブ・ノー・リターンの状況になれば、場合によっては、大規模デモに参加する選択もあるだろう。

 もちろん、神を信じる者たちは、祈りによって問題に勝利するのが基本である。祈り無き政治的行動は、神の導きに反してしまう危険がある。しかし、社会の一員として政治的行動に参加することが、不信仰的という訳では決して無い。だから、欧米諸国での抗議行動には、クリスチャンも多く参加している。声を上げるべき時には、大いに声をあげて良いのだ。私が人生の中でデモに参加したのは、サラリーマン時代に労働組合の動員で春闘デモに参加したことと、2012年に都内などで大規模に開催された原発再稼動反対デモに数回参加したことだけである。それ以外は、投票行動以外の政治的行動はして来なかった。本ブログは、政治ブログでは無いので、政治的行動についてこれ以上は書かない。私たちには、祈りによって大きな力がある。世界中の兄弟姉妹と共に、この世界が正しい道に立ち返るよう、祈り続けようではないか。今なら、まだ引き返せるかも知れないから。

「バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。』」(民数記22:34 新共同訳)

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ある老ピアニストのこと(記事No.43)

 皆さんも名前を聞かれたことがあるかも知れない、フジコ・ヘミングというピアニストがいる。1932年12月生まれとのことであるから、今88歳である。コロナ流行以前は、毎年世界各地でコンサートを開いていたが、現在は専ら国内で演奏している。そのような中で、10月から国内ツアーを予定しているという。今回は計16本のツアーとのことで、追加公演もあるそうだ。私も、12月15日に滋賀県大津市で開催される、彼女のコンサートを聴きに行きたいと思っている。

 フジコ氏は、数奇な運命に生きて来たピアニストでもある。ロシア系スウェーデン人画家・建築家の父とピアニストであった日本人の母との間に、ドイツ・ベルリンで生を受けた。幼い頃日本に帰国し、5歳から母親の手ほどきでピアノを始めた。10歳からは、父の友人であった、ロシア生まれのドイツ系ピアニストに師事した。その師は、「フジコはいまに、世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう。」と絶賛したと言う。青山学院高校在中、17歳の時に、コンサート・デビューし、東京藝術大学在学中には、NHK毎日コンクールなど、多数の入賞を果たした。芸大卒業後は、本格的な演奏活動に入り、国内オーケストラと多数共演した。28歳の時にドイツに留学し、ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業した。その後は、ヨーロッパに在住しながら演奏活動を続け、多くの作曲家や指揮者から高い評価を受けた。しかし、リサイタル直前に風邪をこじらせて、35歳で聴力を失うという悲劇に見舞われた。失意の中、ストックホルムに移住し、耳の治療を続けながら、音楽学校の教師としてピアノを教えることを生業としつつ、地道なコンサート活動を続けた。

 数十年の歳月が流れ、フジコ氏が再びクラシック音楽界の表舞台に立つ日が訪れた。1999年2月にNHKのドキュメンタリー番組「ETV特集」で、「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、大反響を呼んだのである。フジコ氏の演奏をもっと聴きたいという視聴者からの要望が殺到し、番組は繰り返し再放送され、続編も放送された。フジコ氏66歳の時である。その後1999年8月に発売された最初のCDは、200万枚を超える大ヒットを記録している。以来、フジコ氏には国内外からの演奏オファーが途切れることなく、世界中で多くの聴衆を魅了し、多くの高名なアーティストらから、その演奏が絶賛されて来た。

 波乱万丈の人生を過ごして来たフジコ氏であるが、彼女の芸術的才能はもちろんのこと、幾多の困難に耐えて、老年とも言える歳となって大きく羽ばたいた、その力の源泉はどこにあるのだろうか?彼女は以前、あるインタビューで、「祈りがあったから、やって来れた。」と答えたと言う。また、人生で最も大切なのは、信仰と祈りと愛であると語っている。「『遅くなっても待っておれ、それは必ず来る』という聖書の言葉は、私に訪れたのです。」とのフジコ氏の言葉が心に響く。

「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない』」(ハバクク書2:2−3 新共同訳)


 フジコ氏がまだ10代だった頃、彼女のピアノの師が「予言」したように、ついに彼女は世界中の人々を感激させるピアニストとなった。神が彼女の心に与えられた幻は、半世紀以上の年を経て現実のものとなった。この神を私も信じている。信じる者たちの人生に、素晴らしいことを成し遂げてくださる、この神を。さて、12月15日のコンサートは、チケット発売開始が9月26日である。今までは、映像でしか観たことがなかったフジコ氏の演奏である。妻と、出来れば次男も一緒に、聴くことを今から楽しみにしている。
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満州事変に学ぶ(記事No.42)

 今日、9月18日は、90年前に満州事変が勃発した日である。上皇は天皇在位当時の2015年の新年に際して、満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学ぶことが大切である、と国民に対してメッセージを発せられた。90年前の事変勃発当時、日本は日露戦争後のポーツマス条約によりロシアから譲渡された南満州鉄道を経営し、その線路の中心から左右20メートルずつは、満鉄付属地として日本の管理下にあり、日本軍守備隊が警備していた。満州に派遣されていた日本軍、関東軍は、満鉄を足掛かりに、支配圏の拡大機会を伺っていた。そのような状況の中で発生したのが、南満州鉄道爆破事件、即ち柳条湖事件であった。爆破事件を中華民国軍による破壊工作と断じた関東軍は、翌日までに、奉天(現瀋陽)、長春(後の新京)などの都市を占領し、陸軍省もこれを追認した。しかし、この鉄道爆破は、3年前に起こった張作霖爆殺事件と同様に、関東軍参謀らが首謀した破壊工作であったことが、後に判明している。

 関東軍が、このような謀略を遂行した理由は、もちろん、満州全域に不穏な状況を作り出し、居留邦人保護や日本の権益を防衛することを名目に出兵し、全満州を支配下に置くことであった。関東軍は、本国政府の事変不拡大方針に背いて、独断専行で戦線を拡大し、1932年2月には満州全域を制圧した。その年の3月には、日本の傀儡国家である、満州国が建国され、清朝最後の皇帝であった、愛新覚羅溥儀が国家元首に当たる執政に就任した。その後日本は、中国に対するのみならず、満州国の存続を認めない国際連盟勧告に反発して、1933年3月には同連盟を脱退した。その後、英米などとの亀裂が次第に深まり、1937年に始まった日中戦争を経て、1941年には対米英蘭戦争として、第2次世界大戦に参戦するに至ったのである。1945年の日本の敗戦と大日本帝国の終焉は、1931年9月の満州事変が起点であったとも言えるであろう。

 それでは、天皇が国民に呼び掛けられたように、日本人は満州事変から始まる戦争の歴史から、何を学んで来たのか。平和の尊さは、もちろん大切な教訓であるが、観念的なものとも言える。平和を守るための具体的方策としても、非武装中立から核武装軍事同盟強化まで、多様な考え方がある。天皇の胸中は拝察するしかないが、あのようなメッセージを発せられたことには、日本人が歴史から十分学んでいないとの危惧を持たれていたためであろう。私は、日本人最大の民族的欠点は、失敗から学ばない、ということではないかと思う。関東軍の独断専行にも現されたように、敗戦までの軍人には、高慢で独善的な性質を有していた者たちが、上から下まで指揮官や参謀に多くいたと思う。彼らは、失敗から学ぶのではなく、それを繰り返したことは、敵国であったアメリカ軍による評価でも明らかである。大日本帝国において、天皇が神格化されていたのと同様に、軍の指導部も無謬とされていたのではないか。

 そして、現代においても、日本人は同様の性質を有していると言えよう。とりわけ、地位が上がるほど、その傾向が強く見られる。その中でも、昔陸軍、今官僚と言われることもある、役人たちの勘違いぶりは甚だしい。本日の朝刊にも、そのようなニュースが載っていた。滋賀県近江市の湖東記念病院での患者死亡事案を巡る再審で無罪が確定した、元看護助手のNさんが起こした国家賠償裁判で、滋賀県警が無罪判決を否定する内容の準備書面を提出したという。三日月大造知事は、準備書面の内容を事前に把握していなかっとして、不適切であることを認め謝罪し、滝澤依子県警本部長にも真意を正したところ、不適切という見解を得たと説明した。確定無罪判決を否定するような行動に出た、滋賀県警幹部らのメンタリティーは、独断専行した関東軍幹部らのそれと根底においては全く同じと断じても良いだろう。彼らもまた、失敗から学習することが出来ず、何度も同様の過ちを繰り返す性質を持っている。これでは、敗戦の痛みを経ても、この国は法治国家としては、ほとんど進歩していないとも言えよう。国民に苦しみを与える主体が、軍部から官僚機構に代わっただけである。

 私たちは、彼らの独善から自分たちを守る知恵を身につける必要があるが、同時に、私たちも同じように学習しない者とならないよう、意識して努める必要がある。人生において失敗はつきものであるが、それを教訓とすることが出来るのであれば、それもまた貴重な経験となるだろう。その意味で、満州事変に始まる失敗の歴史も、日本の現在と未来のために、教訓として活かすことも出来るだろう。私たちが、歴史を省みる謙虚さを持ち合わせていればであるが。

「教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である」(箴言4:13 口語訳)
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技能実習生と日本人(記事No.41)

 数日前、技能実習生として来日した、2人のベトナム人実習生と話す機会があった。彼らは、関西のとある街で生活をギリギリに切り詰めて暮らしながら、建設現場で働いているとのことだった。技能実習生に志願したことは彼ら自身の選択であるが、職場環境の実態を聞くと、悲惨なものであった。何でも、現場の日本人同僚から、しばしば殴る蹴るの暴力を受けることがあると言う。現場監督か職人かは知らないが、実に人間味に欠けた者たちである。職場を替えたくとも、職種の移動制限があるため、そう簡単では無いそうだ。

 技能実習生の制度については、様々な問題点が指摘されて来た。中でも、実習生らの人権が侵害されているケースが多々あることは、日本人として恥ずべきことでは無いだろうか。本来の技能実習制度の目的は、発展途上国などからの人材に日本で働きながら技能を学んでもらい、実習期間終了後は、学んだ技能を母国で活かしてもらう、と言うものであった筈である。ところが、それはほとんどの場合建前で、現実は実習生にとっては出稼ぎであり、受け入れ企業にとっては、低賃金現場労働者の確保が主目的であることは疑いない。

 建前がどうであれ、特に3K職場の人手不足に対応する方策として、技能実習生制度が有用であることは事実であろう。日本人を募集しても人材確保が難しいのであれば、給与などの待遇を改善して少しでも魅力的な職場にするのが、本来の方策ではないかと思う。そうは言っても、技能実習生制度を活用するのであれば、日本人労働者を採用した場合と同じ処遇にしなければ差別ではないだろうか?先のベトナム人実習生の話では、日本で稼いだ給料は母国では3倍の価値があると言う。彼らは、妻子帯同が認められていないので、単身来日し、毎月僅かな生活費だけを残して仕送りをしているそうだ。

 在留外国人の中でも、技能実習生らは弱い立場に置かれている。外国人の中でも、政治的圧力団体でもある民族団体を組織している人々や、外国企業の駐在員とは全く違う。また一般に、日本人の外国人に対する態度は、西洋諸国の白人に対するそれと、東南アジア人に対するものでは明らかに異なる。多くの人々は、無意識の内にではあっても、白人には劣等感を持ち、有色人種には優越感を抱いているのではないか。日本人同士でもマウントを取り合うような有り様であるから、外国人に対しても同様なのか。何だか、寂しいことである。技能実習生は、日本企業のために働いているのだから、もう少し親切に出来ないものだろうか。

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10:19 新共同訳)


 今回、ベトナム人技能実習生から直接、彼らが虐げられている実態を聞いたので、憤りを吐露してしまったが、全ての受け入れ企業で同様の状況とは言えないであろう。中には、実習生らを日本人社員と同様に、大切に扱っている経営者も少なくないとは思う。否定的な話ばかりでは無く、彼らに愛を示した経営者の話も書いておきたい。皆さんの中にも、覚えておられる方々もいるだろう。2011年3月11日に発生した、東日本大震災の時のことである。

 宮城県女川町の水産加工会社、佐藤水産には、当時20人の大連市出身の中国人実習生が働いていた。地震が発生した時、作業場の隅に固まって震えていた彼女らを、同社の佐藤充専務は捜し出して、安全な場所へと誘導した。その後すぐ、佐藤氏は逃げ遅れた人たちを捜しに引き返したところ、津波に呑まれてしまったのだ。中国人実習生らを守るために、自分の命を投げ出した佐藤氏の行動は、日中両国の多くの人々に感動を与えた。危機に際しては、人の本質が現れる。佐藤氏は、日頃より自社のために働く実習生らに対して、思いやりの心を持って接していたことが、生死がかかった状況の中で、愛と勇気を示すことに結びついたのだと思う。

 全ての日本人では無いにせよ、どうして、外国人の中で弱い立場の人々に対して、辛く当たるようになってしまったのか。日本人同士でも弱者を虐げることがあるが、こと外国人に限って言えば、江戸時代の鎖国と、明治維新以来の欧米追従の流れの影響も大きいと思う。徳川幕府が鎖国政策を採る以前は、日本人はアジア各地と交流を持ち、フィリピン、ベトナム、タイ、カンボジアなどには日本人町も形成されていた。古代から日本は、各地からの渡来人が長い年月をかけて融合して、やがて単一的民族となったもので、元来は多民族国家であった。それにより形成された、日本人本来の霊的、精神的DNAは、今は埋もれているようではある。そうであっても、私たちに悪を働くので無い限り、私たちは、居留している技能実習生を含めた外国人にも、日本人に対するのと同じ愛を示したいと思う。
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あれから20年(記事No.40)

 アメリカ時間で9月11日は、20年前に同時多発テロ事件が発生した日である。振り返ると、あっという間の20年間だったようにも感じる。当時私は、在日米軍に勤務していたが、職場のあった基地が緊急閉鎖され、翌日は自宅待機命令が出た。非常呼集が掛ってもおかしくないと思っていたので、ある意味拍子抜けであった。2日後に出勤すると、基地には完全武装した米兵らが歩哨に立ち、それまで丸腰だった日本人警備員も小銃を携行するなど、雰囲気が一変し臨戦態勢になっていた。その後、世界規模対テロ戦争を旗印に、現地従業員でしかない、私たちの仕事の中身にも変化があった。

 テレビでは、ニューヨークのツインタワーに旅客機が激突する映像が繰り返し放映され、当初は私も、イスラムテロリストの犯行と思いこんでいた。アメリカの防諜機関はテロリストらが入国した事実は把握していたはずであり、泳がせていたところ犯行の阻止に失敗したのか、というのが私の見立てであった。イスラムテロリストの存在自体は、紛れもない事実であり、民間人を標的にしたり、自爆テロを行うことは、彼らの常套手段である。その意味では、凶悪なテロリストとして、いかに困難であっても、根絶を目指さなければならないであろう。もちろん、力で対抗するだけでなく、テロリストを生み出す背景となっている、社会的諸問題の解決に取り組むことが不可欠である。もっとも、テロリストの存在が利益になっている者たちを、その権力の座から引きずり下さない限りは、この種のテロリストの根絶は出来ないであろう。

 911同時テロ事件を巡っては、アメリカはじめ各国政府の公式説明に対して疑念を持つ人々も多く、中にはトンデモ論もあるだろうが、科学的な検証が伴う異論もいくつかある。それらの異論を総合するなら、ツインタワー及び隣接ビルの崩壊は、航空燃料による火災で鉄骨が熔解したのが原因ではなく、あらかじめ建物内部に仕掛けられた爆薬による、爆破解体で崩壊したと結論付けるのが合理的であろう。激突した旅客機は、遠隔操作されていた疑いが濃厚である。実行犯は、放置した自動車内にパスポートを残すような間抜けではなく、破壊活動の専門訓練を受けたプロの工作員らとしか考えられない。CIAとモサドの合同作戦であったという説があるが、本記事では、その点にはこれ以上は触れないこととしたい。今言えることは、情報機関には愛国者たちも多く存在するが、一方で、国家を超えた集団のために働く、獅子身中の虫らも存在すると言う事実である。これは、軍の上層部についても、同じことが言える。

 アメリカは、正確に言えばアメリカに寄生してるグローバリストらは、マッチポンプ戦術を常套手段としているのは、歴史を振り返れば明らかである。第1次世界大戦においては、参戦に否定的な世論を覆すために、客船ルシタニア号がドイツ海軍の潜水艦に撃沈されるよう画策し成功した。第2次大戦では、日本に先に手を出させるよう仕向け、日本海軍の動きを把握していながら、あえて真珠湾を攻撃させた。ベトナム戦争では、北ベトナム軍の魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦を魚雷攻撃したとして、本格的な軍事介入を開始した。いずれも、アメリカ国民の怒りが沸騰し、世論は開戦支持に転換したのである。911でも、同じパターンの戦術が効を奏して、世論は勧善懲悪さながらに、テロ実行犯とされた、オサマ・ビン・ラディン率いるアル・カーイダに基地を提供したとして、アフガニスタン攻撃を支持したのである。その後、2003年3月には、大量破壊兵器を保有しているとして、イラク侵攻に踏み切ったが、アフガニスタン侵攻以上のこじつけであり、あるはずの兵器は、結局最後まで発見されることは無かった。

 もはや、作られたテロ事件と言っても過言ではない、911を契機とした、これらの戦争によって、戦争に参加した各国の軍人らは勿論のこと、それ以上に、アフガニスタンとイラク両国の一般市民に大量の犠牲者が出た。アメリカのブラウン大学の研究によれば、20年に及ぶ対テロ戦争の戦費合計は8兆ドル、戦争による死者は約90万人に上るという。個々の兵士たちの英雄譚はあれど、戦争自体は、本来戦う必要が無かったと言って良いだろう。多くの人々に傷を残した、911とその後の戦争であるが、それらを計画し実行した者たちは、莫大な経済的利益を得ると共に、彼らの世界完全支配計画を着実に前に進めたのである。

 それでは、「彼ら」の正体は何であるか。私たちは、自己防衛と共に、邪悪な計画を阻止するためにも、「彼ら」がどんな連中であるか、知っておくべきであろう。先に、「グローバリスト」という名称を使ったが、彼らは多くの通称で呼ばれて来た。「軍産複合体」、「ディープステート」、「カバール」などがそれである。それぞれを円とするなら、全ての円が重なり合う中心部がある。それが、「彼ら」の、言わば本尊であり、ラスボスである。その中心部に位置する者は、ロスチャイルド家である。これは、私の憶測などでは無く、諸国の数多くの優れた研究によっても明らかにされている、既知の事実と言えるだろう。そして、「彼ら」のことは、聖書が明確に指摘している。

「サタンの集会に属し、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足元に来てひれ伏すようにし、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう」(ヨハネの黙示録3:9・聖書協会共同訳)


 この聖句が指し示す、「彼ら」については、律法主義のユダヤ人という解釈や、真の信仰を持っていない見せかけだけのクリスチャンという理解もある。黙示文学の形式ゆえに、それらも決して根拠が無い訳ではないが、ここは、字義どおりに解釈するとしよう。そうすると、過去から現在まで、世界で起きて来た事と見事に符合するのだ。この聖句が言う、偽りのユダヤ人とは、血統的にユダヤ人では無く、信仰的にもユダヤ人では無く、悪魔を崇拝する者たちのことである。血統的にと言うのは、ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、つまりセム系民族であるのだが、それを基準にするとである。信仰的にと言うのは、キリストを彼らの待ち望むメシア(救世主)と受け入れているか、あるいは、そうで無くとも、(旧約)聖書が預言している、メシアの到来を待ち望んでいるか否かである。決定的なのは、悪魔を崇拝していることであり、古代から現代に至るまで、脈々と続く悪魔教が御伽噺では無く、現実に存在していることと符合している。彼ら悪魔教徒たちは、西洋諸国を中心に、諸国の政府、企業、宗教組織、大学など、各界に広範囲に浸透している。いや、それらを牛耳っている、という言葉で表現するべきかも知れない。

 念のため言っておくが、私は、決して反ユダヤ主義では無く、それどころか、真のユダヤ人は遠い兄弟のように思っている。日本人のルーツには、ユダヤ人も大きな流れとしてあると思うからだ。いわゆる失われた10支族(部族)の本隊は、日本に到来したと考えている。警戒すべきは、聖書が示している、偽ユダヤ人の悪魔崇拝者たちである。私たちは、彼らが現実の存在であると認識し、彼らの謀略を見抜き、掌の上で踊らされない様に、思慮深くあるべきだろう。知識を得るために学ぶ必要はあるが、彼らの術中に陥らないための知恵は、全て聖書と聖霊から得られる。この世界が邪悪な者たちに支配されているとしても、神の遠大な計画の中で暫くの間だけ許されているに過ぎない。私たちが、全能の神の側に行くならば、神は喜んで私たちの側に立ってくださる。そして、私たちを愛しておられることを、「彼ら」に対して明確に示されることだろう。
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完全な愛は恐れを取り除く(記事No.39)

 現在21都道府県を対象に発令中の緊急事態宣言が、2、3週間程度延期されようとしている。日本人の大半が、新型コロナウイルス感染症流行に対する日本政府の対応は、昨年1月以来ずっと迷走を続けて来たように思っているだろう。私自身も、政府の対応だけを見るなら、当然そう思う。しかし、諸外国の、特に欧米を中心とした先進諸国政府の対応も、同様に際立った成果を上げていない事を見る時、このパンデミック状態は、意図的に継続されていると考えると、全てにおいて辻褄が合う。



 何故新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、今なお収束の兆しが見えないのか。それは、誰かが意図してそうしているからである。それは誰であるのか?これだけのスケールで事を運べる集団は限られている。彼らは、イルミナティと呼ばれている、国際金融資本を主力とした、世界的規模の謀略集団である。あるいは、イルミナティという呼称も表面上のもので、彼らの間では別の名称が使われている可能性もある。彼らの実体については、偽情報を含めた多くの情報がネット上にも流れているので、興味があればご自分で調べていただきたい。彼らは、悪魔崇拝者の集団であり、世俗的には各国の政府を従わせるほどの巨大な力を有しているだけでなく、霊的にも大きな悪のパワーを持っている。



 それでは、何故彼らは、新型コロナウイルスのパンデミックを計画・実行し、現在も継続中であるのか。彼らの目的は何か?それは、彼らが一貫して目指している、最終ゴールに到達するためである。その最終ゴールとは、彼らの天敵であるキリスト教を地上から消し去り、もちろん他の宗教も同様に除去されるが、悪魔崇拝を唯一の宗教とする、世界統一国家を樹立する事である。そのためには、世界人口を管理し易い程度まで削減し、残った人々は、言わば人間牧場の奴隷として、完全な管理下に置く必要がある。今盛んに取り沙汰されている、ワクチンパスポートなどは、そのための管理ツールであって、決して人々の安全のためでは無い。だから、欧米諸国では、自覚的に、あるいは本能的に、ワクチンパスポートの邪悪な目的に気づいた多くの人々が、大規模なデモや抗議集会を展開している。



 悪魔の手先である彼らが、人々を彼らの意図に従わせるために用いる手段は、人々に恐怖を与える事である。集団的に恐怖をもたらすものは、戦争、テロ、飢餓、貧困、犯罪、そして疫病などである。ひとたび人々が恐怖に陥ると、それを取り除いてくれると思われる方策を容易に受け入れるようになる。もし、冷静に、かつ理性的に考えるなら、決して受け入れ無いような方策だったとしても。であるから、現在世界でコロナワクチン接種率が高い国ほど、変異株の感染者と重症者・死亡者が増加しているという事実を前にしても、一度立ち止まってワクチン推進政策を再考するのでは無く、むしろ、ブーストショットと称して、接種を繰り返す方向に進んでいる。特にイスラエルでは、国民の1割以上が新型コロナウイルスに感染するという、悲惨な状況に陥っている。イスラエルについては、世の終わりとも関係した重大な疑問があるのだが、これについては、別の機会に書きたいと思う。



 この世界の現象には、それぞれ、そうなる実際的な原因がある。そして、その原因を突き詰めるならば、そこには霊的な世界の動きも、また存在している。聖書は私たちに教えているが、悪魔は抽象的な概念では無く、空想の産物でも無い。神に反逆した堕天使であり、その配下にある悪霊どもも同様である。彼らは反キリストであり、被造物の中で最も神に愛されて来た人間たちを、自分たちがそうであるように、神から引き離して支配下に置くことを願っている。それが、彼らの神に対する復讐であるからだ。悪魔は、盗み、殺し、滅ぼす者であり、恐れと、不安と、死を人々にもたらす者である。それは、イエス・キリストが、与え、生かし、建て上げる方であり、安息と、平安と、命を与える方であることの、まさに真逆である。



 ところで、皆さんの中には、「フランダースの犬」という物語を読んだことがある方もいるだろう。私は小学生の頃、この物語のアニメをテレビで観た。何話目であったのか覚えていないのだが、今でも印象に残っている主人公のセリフがある。ネロ少年と愛犬パトラッシュが、何のためであったか、猛吹雪の中を目的地に向かっている場面でのことである。ネロは、「完全な愛は恐れを取り除く、完全な愛は恐れを取り除く」と繰り返しながら、恐怖心を克服して歩みを進めていたのだ。ネロが口にしていた言葉は、新約聖書の一節であったのだが、当時まだクリスチャンで無かった私には、その言葉の由来は分からず、ただ強く印象に残り、記憶の中に刻まれた。後の日になって私は、その言葉を聖書の中に見出したのだ。



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(ヨハネの第一の手紙4:18 口語訳)



 完全な愛とは、イエス・キリストのみが与えることが出来るものであり、またそれは、キリスト自身のことである。私たちは、自分自身の力では、恐れを克服するに十分では無い。危機に直面した時、精神力で恐怖心を克服出来る場合もあるとは思うが、必ずそう出来るという保証は無い。しかし、完全な愛は、神から超自然的に与えられるものであり、それは、必ず恐れに対して勝利することが出来る偉大な力である。キリストを信じ、心に受け入れるということは、その完全な愛が私たちの内に入り、いつも、いつまでも共にあると言うことである。新型コロナウイルスのパンデミックも、完全な愛を持つならば、何も恐れる必要は無い。世界が恐怖により支配されようとしている今こそ、私たちには、完全な愛が必要不可欠である。
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反乱の首領たち(記事No.38)

 菅首相が、事実上の退陣表明となる、9月末に予定されている自民党総裁選挙への不出馬を発表した。前任者の安倍氏に続き、新型コロナ対策など山積する国内外の課題対処に匙を投げた、敵前逃亡に等しい突然の辞任となる。もっとも、元々首相職には不適任であった訳で、安倍氏より鈍感力が足りなかったということか。後継者レースに名乗りを上げている人たちの顔ぶれを見ると、私としては、石破氏一択と思えるが、党内政治力学の結果はどうなるであろうか?宗主国アメリカ意中の人物は、今名前が挙がっている人々の中にはいないと思えるが、本国の政争が鎮まる迄の間、取り敢えず後継首相の選任は、日本に任せるということかも知れない。

 敗戦後の日本の首相は、菅氏を含めて35人いるが、その平均在任機関は約2年である。大統領制のように憲法で任期が規定されている訳では無いので、単純な比較は出来ないとは言え、一国の最高指導者としては、余りに短いことは確かであろう。なお、歴代首相の中で、最長在任期間を誇るのは安倍晋三前首相であり、以下、桂太郎、佐藤栄作、伊藤博文と、上位4人までが長州出身者である。それぞれに毀誉褒貶があるが、共通しているのは、明治維新以来変わらない、長州支配の構図により輩出された人物ということである。敗戦後はこれに、対米従属という要素が加わったのは、前記の佐藤、安倍両元首相を見ても明らかであろう。

 日本の首相の平均在任期間がかくも短いことは、政治的には様々な理由がある訳だが、霊的な面においても理由が明確にある。それは、神の教えに対する反逆である。加えて、正当な国の秩序と、国民に対する反逆もある。真の神を信じているか否かに関わらず、人は神が心に置かれた、良心に反さないよう歩むことが必要である。仮に聖書の教えを知らなかったとしても、良心に従うことで神の教えを守っているならば、その人は神の恵みを受けるであろう。これまでの首相たちの政治的業績を検証するまでもなく、彼らの多くは神の教えを実践して来なかったことは、現在の日本の惨状を見れば明らかであろう。

「反乱のときには国に首領となる者が多く出る。分別と知識ある人ひとりによって安定は続く」(箴言28:2 新共同訳)


 元石油開発会社の経営者でフリー・ジャーナリストでもある、藤原肇氏は、2000年4 月に当時の小渕恵三首相が脳梗塞で入院した際、青木幹雄官房長官が首相代行となり、その後小渕氏が退院することなく死去し、森喜朗幹事長が後任首相に就任した一連の流れを、談合により首相を決定した一種のクーデターであると非難した。密室政治で国の最高指導者を決めるのは、反乱に等しいと言うことである。また、元参議院議員の平野貞夫氏は、2018年9月に、安倍晋三氏を内乱罪及び同予備罪で最高検察庁に告発しているが、その後、事件は東京検察庁に回送され、2019年9月に不起訴処分とされた。平野氏の告発理由は、安倍氏が首相として憲法尊重義務に背いて来たことは、憲法の基本秩序を破壊する暴動に等しいという、大真面目なものであった。検察庁は嫌疑を認めなかった訳だが、内乱罪は諸外国の国家反逆罪にも近い犯罪であり、少なくとも平野氏の視点では、安倍氏は反逆の徒であったと言うことだ。

 このように、在野の知識人らによって、しばしば厳しく指弾されて来たように、日本にも、権力を私物化する、人治政治を行う政治家らが蠢いている。彼らは、決して国民のための政治は行わず、自分たちの既得権益のために働くに過ぎない。これは、与党政治家だけでなく、野党政治家の多くも同様であろう。首相や大臣らの下で働いていることになっている、官僚たちについても同じことが言える。国家と国民に対する反乱は、政・官・財・報・学・労といった、各分野の共犯者らによる合作であるだろう。

 もう1つ見逃してはならないことは、現在の自公連立政権は、カルト宗教の影響下にあるということである。この体制は、1999年から、民主党政権時を除き、約20年間の長きに渡り継続中である。公明党が創価学会と表裏一体であることは、誰もが知っている常識であるが、自民党は岸信介首相時代より、統一教会と親密な関係を維持して来た。加えて自民党は、生長の家の幹部らが関与して設立された、日本会議との関係も深い。もっとも、生長の家は、その後政治的には穏健な保守の立場に転じ、日本会議と決別していると言われている。自民党政治家は、韓国や北朝鮮に対する強硬姿勢を示すことがあるが、水面下では統一教会などの半島系団体を通じ、今もなお韓朝とも利権を共有している疑いが濃厚である。

 先ほど、次期自民党総裁なら石破氏一択と書いたのは、彼がプロテスタントのクリスチャンだからという理由だけでなく、国民に対する反乱を起こすような人物では無いからである。何回か石破氏の講演を聞いたことがあるが、彼の言う、自分が忠誠を尽くすべきは国民である、という言葉には偽りを感じなかった。2018年に石破氏と安倍氏が総裁選挙を戦った時、産経新聞は、石破氏は安倍氏と比べて国家観が弱いと批判した。報道機関でありながら統一教会と不自然な関係を有する産経新聞が、どの口で言うかと思ったものである。本記事を書いている時点では、石破氏が自民党総裁選に出馬するかどうかは分からないが、民主政治とは、その時に最善の選択肢が無かったとしても、少しでもマシな選択をすることの積み重ねである。私は自民党員で無いので、総裁選挙は見守るだけであるが、これ以上国民に対する反乱者が国の首領になって欲しくない。神を信じるものたちの祈りが必要である。
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公正な裁判とは(記事No.37) 

 2019年4月に東京・池袋で発生した、親子2人が死亡し9人が重軽傷を負った交通事故の、1審判決が東京地方裁判所で出た。運転者の飯塚幸三被告に対して、禁錮5年の判決が下された訳である。この事故では、他の同種の死亡交通事故とは異なり、飯塚氏が現行犯逮捕されず、その後も、警察、検察とも一貫して在宅取り調べであったことで、「上級国民」優遇との批判が巻き起こった。旧通産省工業技術院元院長という高級官僚出身であり、退官後は叙勲もされていることから、警察・検察の配慮が無かったと考える方が無理であろう。

 今般の判決で、下津健司裁判長は、飯塚被告がブレーキとアクセルを踏み間違えたことが事故の原因であると認定した。被告側の、車の電気系統に異常が生じブレーキが効かなくなったとの主張は、明確に退けられた判決内容である。飯塚氏は事故直後に、被害者の救護を行うのではなく、息子に電話して、Facebookなどにある個人情報の削除を頼んだことが明らかになっている。最悪の交通事故の当事者になってしまったにも関わらず、自分の保身を最優先させたような行動には、誰もが憤りを覚えたことであろう。私自身も、飯塚氏の高慢さに対して、それは恐らく高級官僚と称される者たちが多分に持ち合わせているのであろうが、憤りと不快の念を抱いたものである。

 それにもかかわらず、この裁判には疑問を拭い去れない点がある。それは、飯塚被告の車の異常でブレーキが効かなかったという主張に対する、裁判所の証拠認定にある。事故車は、トヨタのプリウスであった。そして、捜査当局(警察か検察かは不明)が、当該車両の技術的検証を依頼した先は、製造者のトヨタ自動車であった。トヨタ自動車が2021年6月21日に、マスコミ向けに発表したコメントでは、「当局要請に基づく調査協力の結果、車両に異常や技術的な問題は認められませんでした。」との内容が含まれていた。事故の当事者が、車に問題があったと主張しているのに、その検証を行なったのは、当の車を製造したメーカーである。本来であれば、第三者機関が調査するのが公正な検証方法ではないだろうか?しかし、東京地裁の下津裁判長は、そうは考えず、トヨタ自動車による調査結果を証拠として認定し、飯塚被告が有罪となる物証としたのである。

 私が、何故この事に拘っているのか。それは、このような証拠認定手法が是とされるならば、同様の事故が発生した際、誰もがほぼ100パーセント有罪にされるからである。本ブログの記事No.35、「死刑制度の是非」で触れた冤罪のように、車を運転することがある誰もが当事者となり得るのだ。何故、誰もがほぼ100パーセント有罪認定されるのか?メーカーが自らの非を認めるなら、リコールだけでなく、世界的に巨額の賠償請求を起こされる蓋然性が高いからである。製造会社に技術的検証を要請した時点で、結論は決まっていたようなものであろう。うがった見方をすれば、捜査当局とトヨタ自動車の暗黙の合意があったとも言えるのかも知れない。

 ちなみに、私はトヨタ自動車とは何の利害関係も無いし、現在所有している車は他のメーカーのものである。10代後半の頃は、マニアックな話で恐縮だが、AE86という型式名を有するトヨタの1600ccスポーツタイプ車が欲しかったのだが叶わず、結局1300ccのEP71を購入したことがあった。だが、車が好きなことと、裁判の公正さを願うこととは、全く別次元の話である。今回の技術的検証については、捜査当局の手法や裁判所の証拠認定に、大いに疑問を感じる。またマスコミ各社が、この点をほとんどスルーしているのも不自然である。はっきり言えば、トヨタ自動車の政治力と広告スポンサーとしての力が、影響を及ぼしたのでは無いだろうか?少なくとも、それらが全く作用しなかったとは言えないと思う。

 愛知県、特に豊田市はもちろんのこと、名古屋市に住んでいる方々なら分かり易いと思うが、当地におけるトヨタ自動車の影響力は絶大である。最近も、トヨタ自動車所属のオリンピック選手の金メダルに齧りついてしまった、河村名古屋市長が、豊田章男社長からの抗議文を受け、慌ててトヨタ本社を訪問し謝罪文を提出したが、同社の政治力が如実に顕された出来事であった。笑い話のような本当の話であるが、名古屋駅周辺に林立する高層ビル群は、トヨタ自動車が建てた、ミッドランドスクエアの高さ247メートルを超えないように、配慮の上で建設されていると言う。あるいは、コロナ禍でトヨタグループが賀詞交歓会や各種懇親会を中止にすると、名古屋の財界は一斉に右に倣えをするなど、今更珍しくもない光景である。トヨタ自動車の政治力からすれば、警察・検察が、飯塚氏の事故で、第三者機関に検証を依頼しなかったことは、残念だが当然であるだろう。むしろ問題は、下津裁判長がそれを是認したことであり、彼は法治国家の裁判官としては失格であろう。

 人の自然な習性として、自分の身内や仲間に対しては、他の人々に対すよりも、何かと特別扱いをしたいと思う。民間企業などが、人材採用や取引において縁故で優遇することが、全てにおいて悪いとも言えないであろう。得意客への特別サービスであれば、むしろ行わない方が商売センスが無いとも言える。だが、公共サービスはそうであってはならない。人の人生を決定的に左右する刑事裁判なら、尚更そうである。その意味において、今般の飯塚被告に対する判決と、それに至る司法手続きについては、これまで述べたように、疑念に思う点がある。繰り返すが、飯塚氏の事故についての証拠認定手法は、誰に対しても、同様に採られると考えた方がよい。本件が、仮に控訴審に持ち込まれた場合には、裁判所は、改めて第三者機関による技術的検証を行うべきであろう。

「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの」(箴言16:11・口語訳)
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