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人間の限界(記事No.99)

 数日前、東京都内西部の大学院で平和構築のための人材育成に従事している、日本人大学教員と会う機会があった。彼曰く、今般のウクライナ紛争は、彼らにとっても、どのように対応することが出来るのか分からない、クリティカルな事態であると言う。彼らの大学院は、欧米やオセアニアにある複数の大学とも連携し、これまでに、平和構築に関わる諸分野で働く人材を育成して来た。そのプログラムを学んだ卒業生の多くは、国連機関、各国政府機関、NGO、大学などに就職し、紛争を予防し、平和を構築するための諸活動に従事している。彼の言うクリティカルな事態とは、これまで世界各地で取り組まれて来た、地に足の着いた地道な活動では防げない、この度のような紛争に対して、無力感を抱いている状況のことと理解した。

 彼の話を聞いた時、私は、口にこそ出さなかったが、人間の力に限界があるのは当然であると思った。私たちが、どんなに平和な世界を願ったとしても、世の中には、平和を嫌悪し、戦争を好む者たちが存在する。しかも、そのような者たちの多くは、権力者や超富裕層のような、社会的に大きな力のある者たちである。彼らにとっては、戦争もゲームの一種に過ぎず、金儲けの手段でもある。どうせ、死んだり傷ついたりするのは、彼らが家畜に等しいと考える、各国の庶民たちである。自分達は、安全な場所から、戦争や紛争から揚がる莫大な利益の計算でもしながら、酒のグラスを傾けて談笑しているのだ。このような連中が現実に存在している以上、平和構築のための活動や平和運動には、最初から限界があることは当然であろう。

 もう1つ、平和構築活動に携わる人々の多くが見逃していることがある。それは、神無しに平和を実現することは不可能であるということだ。どんなに優れた計画であったとしても、いかに熱心に活動に取り組んだとしても、神が働かれなければ、それらは結果的に、人間の限界を示すことともなり得る。確かに、人間は創造主=神から偉大な力を与えられてはいるが、神無しに全てが実現出来るほどに偉大な力は有していない。古今東西の偉人と呼ばれた人々の中には、その真理を理解していた器も少なくなかった。かの有名な、アメリカのケネディ大統領もその1人であった。

 1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問したケネディ大統領は、夫人と共にオープンカーで演説会場に向かう途中、兇弾に倒れ世を去った。暗殺事件の実行犯や計画者らについては、私も公式発表を信じてはいないが、そのことは本記事では深追いしない。誰が暗殺を計画し実行したにせよ、彼らについては、神の裁きが必ず明らかにされるだろう。それはそうと、暗殺現場には、私も過去2回訪れたことがある。オープンカー車中のケネディ氏に銃弾が命中した地点には、道路上にX印がマークされている。その場所から百数十メートル離れた道路脇には、ジョン・F・ケネディ記念広場と名付けられた公園がある。その公園の一角には、暗殺されたその日に語られるはずだった、ケネディ氏の演説の一部が刻まれた石碑がある。その最後は、次の聖句で結ばれている。

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(詩篇 127:1 口語訳)


 平和を願い、その実現のために努力することは尊いことではある。特に、紛争解決などの現場で汗を流すことは、使命感と行動力だけでなく、そのための専門的な訓練を受ける必要もあり、誰もが携われる仕事ではないとは思う。しかし、その努力が神無しに為されるのであれば、それは一時的に実が結ばれたとしても、いつ失われるか分からない、脆い平和ではないのか。天地を統べ治められている神は、平和の主でもある。私たちは、この世界に平和の実現を願うならば、限界のある人間の力のみに頼るのではなく、それ以上に、全能の神に依り頼むことが不可欠であろう。