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正教会と日本人(記事No.94)

 このところ連日、テレビ、新聞、インターネットなど、様々なメディアで、「侵略国ロシアの悪行」が激しく非難されている。国会でも、れいわ新選組を除く全会派一致で、ロシアに対する非難決議が両院で採択された。国を挙げてのロシア糾弾の様相であるが、子供の頃からアマノジャクと言われていた私としては、あえて、ロシアと日本との関わりについて1つ書いてみたい。両国の宗教的、文化的関係、霊性の交流についてである。日本とロシアとの関係を語る上で、正教会のことに触れない訳にはいかない。私自身は、プロテスタントにおける、広義の聖霊派の信仰を有しているが、他のキリスト教諸派との教理上の違いは、同じイエスを主として信仰する限りは、互いの個性として受け入れ合うべきと考えている。

 さて、数少ないロシアの日本語ニュース・サイトである、スプートニック日本語電子版2022年3月1日付記事に、ロシア在住の日本人イコン画家のことが紹介されていた。京都出身の正教徒である、渡邊紅月(わたなべ こうづき)氏である。渡邊氏の祖父母は正教徒であり、生前京都の教会に通っていたと言う。その教会、京都ハリストス正教会は、京都御所(御苑)の南端から徒歩5分くらいの所にあり、その丸屋根の聖堂は、1903(明治36)年に建築された、現存する日本最古の木造正教会聖堂である。つい最近の2月9日に、国の重要文化財に指定された。私も聖堂の外観は見たことがあるが、ロシア式の建築様式ながら、京都の街並みに溶け込んでいて、美しい建物である。教会の本質は建物ではないが、このような文化的価値が高い聖堂は、よく保存されるべきであろう。

 イコン画家渡邊氏の話に戻るが、彼女が正教の信仰を持ったのは、祖父母が亡くなった後のことだったと言う。彼らの遺品を整理していたところ、たくさんの美しい十字架やイコンが出てきたことをきっかけに、教会の日曜学校の教師を務めていた祖父の、かつての教え子だった正教会信徒たちと交流を持つようになり、いつも穏やかに祈りを捧げていた祖母の記憶とも相まって、正教会信徒となる決心をし、京都教会で洗礼を受けたのだと言う。当時、美術教師であった渡邉氏は、日本にイコン制作の学校を作りたいとの、正教会東京教会に派遣されていたロシア人宣教師のビジョンに共鳴し、教師候補者として2017年にロシアに渡り、モスクワ神学アカデミー付属イコン学校に入学して4年間学んだ。イコンとは、正教会で信者の宗教心を涵養するために用いられている、聖画のことである。日本人のイコン画家と言えば、山下りん氏が知られているが、その後約1世紀もの間後継者が不在で、現代の日本にはアップデートされた技術が伝えられていないとのこと。渡邉氏によると、イコンの重要なポイントは、祈りの邪魔にならないと言うことだそうだ。もちろん、イコンは礼拝の対象では無く、正教会では伝統的に、偶像崇拝の誤解を生じさせないよう、聖像などは作らないようである。

 現在渡邉氏は、モスクワでイコン画家として活躍しながら、教会の「鐘つき」の働きもしているそうである。鐘つきには特別な技術が必要であり、彼女はロシア留学後、専門の修道士のもとで修行したと言う。渡邉氏は、「皆さんが手を振ってくれ、お祈りのお迎えやお見送りが出来るのが嬉しい。本当に良い仕事をさせてもらっている。」と語る。当初の留学目的であった、日本に設立されるイコン学校の教師となるとの目標は、計画が頓挫してしまったことで白紙となったが、「それもお導き」と運命を受け入れているているそうである。「日本では若い正教徒がほとんどいないので、帰っても教える対象となる人がいません。」と語る彼女は、これからの道を神の導きに委ねていると言う。「でも、私は、福音書の通り生きられることが本当に嬉しい。」と、神と共に生きる日々は充実しているようである。渡邉氏は現在、ロシアに戻った宣教師のリクエストに応じ、ロシア南部のコーカサス地方にある北オセチア共和国で、イコン学校を開設する準備を始めた。今月には、モスクワで、これまでの代表作を発表する個展を開催する予定である。

 日本における正教会は、正式には、日本ハリストス正教会と称し、現在全国に約60の教会と1万人ほどの信徒がいるとのこと。人口比では、約1万人に1人であるから、社会の中では少数派の中の少数派である。私もこれまで、日本人正教徒とは知り合ったことがない。本記事で紹介した渡邉氏のような、専門教育を受けたイコン画家となると、1世紀に1人か2人くらいの極めて希少な存在である。その起源は、1868(明治元)年に、函館(当時は箱館)で3人の日本人が信徒になったことに始まる。当時の日本は、まだキリスト教禁教下にあったが、ロシア領事館付属礼拝堂のニコライ司祭の元を3人が訪れ、教えを受けるようになり、受洗に至った。3人のうちの1人は、当初邪教の教えを広める司祭を斬ろうとしていたが、ニコライ師から教えを聞き、逆にキリストを信じるようになった。その沢辺氏は、後に日本人初の正教会司祭となった。最初に受洗した3人のうち2人が司祭となったが、もう1人は後に棄教したとのこと。キリスト教を知識として受け入れたのかも知れないが、霊の内にイエスを迎えてはいなかったと言うことだ。

 明治初期から中期にかけては、日本における正教会の伝道は、活発に展開されており、各地に次々と教会が設立された。ところが、1891(明治24)年に発生した大津事件(日本訪問中のロシア皇太子が、警護の警察官に切り付けられ負傷した事件)の頃から、対露国民感情の悪化に伴い、正教会は各地で迫害を受けるようになる。日露戦争が勃発すると、主教となっていたニコライ宣教師は日本に留まることを選択し、ロシアのスパイ扱いの迫害下において、日本人信徒と共にある牧会者としての務めを忠実に果たす。日露戦争中、正教会の教役者(司祭など)と信徒らは、人々の反感にも関わらず、ロシア人捕虜のケアを行うなど、神の愛を実践する活動に従事した。こうした活動が実を結び、1911(明治44)年には、日本正教会は全国に265教会、約32,000名の信徒を擁し、カトリック教会に次ぐ規模にまで成長した。しかし、1917(大正6)年に起きたロシア革命の影響により、日本正教会は、またしても日本社会で白眼視されるようになる。ロシアでは、正教会を憎悪する革命勢力により、京都主教を務めたこともある、元日本派遣宣教師アンドロニク氏が銃殺されるなど、正教会にとっては苦難の時代が続く。第2次世界大戦中には、正教会の宣教師はソ連のスパイと見られ、セルギイ主教は1945年5月に特別高等警察(特高)に逮捕され、1ヶ月以上の拘禁の後釈放されたものの、拷問で衰弱した同師は、終戦間際の8月に死去している。

 このように、日本における正教会の歴史は、日本とロシアとの関係が多分に影を落として来た。プロテスタントやカトリックの場合は、明治以降は、ここまで特定の国との関係が、教会のあり方に決定的な影響を及ぼして来たことは少なかったと思う。現在、日本正教会の最高指導者である首座主教は、日本人の府主教である、主代(ぬしろ)氏がその地位にある。ソ連崩壊後には、ロシア正教会との関係も正常化され、前述の渡邉氏のように、ロシアで活躍する信徒もいる。その教勢が100年前よりも小さいことは残念ではあるが、近代以降の日本において、正教の文化や霊性も、少なからず日本人に影響を与えてきたと思う。特に、音楽やバレエなどの芸術や、ロシア文学においては、正教的な霊性が根底にあるものが多く、日本人がそれを意識していないだけで、それらによりプラスの影響を受けて来たのだと思う。私自身は、小学校5年生か6年生の時に級友に勧められて読んだ、ソルジェニーツィン氏の大作「収容所群島」により、ロシア文学に触れ、正教会の存在を知り、ロシアに興味を抱くようになった。

 今般のロシアによるウクライナ侵攻により、かつてのように正教会が白眼視されることは無いであろうが、ロシア人に対して、否定的な感情を抱く人々が増えないことを願う。日本とロシアとの関係は、領土問題もあり多難ではあるが、人と人との関係は政治とは別であろう。日本において、今後正教の信仰を持つ日本人が少しでも増えるなら、それは日本社会にとって、文化の厚みをもたらす点においても良いことに違いない。

「父なる神と主イエス・キリストから、平和と、信仰を伴う愛とが、きょうだいたちにありますように。 恵みが、私たちの主イエス・キリストを変わることなく愛する、すべての人と共にありますように」(エフェソの信徒への手紙 6:23−24 聖書協会共同訳)