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日系人のこと(記事No.97)

 京都新聞2022年3月20日日曜版記事に、「世界の日系社会」と題された記事が掲載されていた。世界には現在、推定約380万人の日系人がいると言う。その大半は、南北アメリカ大陸の国々に住んでいる。最多はブラジルの約190万人で、次いでアメリカが約130万人である。日本国内にも、約25万人の日系人がいるが、大半は出稼ぎ労働者として来日し、その後家族共々定住した人々だと思われる。群馬県太田市、同大泉町や静岡県浜松市など、自動車関連工場が多く立地する街には、工場労働者らとその家族である、日系人の大きなコミュニティーが存在することは知られている。

 日系人の定義とは、日本から国外へ移住し居住国の国籍または永住権を取得した日本人とその子孫のことである。歴史上記録がある範囲では、16世紀まで遡ることが出来る。朱印船貿易で、主として東南アジアの各地に日本人町が形成されたが、そこに定住した人々と彼らの子孫である。フィリピン、タイ、ベトナム、カンボジア、マレーシアなどの貿易港があった地に、数百人から数千人規模の日本人町が存在していた。この他、朝鮮の蔚山(ウルサン)には、倭館と呼ばれる日本人居住地があった。貿易だけでなく、キリスト教との関係で海外に渡航した日本人もおり、マカオなどには相当数の日本人が居留していたようである。キリスト教弾圧が始まると、マニラに追放された高山右近などの人々や、自ら国外に逃れた人々がいた。徳川幕府の鎖国政策により本国との交流が途絶えると、これらの日本人町は次第に衰退し、在留日本人らの子孫は現地に同化して、今日ではその痕跡もほとんど残っていない。

 キリスト教との関連では、この他に、1613年に日本を発った、支倉常長ら慶長遣欧使節(彼らの多くは出発時に既にキリシタンであったか、滞在国で受洗した。)の中で、道中のメキシコやスペインに自らの意思で残留した人々もいて、現在に至るまで、その子孫が存在している。特に、出身地を苗字に付けることが多いと言われているスペインでは、「ハポン(スペイン語で日本の意味)」姓の人々がおり、現在では少なくとも600名ほどが日本人の子孫とされる。彼らは、もはや日本人の風貌は持っておらず、文化や習慣も現地のそれを有しているが、 日本人の子孫としての自覚と誇りを持っているとも聞く。

 時代が下り明治になると、日本は国策的に海外移民を送り出すようになった。端的に言えば、国内の口減らしが目的であり、初期に渡航した人々は出稼ぎ感覚の人々も多かった。移民先は、ハワイや南北アメリカ諸国が多かったが、中国大陸や東南アジア方面に渡航した人々も少なくなかった。1885(明治18)年から1924(大正13)年までの約40年間に、ハワイに約20万人、アメリカ合衆国本土に約18万人が移民している。現在日系人人口が最大のブラジルには、1908(明治41)年から1941(昭和16年)までの約34年間に、約19万人が移民し、第2次世界大戦後も、1952(昭和27)年から1993(平成5)年までに、約5万4千人が移民している。アルゼンチン、パラグアイ、ペルーなど、南米諸国には多数の日本人移民が渡っている。

 海外移民の中には、南樺太、満州、朝鮮半島、台湾、南洋諸島など、日清戦争から第1次世界大戦に至るまでの期間に、割譲、併合、植民化、委任統治などにより、日本の勢力圏に置かれた国々・地域への移民も多かった。満州だけで、少なくとも27万人程度が満蒙開拓団などに参加して移民している。ソ連軍侵攻後の彼らの悲劇や、残留孤児の苦難は、涙無しに聞くことは出来ないであろう。敗戦時には、朝鮮半島に移住していた約90万人の人々や、同じく台湾の約40万人(内約20万人は台湾生まれ)の日本人移民は、少数の人々を除き、全員日本へ帰還させられている。中世以来、日本人移民とその子孫である日系人らは、日本と移住国との関係や、それぞれの国策に翻弄もされて来た。それでも、多くの日系人は、残留の自由がある場合には、現地での生活を継続することを選択したであろう。彼らの子孫が、現在の日系人の大多数である。

 さて、私自身は、これまで主にアメリカと日本国内で、何人かの日系人と個人的に知り合う機会があった。その中で、最も日常的に関わった1人が、前職で在日米軍基地に勤務していた時に、私の直属上司として2年間仕えた、ナカモト氏という、広島県出身の親を持つ日系2世であった。当時私は30代になったばかりの頃であり、ナカモト氏は70歳くらいであった。その頃までの米軍には、戦争に従軍した元軍人の軍属(文民職員)は、一定条件のもと定年の適用除外となる特例があった。第2次世界大戦中に日系人部隊に志願し、イタリア戦線などに従軍したナカモト氏も、定年対象外の1人であった。謹厳実直だが、時には人情味も見せるナカモト氏であったが、その後私は異動となり、それから間も無く同氏は退職した。ナカモト氏が退職してから2、3年経った頃であったが、同氏が病気で相模原市の病院に入院したことを聞き、私は退勤後に見舞いに訪れたが、あいにく面会謝絶で会うことは出来なかった。それから日をおかず、同氏が亡くなったとの知らせを受けたのである。

 大和市内の教会で執り行われたナカモト氏の葬儀に、私のかつての同僚や同氏の元上司らと共に参列した。生前の同氏は、特に信仰深いとは聞いておらず、お互い聖書の話などもしたことが無かったので、米軍基地内のチャペルではなく、日本の教会で葬儀が行われたことが少し意外であった。その疑問は、すぐに故人の紹介の中で解けた。ナカモト氏は、病の中でキリストを救い主として受け入れ、お嬢さんの通う教会の牧師より、病床洗礼を受けていたのである。実は私は、ナカモト氏の元で働いていた時に、福音を伝えることが出来なかったことを、ずっと後悔していたので、同氏がイエスを信じて天国へと帰ったことに、深い慰めを感じた。式が終わり、参列者が遺族の方々に挨拶する機会があったのだが、ナカモト氏のお嬢さんの前に立ち、かつて上司部下として同じ職場で働いていた時に福音を伝えなかったことを、ずっと後悔していたと話し出した瞬間、私は不覚にも涙が溢れ、その後の言葉を継ぐことが出来なかった。クリスチャンであったお嬢さんには、少なくとも、私のナカモト氏に対する真実の想いが伝わったのではないかと思う。

 このように、私は、日系人と聞くと、ナカモト氏のことを思い出す。ハワイを含めてアメリカの場合には、日系人には今でも仏教徒の人々もいるが、私の知る限り、クリスチャンとなった人々が多い。現在の韓国系移民がそうであるように、日系人が多い町には必ずと言っていいほど、古くは移民事業最盛期に設立された、いくつかの日系教会がある。そこでは通常、英語礼拝と日本語礼拝の両方が持たれている。特に、母語が日本語である移民1世の場合は、日本語で説教を聞き、聖書を学び、賛美を捧げることを願う人々が大半である。彼らの中には、戦争により困難な道を歩んで来た人々もいるが、すでに多くは天に帰っている。彼らは、移住したアメリカで、差別や偏見に苦しみながらも、日本人としての誇りを失わず、社会の中で活躍の場を築いて来た立派な人々である。しかし、彼らを送り出した祖国日本は、残念なことに、彼らと正しく関わることが出来なかった。本当は、これについても書きたいと思うが、話題が少し分散してしまうので、今回はこの辺りで終えたい。全世界の日系人たちに、主なる神の恵みがありますように。

「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』」(創世記 12:1−2 口語訳)