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響き合う被造物たち(記事No.120)

 3週間ほど前のことであるが、農家で米作りをしているクリスチャンの友人より、今年の田植えが無事終わったとの連絡があった。友人曰く、「お米さん達に、元気に育ってください。ありがとうね。と言葉をかけておきました。」とのことである。本ブログの読者の皆さんであれば、何もおかしな話ではないと思われるだろう。植物に肯定的な言葉をかけるのと、否定的な言葉をかけるのとでは、前者が元気によく育つのに対して、後者は元気が無く育ちも悪いことは、様々な実験などで確かめられている。1例を挙げると、数年前に家具のIKEAが公開した、いじめ撲滅のプロモーション・ビデオで、興味深い実証実験の結果が見られる。興味のある方は、"Bully A Plant"、"IKEA"でネット検索すると、その動画を見ることが出来る。

 IKEAはアラブ首長国連邦で、いじめ撲滅を訴えるための、ユニークな啓発プロモーションを実施した。「お互いの接し方によって幸せは伝播すると信じている」というIKEAは、これを実証するためにUAE国内の小学校で、生徒たちの協力により実証実験を行った。学校に設置されたのが、それぞれ観葉植物のようなものが植えられた二つの植木鉢である。そのうちの1つに対しては、事前に録音された「お前のことは誰も気づかない」などのネガティブな言葉(音声)をループ再生して聞かせた。もう1つには、「あなたは美しい」などポジティブな言葉を同じくループ再生して聞かせた。それぞれの言葉は、生徒たちにも協力してもらいバリエーションを増やして、2鉢の植物に繰り返し聞かせた。その状態を30日続けた結果、植物の成長度合いは対照的な結果となった。ネガティブな言葉を受け続けた植物は枯れてしまい、ポジティブな言葉を受け続けた植物は順調に育ったのである。

 同じような検証は、植物だけでなく、水などでも行われて来た。例えば、クラシック音楽を聴かせた水と、ヘビーメタルを聴かせた水とでは、結晶の美しさがまるで違う結果となることもそうである。これらのことから明らかなのは、私たちの言葉や音楽には伝える力があり、他の被造物は、私たちの言葉や音楽が与えるメッセージを理解出来ることである。このことは、犬や猫を飼ったことのある人にとっては、普通のことであると思う。私自身は、子供の頃、鳥類を飼ったことがあるだけで、犬猫は飼ったことは無い。だが、大学生の時に、2匹の犬の飼い主である初老の夫妻の旅行中に、住み込みでペットの犬の世話をしたことがあった。シェパードと犬種は忘れたが中型犬であったが、彼らに初めて会った時には警戒されて吠え続けられた。しかし、飼い主の夫妻が旅行に発つと、餌や散歩の世話をしてくれる私に逆らっては損だと思ったのか、次第に懐くようになった。お世話初日の夜から、私が割り当てられた寝室に入ると、もっと遊んでくれとばかりに、しばらく部屋の扉をカリカリ掻くのであった。飼い主たちが戻る頃には、私たちは、すっかり友達になっていたのである。

 さて、人間は被造物の中で、天使たちを除けば唯一、霊が与えられている存在である。すなわち、霊、魂、体から成る人格的存在として創造されたのが人である。他の被造物には、霊は無く、魂と体が与えられている。先に植物の例を挙げたように、魂は、そう呼ぶのが相応しいかは別として、動物などの狭義の生き物だけでなく、木や草にも与えられている。また、水がそうであるように、およそ自然界を構成する物質には、被造物同士でコミュケーションを取ることが出来る性質が与えられている。全ての被造物は、互いに交流するように造られている。人は霊で創造主である神と交流し、魂で他の被造物と交流するのである。それは、人が全ての被造物を治めることを、神から委ねられていることとも通じる。これは、「文化命令」とも言われ、天地創造の時に神が人に命じられたことである。

「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記 1:28 口語訳)


 神が文化命令の中で、「地を従わせよ」、「全ての生き物とを治めよ」と言われたことは、人が自然や生き物に対して好き放題振る舞えるという意味では無い。そうではなく、唯一霊を与えられた被造物の中のリーダー役として、神の意思をこの世界に実現する責務と権威を与えられたということである。であるから、私たちは、自分たちの考えを他の被造物に押し付けるのではなく、神の考えを探り、その創造の計画に沿った被造物管理を行わなければならない。この原則に立つならば、自然環境に長期にわたり悪影響を与えること、例えば原子力発電などは廃止すべきであることは言うまでも無い。穀物や野菜などの遺伝子組み換えも、自然の性質を人工的に改変する手法としては、行き過ぎたものであろう。この世界を正しく管理するためには、私たち自身が、神に似せて造られた存在として、神を信じ、その創造の秩序の内に歩む必要がある。全ての被造物は、そのような私たちの到来を待ち望んでいる。

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ローマ人への手紙 8:19 口語訳)


 私たちを含めて、全ての被造物は孤立して存在し得るものでは無い。相互に依存し、作用し合っている。私たちは、他の被造物に良い影響も悪い影響も与えることが出来る。そして、人を含めた全ての被造物には、イエス・キリストにより与えられる新しい命が必要である。人がイエスにより罪が贖われて新しい命を得る時、他の被造物に、その波動、あるいはエネルギーが伝わり、彼らもまた、神の命の喜びや平安を得る。実に全ての被造物は、互いに響き合っているのだ。世界を苦しみから解放することが出来るのか否かは、私たちの選択にかかっている。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙 8:22 口語訳)
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肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(記事No.119)

 今回は最初に、程度の低いエピソードを1つ紹介したい。先日、妻が次男のクラスメートの母親たちのランチ会に参加した。子供同士仲が良い母親4人が、その内の1人の発案とコーディネートで初めて集まることになった。幹事役が設定した会場は、京都駅からタクシーで数分のところにあるホテルで、玄関に到着すると支配人ら3人が出迎えたので驚いたと言う。場所から何から幹事役にお任せだったこともあり、会費が6,000円とは随分高いと思ったが、会場が決まってから伝えられたので、断れなかったと言う。最初から内容が分かっていたら、ノコノコ行かなかったのだろう。ホテルで通されたVIPルームでは、コースの食事が出たとのことである。何でも、幹事役が同系列のホテルの支配人と知り合いで、そのルートで手配してもらったらしい。妻は少しおしゃれ気味の普段着で出かけたのだが、幹事役は芸能人のようないでたちで現れ、いかにもセレブ風に見せていたそうである。帰り際には、ホテルから、お菓子のお土産までもらったとのことであった。

 長男が中高生の時に、母親同士の気軽なランチ会に妻も時折参加していたが、今回の幹事役は、初めて接したタイプの人であったという。これまでも、マウントを取りたがる人々には随分と会って来たが、これほど強烈にセレブ臭を発散させていたのは、今回が初めてであったとのこと。もしかしたら、その幹事役にとっては、普段通りのランチ会であったのかも知れない。それ自体は個人の生活スタイルであるが、問題は、中学生の母親のランチ会で、しかも、初対面同士が集まるのに、あえてシティ・ホテルを会場に、6,000円の会費で設定する感覚であろう。私も、仕事などを通して知り合った人々の中には、世間的には金持ちに該当する人々もいる。しかし、多少なりとも個人的に付き合いのある人々の中では、金持ちであることを、殊更ひけらかすような人はいない。くだんの幹事役は、自分がセレブ(?)であることを見せつけたかったのだと思う。

 帰宅した私に、一部始終を話した妻は、もう二度と同じメンバーでのランチ会は御免だと言う。自慢話をあれこれ聞かされる訳であるから、それも当然であろう。別に不思議なことでもないが、世の中には、何かと自慢することが好きな人たちも存在する。持ち物の自慢などは、その人の幼児性が現れているようで、ニコニコ笑いながら聞き流せば良い程度のものである。自慢レベルが少し高くなると、職業や社会的地位、年収などを何かとひけらかしたいのが伝わる。自慢したがる人は男女問わずいるが、偏見かも知れないが、配偶者の学歴や職業、子供の学校や成績自慢などは、どちらかと言えば、女性の方に多く見受けられる。自慢あるいはマウントは、嫉妬心の裏返しでもあるが、男性の方が、それを表に出さないように、抑えようとする傾向があるのかも知れない。この辺りは、アダムを誘惑したのがエバであったことや、イスラエル王を堕落させたのが、王妃イゼベルであったことなどからも、男女の霊的な、正確には魂の性質の違いかも知れない。

 人は誰でも、他人から認められたいという欲求(承認欲求)を有している。それ自体は、悪いこととは言えず、魂の自然な性質の一部である。私が思うに、自慢とは、歪んだ承認欲求の現れではないだろうか。意識の深部に、人としての存在価値を十分認めてもらっていないとの思いが強くある程、自慢への渇望度も高くなるのだと思う。そのような人にとっては、何か他人よりも優越感を得られることがあれば、それは自慢の種となり、あの手この手でひけらかすのである。そこには、人の虚栄心、あるいは、劣等感や嫉妬心を刺激して、自慢を引き起こさせる悪霊の働きもある。生活の質を高めたいという願いは、私も持っているし、多くのクリスチャンも同じであろう。進んで清貧に生きようとすることは、霊的賜物の1つでもあるだろうし、誰もが出来る訳ではない。だが、何でも他人に対する自慢をしようとすれば、それは自らの品性を卑しめることになり、無限ループのように続く競争心の発露により、魂の安息を得られることは決して無い。

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉 4:4 新共同訳)


 聖書には、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」は、神から出るものではなく、世から出るものとある。この場合の世とは、神を認めない価値観に立つ世界のことであり、その支配者は悪魔である。そうなると、自慢のルーツは悪魔であり、そこには悪霊が働いていることが分かる。それゆえ、私たちは、自慢することが自分の性質の一部とならないように、十分気をつける必要がある。そうでないと、知らず知らずのうちに、私たちの価値観が、世の価値観と同様になって行き、世が与えるものより優れた、神からの知恵や力を得ようとしなくなるかも知れない。私たちは、誰かから自慢された時、その対象が自分が持っていないものであったとしても、劣等感や敗北感を抱く必要は全く無い。そんなつまらない事に、あるいは、あえて言うが、程度が低い人に、悩まされるより、神の御心を求め、それを行うことが重要である。私たちが真摯に追い求めるべきものは、遅かれ早かれ過ぎ去る世のものではなく、永遠に残る実であるべきだ。

「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙第一 2:16-17 新改訳)
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やがてアジアの最貧国に(記事No.118)

 本ブログ読者の皆さんは、情報リテラシーも高く、社会の動きにも敏感であると思うので、今回書くことは、別に驚くには値しないことであろう。京都新聞2022年6月19日付朝刊1面トップに、「"安い" 日本 世界に遅れ」との見出しで、中華圏の外国人投資家などが、京都の不動産を買い漁っているとの記事が掲載されていた。記事の中に、「地元の若者がローンを組んでも手を出せない住宅や企業が手放した高額物件を、海外勢が買って行くー。こんな京都の姿から見えてくるのは、約30年にわたって物価や賃金が伸び悩み続ける、日本という国の"安さ"だろう。」とあった。

 同記事には、日本の物価や賃金の伸び悩みの原因について、大学教授の解説があったが、紙幅の都合もあってか、表層的な分析が書かれるにとどまっていた。だが、専門家による分析に頼らずとも、物事には原因と結果の法則があることを踏まえて、誰でもその原因を導き出すことが出来るだろう。単純かつ控えめに言えば、誰かが日本を豊かにしようとしなかったからである。誰が?直接的には、日本の政治家たちがである。さらに突き詰めるなら、そのような政治家たちを選んで来た選挙民、日本の国民自身である。もちろん、健康上などの理由が無いのに投票を放棄した人々は、白紙委任であるので同罪である。だが、最大の「犯人」は、事実上の宗主国のアメリカであることは論を待たない。日本を利用しようとする中国や韓国の動きは、どちらかと言えば、アメリカに便乗したコバンザメ戦略であろう。

 飛ばし記事が珍しくない産経新聞の報道だったので真偽は不明であるが、アメリカのローレンス・サマーズ元国務長官は、東日本大震災が発生した直後の2011年3月23日に、「誠に残念ですが、日本は貧しくなるでしょう。」と発言したらしい。仮に、この発言が事実であれば、「彼ら」の予想ではなく計画を告知したものであったのだろう。事実でなかったとしても、「彼ら」なら言いかねない本音であろう。これまでも本ブログで書いて来たように、「彼ら」とは、一般のアメリカ国民ではなく、アメリカという国家に寄生している悪魔崇拝のグローバリストらのことである。「彼ら」は、第2次世界大戦の戦利品である日本を、骨の髄までしゃぶりつくし、とことん利用する意思を持っていると断じて差し支えないであろう。

 日本は敗戦後今日に至るまで、アメリカのくびきに加え、獅子身中の虫たちに食い荒らされて来た。売国の政治家、国民に対して冷酷な官僚、金儲けになれば独裁国家にも尻尾を振る財界人、体制の宣伝機関マスコミの似非ジャーナリスト、科学よりも金の御用学者等々である。考えようによっては、足を引っ張る存在がこんなに蠢いているのに、よくも一応は経済大国、先進国として、ここまでやって来れたものである。国民の勤勉さに加え、人口増加、いわゆる人口ボーナスの恩恵が大きかったと思う。しかし、それも既に終わり、人口減少、すなわち人口オーナスが今後も続いて行く。小手先の対策では、没落国家になるしか無いのである。

 7年以上前のインタビューでの発言であるが、PRESIDENTオンライン版2015年1月12日付記事にあった、高名なアメリカ人投資家であるジム・ロジャース氏の、日本に対する警鐘が現実となっている。同氏曰く、「安倍晋三首相は最後に放った矢が自分の背中に突き刺さって命取りとなり、日本を破綻させた人物として歴史に名を残すことになるでしょう。自国通貨の価値を下げるなんて、狂気の沙汰としか思えません。円はここ数年で45~50%も下落していますが、これは先進国の通貨の動きとしては異常です。このようなことが起きると国家は崩壊し、時には戦争に発展します。」とある。この記事が出た当日の円ドルレートは、1ドル119.87円であったが、第2次安倍政権が発足した2012年12月26日時点では、1ドル85.35円であった、それから9年半後の現時点で、1ドル134.円近辺である。何と、約58パーセントも下落している。外国から見れば、日本はバーゲンセール中であって、冒頭に紹介した京都新聞記事のようになるのが必然であろう。

 ジム・ロジャース氏は「予言」し、異常な円安政策の行き着くところは、日本国家の崩壊と、あるいは戦争の勃発であると言う。それでは、現在の日本はどうであろうか?安定した国家であり、戦争が起こる可能性は極めて低いのだろうか?私は、現在の日本は、社会が不安定化しており、国力が下降の一途であって、口先だけは愛国者の、似非保守の狂人らは戦争を指向しているとの見方である。このまま進めば、戦争勃発が無かったとしても、やがてはアジア最貧国の1つに転落すること必至である。これまでは考えられもしなかったことだが、北朝鮮でさえ、その豊富な鉱物資源と発展途上の労働力を活かし、最小限中国並みの改革・開放が進むなら、国民一人あたりでは、日本よりも豊かになる潜在力を有していると思う。来月には参議院選挙が行われるが、私たちは、もっと日本の現状に危機感を抱き、1つ1つの選挙にも真剣に1票を投じる必要があるだろう。

 以上の記事では触れなかったが、日本が着実に貧しくなって来ている種々の要因の背後には、霊的な動きが存在する。「偽りの霊」、「高慢の霊」、「貧困の霊」、「恐れの霊」など、この国に対して働く悪霊どもが、国内外の人々を用いて、日本を貶めてきた。対抗するには、イエス・キリストによる神の力と知恵を受けるほか無い。日本の政治的、経済的問題は、実は霊的問題でもあるのだ。このことについては、これからも取り上げて行きたいと思う。前途多難な日本であるが、使徒パウロを通して語られた聖書の教えを1つ挙げておきたい。日本社会が今後どのような状況になったとしても、神を信じ、このお方に頼る人には、不思議な力と知恵が与えられ、その人生は神の恵みによって導かれるのである。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ人への手紙 4:12 口語訳)
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5年ぶりの再会(記事No.117)

 先週、都内で5年ぶりに、クリスチャンの友人夫妻と彼らのお嬢さんと再会した。友人夫妻は、日本に帰化した中国人であるが、7、8年前に、事業を立ち上げるために中国に一旦戻っていた。最後に会ったのは、2017年3月に子供たちを連れて訪れた、上海でのことである。今回は、ご主人のビザ更新もあり、何年かぶりに一時帰国した機会に会うことになり、私たち夫婦と次男で出向いたのである。友人夫妻の子供たちは既に就職しており、それぞれ別々に住んでいるが、今回はお嬢さんが一緒であった。

 私たち夫婦が彼らに出会ったのは、今を遡ること20年以上前、東京都内の教会に通っていた時のことである。その教会は、礼拝は英語の同時通訳付きで行われており、ビジネスマンや留学生、外交官などの、多国籍の外国人も集っていた。友人夫妻の母語は中国語であるが、留学生出身で日本語が堪能なことで、礼拝説教を聞くことや、日本人の教会員とのコミュニケーションを取ることには不自由なかった。私たちは、お互い気が合い、年齢も数歳違いと近いこともあり、出会って数ヶ月くらいで友人同士となった。その10年後くらいに、私たちは都下での教会開拓のため独立し、彼らも中国に渡ったので、1、2年に1回くらい日本か中国で会う様な繋がりとなった。

 現在彼らは、中国でそれぞれ別々の分野で事業を展開している。新型コロナ流行が始まって以降は、特にご主人の方は、リモート・ミーティングなども多用し、今では中国各地に顧客を有している。奥様の方は、今は講演活動に力を入れているところである。彼らの尊敬すべき点は多々あるが、何といっても、その人柄と、クリスチャンとして信仰深いことが素晴らしい。時々、信仰熱心な人の中には、ある種浮世離れしているかのような人もいるが、彼らは、それぞれの仕事にも熱心で、かつ実を結んでいるのである。また、彼らの二人の子供たちも優秀であり、それぞれ、外資系IT企業で働いている。

 彼らは、一見、絵に描いたような立派な家族であるが、もちろん最初からそうだった訳ではない。ご主人の方は、日本留学中に母国で天安門事件が発生したが、中国政府に対する抗議活動に参加したため、帰国すると身に危険が及ぶ可能性が生じ、卒業後は日本に留まり就職した。その後、日本に帰化している。奥様の方も、中国の高名な一族の出身であるにもかかわらず、ご主人と共に日本国籍を取得している。私たちが彼らと出会った当時、彼らの長女が小学生、長男は2歳くらいであった。特に、長男の方は愛くるしく、教会の中でアイドル的な存在であった。だが、彼らは、それぞれ中学生になった頃から、中国系ということで、愛や知性に欠如したクラスメートらから、からかわれるなどの嫌がらせを受けるようになった。そのため、どちらも、両親の母語である中国語を学ぶことを拒絶し、中国系日本人であることに、負い目を感じるようになった。

 その頃、友人夫妻は、それぞれ転職を重ねた後、相次いで独立し、最初に会社を設立した奥様は貿易を、ご主人の方は、少し遅れてコンサルティング会社を設立した。だが、ご主人の会社は、やがて経営困難となり、休業することになった。一時は、奥様の方は、離婚も真剣に考えたそうである。その当時、第2次安倍政権で、いわゆる有事法制が成立したが、高校に入学した彼らの長男は、これに危機感を持った。彼は、もし将来徴兵制が導入されれば、中国系である自分は、危険な場所に配置されるのではないかと考えたのだ。外国系であると言うだけで差別する、心の狭い人々が少なくない日本であるから、彼の抱いた危機感も当然のことであったと思う。彼は迅速に行動し、高校を中退して、カナダに渡り、現地の高校に編入した。そこで彼は、中国人を含めた様々な国の出身者たちと出会い、人として大きく成長することになった。カナダの大学に進学後彼は、中国のトップクラスの大学の奨学留学生試験に合格し、卒業後は日本に戻り、台湾系IT企業の日本法人に就職した。今では、母語の日本語のほか、英語、中国語に堪能な国際人材として活躍している。

 彼らの長女の方も、決して順風満帆な人生を送って来た訳ではない。小さい頃から俊敏で、中学に入ってからは運動部でも活躍していた彼女は、高校3年生の時、脳腫瘍になり、命の危機に瀕する試練に会った。しかし、両親の必死の祈りに神は応えてくださり、彼女は癒され、無事大学に進学することが出来た。大学生となってから、病気が再発したのだが、その過程で彼女の信仰も練られ、再び神の癒しが現された。以後、現在に至る迄病気の再発はせず、健康が守られている。高校生の頃までは嫌っていた中国語の勉強も、中国の大学に1年間留学するなど、自ら進んで取り組むようになった。現在は、外資系IT会社で働いている。

 友人家族の歩んで来た道を見ると、どのような時でも、例え人の考えでは最悪の状況においても、常に神の守りがあったことを思わされる。現在も、奥様の方は、闘病中のなのだが、今回の帰国前に入院した中国の病院では、入院患者や病院職員らに対して積極的にイエスを証しし、何人かが信仰を持つに至ったと言う。このため、共産党からの叱責を恐れた病院幹部の思惑があってか、予定より早く退院するよう懇願されてしまったと言う。以前から伝道熱心であったが、子供たちの反抗、ご主人の事業の挫折、自身の病気など、数々の試練を通り抜け、多くの涙を流して来たであろうが、その年月の中で、神の恵みを多く体験したことで、その証はより力強いものとなった。

 5年ぶりに彼らと会った翌日、ご主人から私にメッセージが送られて来た。そこには、「神様の豊かな愛が、どのくらいの時間会わなくとも、どのくらいの距離が離れていたとしても、私たちの心と愛を繋いでいると思います。」と書かれていた。彼らは、キリストに在る兄弟姉妹であり、私たち夫婦の大切な親友である。彼らと知り合わせてくださった神に感謝し、私たちも、彼らの愛と熱心な信仰に倣う者となりたいと願う。

「友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある」(箴言 18:24 新共同訳)
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深く静かに浸透せよ(記事No.116)

 今回の記事も、登場人物は実在の人々であり、実際の出来事に関して書く。しかし、内容には現時点で未確認かつ繊細な事項が含まれており、そのため、かなりデフォルメして書くことをご理解いただきたい。決して、勿体ぶっている訳ではないのだが、そこまでして書こうと思ったのは、クリスチャンの兄弟姉妹に対する注意喚起にもなると考えたためである。

 さて、日本には、キリスト教主義を掲げる学校が多く存在する。歴史の古い学校は、明治初期に創設されたものもある。カトリック学校の場合は、修道会が設立母体となっているものも多い。私の通っていた小学校も、そのような修道会立の学校であった。当時は、修道会のシスターが校長以下何人も教鞭を取っており、厳しくも愛のある教師たちであった。プロテスタント学校の場合も、外国の宣教団が設立したものが多く存在する。また、使命感に燃えた日本人伝道者や教育者が設立した学校もある。私が通っていた中学・高校は、アメリカのバプテスト宣教団によって設立されたものであった。

 近代日本の学校教育において、キリスト教主義学校が結んで来た実は多大である。それらの学校の中には、名門校として知られるものも少なくない。特に、歴史が古い学校ほど、創立者をはじめ、代々の教職員たちの労苦と、幾多の卒業生たちの足跡により、名門校としての今日があると言えよう。決して、現在の教職員らの功績ではなく、今後の活躍が未知数の生徒たちのゆえでもない。であるから、キリスト教主義学校の経営陣と教職員らは、最初に据えられた土台の上に、時代に即した変化をしながらも、先人たちの教えに忠実に、キリスト教教育の精神を受け継いで行く責務を有している。

 しかし、残念なことに、多くのキリスト教主義学校において、信仰を有する教職員は少数派になって久しく、それゆえ、生徒らに対して信仰的感化を与えることも、容易では無い実情がある。それでも、ほとんど全てのキリスト教主義学校では、学年礼拝や全校礼拝など、学校生活の中で、礼拝の時間が設けられている。かろうじて、聖書の教えが語られていることで、キリスト教主義の面目を保っているとも言えよう。

 ここからは、ある実在する、関西地方にあるキリスト教主義学校の話である。その学校は、幼稚園から大学までを有する大規模な学校法人に属する、男女共学の中学校である。関西地方では、いわゆる名門校として知られている。もちろん、カリキュラムには聖書の授業もあり、専任の宗教教師も置かれている。ところが、2年前に日本でも新型コロナ騒動が始まって以来、何と、この学校では感染防止を理由に、学年礼拝を止めてしまったのだ。過去2年間、この学校の「礼拝」は、各教室での昼食時に放送で流される、「祈り、讃美歌、メッセージ」を聞くことなのである。1学年が丸ごと入れる規模の立派な礼拝堂は、この2年余り、本来の目的に使われることは無かった。

 当然のことながら、在校生の保護者の中で少数いるクリスチャンの父兄は、このような状況を憂い、それぞれに祈り続けて来ただろう。ある保護者は、学校幹部に手紙を書き、参加人数を分散させるなど、感染防止の工夫をしながら、礼拝を再開して欲しいと訴えた。返信はあったが、「キリスト教についての考え方はそれぞれだと思います。」との、木で鼻をくくったような、愛も熱意も無いような内容であった。私も、その学校が、最初に据えられた、キリスト教信仰の土台の上に再生されるよう、祈り続けて来た。そして、愛も信仰もやる気も無い教師たちは去るように、と何人かの教師たちの名前を挙げて祈って来た。礼拝を蔑ろにするのは、愛や信仰の欠如が一番の問題であると思っていたからである。

 ところが、つい昨日のこと、これまでは、全く想像もしていなかったことが思い浮かんだ。それは、教師たちの中で、礼拝を含む学校のスケジュールを仕切っているキーパーソンが、少なくとも2人いるのだが、彼らは、ある目的を持って礼拝を止めているという疑いである。彼らの内の1人は、クリスチャンと自称しているようである。彼は、保護者からの礼拝再開を訴える手紙に返信した幹部教師である。礼拝を止めた彼らの目的は、生徒たちの新型コロナ感染防止のためではなく、キリスト教主義学校を内部から骨抜きにすることだったのではないか!?仮にそうだとすると、彼らは、ある組織から送り込まれた、エージェントである可能性も浮上する。その組織とは、恐らくは統一教会ではないだろうか。

 統一教会は数十年前から、日本でも中央官庁や政界に浸透を続けているのは、もはや公知の事実であると思う。その最初の日本支部設立を支援したのは、岸信介元首相であったが、その孫にあたる安倍晋三元首相も、統一教会の式典に祝辞を贈るなど、自民党との親密な関係は知られている。彼らはまた、キリスト教会にも、知る限りではプロテスタント教会のみであるが、浸透を試みて来た。最初は常識もある信徒を装って教会に入り込み、やがて執事など役員に選任されると、教会をコントロールしようと動き、牧師が反対すると追放を図るのが典型的な手口である。彼らのターゲットには、キリスト教主義学校も含まれているのではないだろうか?なぜ、こんなことに今まで気づかなかったのか。私の預言的賜物も、まだまだ開発途上であると言うことか。

 以上書いたことは、現時点では確信を持つに至った訳ではなく、濃厚な疑いの段階である。私も、その学校のために祈り続けているが、いずれ神が彼らを取り扱われるであろう。このような学校の実態を、創立者が草葉の陰で嘆いているとは言うまい。彼は、神の御国で永遠の安息の内にあり、もはや悲しみや憂い、嘆きとは無縁である。だが、神の霊である聖霊は悲しんでいるだろう。イエス・キリストを信じる信仰者が、聖書の教えを土台として創設した学校が、その教えから、また、キリストに対する愛から離れてしまったのだから。このような悪魔の計略については、イエスご自身が預言され、警鐘を鳴らされている。

「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている」(使徒行伝 20:29 口語訳)


 考えてみれば、何も不思議な話では無い。古今東西の国々で、国家指導者クラスが外国のエージェントであった事例もある。同様に、キリスト教会の指導者たちの中で、神に対する信仰を持っていないどころか、自覚的な悪魔のエージェントも存在して来た。キリスト教主義学校も、決して例外では無いだろう。学校をコントロールするためには、校長、副校長、事務長、宗教主任などの要職に就くのが、彼らとしてはやり易い。役職に就いていない教職員では、全体に対する影響力も弱い。であるから、どのような職業でも同様であるが、私たちは、人を肩書きや職位だけで判断するべきではない。私たちは、敬虔な信仰者や紳士淑女の仮面を被った、悪魔のエージェントもいるということに、もっと警戒感を持つべきであろう。

「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」(コリント人への第二の手紙 11:14. 口語訳)
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世界的経済クラッシュにおける日本(記事No.115)

 最近、円安の進行が止まらない。6月13日には、24年ぶりの安値となる、1ドル135円台前半まで下落した。岸田首相は、「外国から観光客が来れば円安は追い風」と語るなど、少なくとも表向きは、日本政府に危機感は無いようである。安倍首相(当時)以来、日本政府の見解では、円安は輸出にとってはプラスであり、輸出企業の業績が伸びれば関連産業にも波及し、日本全体にもプラスの効果をもたらすということである。もしそうなら、これから日本経済は上向いて来るはずであるが、本当にそうであろうか?円安となると、輸入品のコストが上昇するので、燃料価格などへの波及もあり、国産品を含めて物価は上昇する。現に、エネルギーや食品など、日常生活に直結する物品・サービスを含め、物価の上昇が続いている。

 同時並行的に、株価も下がっており、これは米欧でも同様である。一般論として、金利が上昇すれば株価は下がるが、6月15日にアメリカ連邦準備制度理事会が約30年ぶりの上げ幅となる、政策金利の0.75%利上げを発表したことで、ニューヨーク・ダウは大幅に下落している。その影響で、東京市場でも、株価は大幅下落を続けており、投資家たちは気が気でないだろう。日本では、国政選挙の前には、政府の意向を受けて年金積立金などから公的資金が投入され、株価を維持しようとするので、参議院選挙終了までは暴落は無いと思えるが、果たしてどうなるであろうか。なお、年金資金を運用するのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)であるが、第2次安倍政権における「アベノミクス」の一環で、2014年に株式投資の割合が、従前の24パーセントから50パーセントに拡大されている。言うまでもなく、年金積立金は国民の財産であるので、株価が下落すれば、その分年金原資が毀損することとなり、私たちにとって、他人事では無いのである。

 さて、現在日本がそうであるように、世界的にも資源や食糧、原材料などの価格上昇が進行中である。日本を含めた西側政府の説明では、これはウクライナ紛争が原因であり、従って、悪いのはロシアということである。だが、ロシア産の天然ガスなどの資源や、農作物や肥料の輸入を、制裁と称して制限しているのは、当の西側諸国である。つまり、自分達の対ロシア制裁で、自国の経済を痛め付け、自国民を苦しめて、その責任を一方的にロシアに転嫁しているのが実態である。当然、そうなると分かってやっているのである。目的は、「彼ら」が直接コントロールしているグローバル企業以外の事業者を淘汰し、市場の寡占化を進めることで莫大な利益を上げることが1つである。また、世界経済を混乱させることで、各国の経済力を削ぎ、社会を不安定化させて、世界統一政府樹立に向けての地ならしを進めることも目的であろう。

 そうなると、仮に今後ウクライナ紛争で一旦停戦が成立したとしても、対ロシア制裁は継続され、世界経済の混乱は収まらない。行き着くところは、世界的規模での経済クラッシュではないだろうか。その時期としては、来年の3月から5月頃ではないかと予想する。あるいは、早ければ今年の12月頃かも知れない。楽観的な見方かも知れないが、恐らく年内は、各国の資源や食糧の備蓄と企業の在庫も含め、何とか必要最小限の資源、食糧、原材料などの流通は維持されると思うのだが。いずれ到来する世界的経済クラッシュのその時、石油や天然ガスなどの資源の大半と、食糧のカロリーベースで6割以上を輸入に依存している日本は、果たして無事乗り切れるであろうか?今でさえ日本は、需要が拡大していないのに物価が上がる、実質的なスタグフレーションの状態である。このままでは、遠からず本物のインフレになり、さらにハイパーインフレが起きる可能性が高い。こうなると、生活の質を下げるどころか、どうしたら生きて行けるか、サバイバルの領域となる。当然のことながら、犯罪や自殺も増加し、ますます世相は暗くなるであろう。

 過去を振り返れば、世界のほとんど全ての国は、戦争や自然災害などによる経済クラッシュを経験して来た歴史がある。だから、賢い国は、自国の食料自給率を下げるような政策は採らない。農林水産省発表のデータによれば、集計年度は前後するが、日本の食料自給率が37パーセントであるのに、アメリカは132パーセント、カナダは実に266パーセントである。ロシアは、穀物自給率という区分であるが、124パーセントとなっている。中国の場合は、不透明な部分があるが、それでも約80パーセントと言われている。不作の場合はもちろんのこと、世界規模での経済クラッシュが起これば、どこも自国優先で食糧を確保するので、日本は現在の価格の数倍の代金を払って輸入するか、あるいは、最悪の場合は、食糧輸入の多くが途絶することになる。農家や家庭菜園を持っている人々は食糧難への耐性も強いだろうが、肥料の確保も困難になるので、自然農法で作物を栽培していない限りは、いずれ行き詰まることになる。

 現在の日本では、戦中戦後の食糧難や、敗戦による社会の混乱を経験して来た世代は、次々と世を去り、彼らの記憶が十分に継承されているとも言い難い。だが、いずれ、今生きている老若男女の世代が、彼らと似た経験をする可能性が高い。そうであれば、私たちは、過去の歴史から学び、今から来るべき時のため備える必要がある。明治時代における優れた思想家の一人であった岡倉天心は、「我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。」と記したが、その通りであろう。困難な時代の中、人としての尊厳を保ちながら生き抜くには、何が必要か。お金が第一との答えは不正解である。何故なら、ハイパーインフレが起きると、お金の価値は急降下して、文字通り「紙切れ」にも等しくなるからである。食糧や生活必需品を備蓄することは、災害対策を含め、もはや常識であり、それぞれの状況に応じて可能な備蓄数量が変わるだけのことである。

 それでは、私たちは、常識的かつ実際的備えの他に、どのような備えをするべきであろうか?本ブログ読者の皆さんの大半は、既にその答えを持っていると思う。全能の神を信じ、このお方に寄り頼むことである。もし、未だ神に対する信仰を持っていないのであれば、是非聖書を読んで、その示す神が信じるに値する存在か、虚心坦懐に黙想してみていただきたい。全能の神とは、唯一の神であり、神々の中の一人ではない。私たちを創られた神が、私たちを、世界的な試練の中でも守ってくださるのだ。本ブログ記事で書いた、世界的経済クラッシュの起きる時期については、私の個人的予想であり、絶対的な確信があるとまでは言わない。しかし、神の守りについては、絶対的な確信を持っている。これまでの人生の中で、超自然的な神の守りを、自覚しただけでも何度も体験したからである。世の終わりが着実に近づいている今、神の守りを受けるのと受けないのでは、行き着くところが、文字通り天と地ほども違って来るであろう。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」(コリント人への第一の手紙 10:13-14. 口語訳)
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騙してナンボに騙されない(記事No.114)

 今週報道されたニュースの中で、あまりにもセコイ話で、第三者が真剣に取り上げるほどの価値はないものの、日本人の劣化と日本社会の様相をよく現しているものがあった。皆さんも報道を目にされたと思うが、グルメサイト「食べログ」が評価を不当に操作したことで損害を受けたとして、焼肉店チェーンが訴えていた裁判で、同サイトの運営会社「カカクコム」が敗訴したというニュースである。詳細は詳しく報道されているので省くが、東京地方裁判所の判決は、評価ルールの変更は、チェーン店には不利益となると認定し、独占禁止法違反に当たると結論付け、評価が下がったことによる営業損失について、カカクコム側に3,840万円の支払いを命じた。判決を受け、双方共に控訴する方針と言う。

 私も、「食べログ」や「ぐるなび」などの飲食店情報サイトはよく見ることがあるが、便利であることには違いない。だが、「PR」などの表示が明確になされている店が、検索結果上位に表示されるのは理解できるとしても、評価基準を店の運営形態によって区別していることには釈然としない。今回の判決を不服として「カカクコム」が控訴することからも、同社の経営陣の本音は、広告料も払わない店をタダで宣伝しているのだから、細かいことでガタガタ言うな、と言うものと推察する。ユーザーに対しても、情報をタダ見しているのだから、ありがたく思えと言ったところか。ま、この種のグルメ情報サイトは、参考までに見るのが良いのであって、そこに掲載されていることを全て鵜呑みにすることは危険(地雷を踏む可能性もある。)である。

 この種の、詐欺とまでは言えないが、狡い手法のビジネスモデルを聞くと、随分前に故人となった叔父の言葉を思い出す。その叔父は、長年会社を経営していたのだが、いろいろな話をしてくれた時よく、「日本人って狡いなぁ。」と嘆息するように言っていた。ちなみに、叔父自身も私も、家系を遡れる限りでは純日本人である。日本人が抱く一般的なイメージでは、狡い性質を有するのは、日本人ではなく一部の外国人であろう。確かに、それも傾向としては間違い無いのかも知れないが、実は日本人にも、そのような性質を有する人々が少なくなかったのである。つまり、本質的には人種や民族の問題ではなく、むしろ個人の人間性の問題である。社会における狡い人の割合については、様々な見方はあるであろうが。

 欧米など、キリスト教文化を基盤に社会が築かれた国々では、聖書の教えが、人を欺くことや強欲な商売手法を戒めていることを人々は知っていた。また、「黄金律」と呼ばれる行動原則もよく知られていた。シェークスピアの戯曲、「ベニスの商人」で、強欲な商人シャイロックの描かれ方は、人々が、利己主義的な商売手法を正しくないと思っていたことの現れでもあるだろう。日本でも、近江商人の「三方よし」の経営哲学はよく知られている。「買い手よし、売り手よし、世間よし」との教えである。自分さえ良ければ式の考え方で商売をする人々は、いつの世にも、どこの国にもいたであろう。その意味では、何も今に始まった話では無い。しかし、いつの頃からか、大企業など名の通った企業の中でも、強欲で倫理観が欠如したような商売手法を採るところも増えて来た。ちなみに、今般敗訴した「カカクコム」も、れっきとした東京証券取引所プライム市場(旧東証1部)上場会社である。

 そもそも、私たちは、政府の奴隷でないのと同様に、企業の金ズルではない。「消費者」という言葉が一般的に使われているが、私たちは、物やサービスを消費するための存在ではない。「消費者」と言う言葉自体、提供者の視点からのものである。主として企業である、提供者らは、「もっと買え、もっと使え、もっと食べろ、もっと捨てろ(そしてまた買え)」との本音を隠しながら、私たち「消費者」に、いかにもっとお金を払わせるか、日々アイデアを捻り出し、せっせと商品やサービスのマーケティングに励んでいるのである。彼らは、あるいは彼らの依り頼むマーケティング専門家らは、「消費者」は理性的な購買行動よりも、むしろ感情や感覚によって動くことを熟知しているのである。これは、経済行動だけでなく、政治行動にも共通した行動原理であり、大衆を手玉に取るのは、彼らにとっては容易いことであるのだろう。

「未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする」(箴言 14:15 新共同訳)


 それでは、私たちが、企業にも、政府にも、その他どのような組織や人々にも、騙されないで生きるためには、どのようにすれば良いのだろう?もちろん、どんなことでも、わずかでも違和感を感じた時には特に、話を鵜呑みにせず、自分の頭で考えることは大事なことである。考える過程で、様々な情報を得ようとするであろうが、知り得た情報を的確に判断するには、知識もある程度必要となる。しかし、必要なことは、それだけではない。騙されないために最も必要なことは、知恵であり、また、見分ける力である。世の中には、様々な知恵の源泉があり、それらを得る方法がある訳だが、本ブログ記事でお薦めするのは、もちろん聖書の教えにある通りのことである。まずは、私たち自身には、知恵が欠けていることを認めることが必要である。そして、全ての良き知恵の源である、神に対して、知恵を与えて下さるよう、願い求めることである。そうすれば、私たちに、誰にも騙されないための、優れた知恵が与えられるであろう。

「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ヤコブの手紙 1:5 新共同訳)
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誰が優先なのか(記事No.113)

 最近、京都の街中や京都駅で、修学旅行の中高生を見かけることが多くなった。顔馴染みになったタクシードライバーの話では、コロナ前は、毎年ゴールデンウイーク明けからの2ヶ月間ほどが、年間で最も修学旅行客が多いシーズンであったとのことである。一般観光客が少ない時期に修学旅行客を呼び込むことで、観光関連業界の需給バランスを調整していたのだと言う。一応は日本有数の国際的な観光都市であるから、国内外からの観光客が押し寄せていたのは当然であろう。だが、観光関連業界以外の京都市民にとっては、迷惑を受けることが多くあったと聞く。渋滞でバスが遅れるのは日常的であったであろうし、満員バスに乗れたはいいが、大型スーツケースを持った外国人乗客に阻まれて、降りたい停留所で乗降口に移動出来ず、そのまま発車してしまったケースも多々あったと言う。その他、ゴミや騒音に悩まされていた人々も多かった。私も、2019年11月に、研修旅行で京都に滞在したが、行くところどこでも、中華系や韓国系の観光客でごった返しており、やや辟易したものである。

 このような、一部に観光公害のような現象が起きるほどに観光客が押し寄せたのは、インバウンド誘致を強力に推進した安倍政権と、それに与した門川市政がもたらしたものである。2015年に約3万室であった京都市内の宿泊施設客室数は、門川市長が掲げた誘致目標4万室をはるかに超え、2020年3月末時点では約5万6,000室となった。ホテルの建設ラッシュのほか、ゲストハウスなどの簡易宿泊施設も雨後の筍のように次々と開設された。ホテル建設計画の中には、世界遺産の仁和寺の山門前や、二条城の北側などに高級ホテルを建設する計画も含まれている。外国人観光客を誘致するために、観光スポット周辺の景観や環境を破壊するという、本末転倒を絵に描いたような事態も起こっているのだ。ホテルなどの民間事業者が進出を計画するのは当然であろうが、環境や景観、あるいは社会インフラなどとの調和を図るために、規制や各種基準を定めるのが行政の役割であろう。市民の平穏な生活環境を維持・向上させることよりも、外国人観光客へのサービスを優先させるかのような門川市長は、自治体の長として明らかに間違った動きをしている。

 京都市の事例を挙げたが、優先順位が間違った実態は、日本中で見られることである。いや、国全体がそのような状態と言っても良いだろう。厚生労働省の人口動態統計によれば、日本における2021年の出生数は、前年比約2万9千人減少の、約81万人であったと言う。これまでの政府の推計では、出生数が81万人台前半まで減るのは2027年であり、6年も早まったことになる。日本では、約30年前より様々な少子化対策が打ち出されて来た。しかし、どれも根本的な解決策となっていないことは、結果が証明している。既に、日本は人口減少社会に突入しているのだが、言うまでもなく、それは多くの問題を引き起こす。市場規模の縮小による経済衰退、社会保険の担い手が減少することで、年金や健康保険の制度の改悪も進む。およそ、現在の人口規模を前提に制度設計されているものは全て、抜本的見直しを迫られるか、それが上手く出来なければ破綻する。

 誰が考えても、このまま手をこまねいていては、悲惨な未来が日本に訪れるだろう。もちろん、巨大災害や戦争などのリスクは別としてである。国民多数が納得するなら、現在のような一応の福祉国家を維持することを諦め、何とか最低限生きて行けるならば、それで良しとする選択肢もあるだろう。しかし、年金や健康保険、介護保険などの制度を維持したいのであれば、人口減少のスピードを、国民の福祉を保てる程度の緩やかなペースにしなければならない。そうであれば、出生数の減少を食い止める、実効性のある政策が必要となる。普通なら、誰が考えても、同様の結論に至るはずである。ところが、世の中には、日本人の子供を増やす(減らさない)のではなく、外国人の移民を増やせば良いと考える人々もいる。そのような考え方の人々は、日本人の労働力が足りない3K職種などでは、労働者の待遇を改善して人材を確保するよりも、外国から技能実習生という名の安価な労働力を導入することの方が良いと考えて、それを実現させて来た。

 長々と書いてしまったが、先進諸国とされる国々の中で、日本だけが、過去30年間で実質的には貧しくなっており、人口減少も加速する一方であることには、明確な理由があったと言うことである。ひとことで言うならば、国全体が、誰を優先するべきかを誤って来たことの結果が、今日の日本の姿である。京都市のように、市民生活よりも外国人観光客を優先するような誤った政策が、国の様々な領域で進められて来た、その結果である。それは例えば、日本人労働者の待遇改善よりも、賃金水準が相対的に低い外国人労働者を導入することである。また、日本人学生の給付型奨学金制度を大規模に拡充することよりも、岸田首相が明言したように、「国の宝」とされているらしい、外国人留学生への返済不要奨学金などの支援策の重視である。もちろん、小泉政権以来推進されて来た、日本人社員の雇用よりも、株主である外国の機関投資家を優先するような政策も、同様に間違っている。正社員を減らし、現在のように、被雇用者の約4割が派遣社員やパートなどの非正規雇用となるに至ったのも、その「成果」である。

 さて、この世の全ての疑問に対して、答えを見出すことが出来る聖書には、優先順位についての指針も含まれている。私たちが、何よりも優先すべきものは、創造主である神である。忙しい日常生活の中で、余力があれば神を求めるのではなく、あるいは、助けが必要な問題が生じたときだけ、神に寄り頼むのでもない。私たちが生きて行く上で、最優先にすべきことが、神を求めることである。聖書は、そうすれば、全ての必要は与えられると約束している。個人レベルだけでなく、集団レベル、国家レベルにおいても、神を第一にすることが、組織や国が守られ繁栄するには必要である。それは、国家としてキリスト教を戴いたり、国教化するという意味ではなく、指導者らが神を畏れ、その教えに従った行動や政策を進めるということである。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書 6:33 口語訳)

 
 それでは、神の次に優先されるべきものは何であろうか。それは、個人レベルでは家族であり、国家レベルでは国民である。もちろん、自治体レベルでは住民である。時々、クリスチャンの中にも勘違いする人々がいるが、神に従うために家族を捨てると言うことではない。ただし、イエスに対する信仰ゆえに、家族の方から距離を置かれる場合は、祈りつつ甘受する選択もあり得るだろう。だが、神に仕えることを理由に、しばしばそれは、教会活動であったりするのだが、クリスチャンの方から、自分の家族を蔑ろにするような態度は間違っている。自分と家族が幸せであれば、他の人々のことは無関心というのも愛が無い態度であるが、他の人々を助けることを、家族を支えることよりも優先することは、もっと間違っている。

「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」(テモテへの第一の手紙 5:8 口語訳)


 優先順位の第3位以降は、それぞれの価値観や置かれている環境、直面している状況によっても異なる。仕事、教会奉仕、友人など、それぞれが重要であり、人生において重みを持っている。常にどれかを優先させる考えもあるだろうが、むしろ、必要なのはバランス感覚であろう。その中でも、多くの人にとって、仕事は優先度が高いと思う。何と言っても、生活の糧を得る手段は重要である。しかし、ブラック企業のように、他の全てが犠牲となり、健康も損なう様では、そこから離れる選択が賢明である。神に信頼して寄り頼むならば、一時的に仕事を失ったとしても、もっと良い仕事が与えられるに違いない。私たちは、優先順位が間違っていることが多々ある社会に住んでいるが、私たち自身もそうならないように気をつける必要がある。人生の安寧は、まずは神を信じ、この方を第一とすることから始まる。日本社会は、今後ますます厳しい状況になるだろうが、神に信頼する人々は守られ、打ち捨てられることは決して無い。

「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」(詩篇 37:25 口語訳)
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