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人間の限界(記事No.99)

 数日前、東京都内西部の大学院で平和構築のための人材育成に従事している、日本人大学教員と会う機会があった。彼曰く、今般のウクライナ紛争は、彼らにとっても、どのように対応することが出来るのか分からない、クリティカルな事態であると言う。彼らの大学院は、欧米やオセアニアにある複数の大学とも連携し、これまでに、平和構築に関わる諸分野で働く人材を育成して来た。そのプログラムを学んだ卒業生の多くは、国連機関、各国政府機関、NGO、大学などに就職し、紛争を予防し、平和を構築するための諸活動に従事している。彼の言うクリティカルな事態とは、これまで世界各地で取り組まれて来た、地に足の着いた地道な活動では防げない、この度のような紛争に対して、無力感を抱いている状況のことと理解した。

 彼の話を聞いた時、私は、口にこそ出さなかったが、人間の力に限界があるのは当然であると思った。私たちが、どんなに平和な世界を願ったとしても、世の中には、平和を嫌悪し、戦争を好む者たちが存在する。しかも、そのような者たちの多くは、権力者や超富裕層のような、社会的に大きな力のある者たちである。彼らにとっては、戦争もゲームの一種に過ぎず、金儲けの手段でもある。どうせ、死んだり傷ついたりするのは、彼らが家畜に等しいと考える、各国の庶民たちである。自分達は、安全な場所から、戦争や紛争から揚がる莫大な利益の計算でもしながら、酒のグラスを傾けて談笑しているのだ。このような連中が現実に存在している以上、平和構築のための活動や平和運動には、最初から限界があることは当然であろう。

 もう1つ、平和構築活動に携わる人々の多くが見逃していることがある。それは、神無しに平和を実現することは不可能であるということだ。どんなに優れた計画であったとしても、いかに熱心に活動に取り組んだとしても、神が働かれなければ、それらは結果的に、人間の限界を示すことともなり得る。確かに、人間は創造主=神から偉大な力を与えられてはいるが、神無しに全てが実現出来るほどに偉大な力は有していない。古今東西の偉人と呼ばれた人々の中には、その真理を理解していた器も少なくなかった。かの有名な、アメリカのケネディ大統領もその1人であった。

 1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問したケネディ大統領は、夫人と共にオープンカーで演説会場に向かう途中、兇弾に倒れ世を去った。暗殺事件の実行犯や計画者らについては、私も公式発表を信じてはいないが、そのことは本記事では深追いしない。誰が暗殺を計画し実行したにせよ、彼らについては、神の裁きが必ず明らかにされるだろう。それはそうと、暗殺現場には、私も過去2回訪れたことがある。オープンカー車中のケネディ氏に銃弾が命中した地点には、道路上にX印がマークされている。その場所から百数十メートル離れた道路脇には、ジョン・F・ケネディ記念広場と名付けられた公園がある。その公園の一角には、暗殺されたその日に語られるはずだった、ケネディ氏の演説の一部が刻まれた石碑がある。その最後は、次の聖句で結ばれている。

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(詩篇 127:1 口語訳)


 平和を願い、その実現のために努力することは尊いことではある。特に、紛争解決などの現場で汗を流すことは、使命感と行動力だけでなく、そのための専門的な訓練を受ける必要もあり、誰もが携われる仕事ではないとは思う。しかし、その努力が神無しに為されるのであれば、それは一時的に実が結ばれたとしても、いつ失われるか分からない、脆い平和ではないのか。天地を統べ治められている神は、平和の主でもある。私たちは、この世界に平和の実現を願うならば、限界のある人間の力のみに頼るのではなく、それ以上に、全能の神に依り頼むことが不可欠であろう。
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ネオナチ勢力に味方する愚(記事No.98)

 3月23日、ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の国会でオンライン演説を行った。岸田首相や衆参両院議長も揃って聞いた演説の中で、ゼレンスキー氏は、「アジアで初めてロシアに対する圧力をかけ始めたのが日本です。引き続き継続をお願いします。」と述べたと言う。報道されている限り、演説を聞いた閣僚や各党幹部らの反応は、ウクライナに対する共感を示すものであったようだ。日本では、大半の欧米諸国と同様、ロシアが一方的な侵略者であり、ウクライナは被害者であって、果敢に侵略に抵抗しているとの認識が一般的である。しかしながら、これまで本ブログでも書いて来たように、今般のロシアによるウクライナ侵攻の原因は、アメリカを中心とするNATO諸国と、ウクライナ国内外のネオナチ勢力により作られたものと言えるだろう。

 かつて親露政権が統治していたウクライナを、アメリカがどのように反露国家へと変質させたのかは、今はまだインターネット上でも、優れた論説や分析を読むことが出来るので、本記事では詳述はしない。一点だけ述べるなら、その過程で、実行部隊として中心的な役割を果たしたのは、反ロシアのネオナチ勢力であり、その軍事部門で最大の組織は、ウクライナ内務省隷下のアゾフ大隊(現在は連隊ともされる。)として知られている。ネオナチ勢力のスポンサーでは、ユダヤ系のイーゴリ・コロモイスキー氏という、オリガルヒと呼ばれる新興財閥の1人がよく知られている。アゾフ大隊のスポンサーである彼は、同時に、同じくユダヤ系のゼレンスキー大統領の支持者でもある。ユダヤ系ウクライナ人(コロモイスキー氏は、ウクライナ、イスラエル、キプロスの三重国籍であると言われる。)である彼がネオナチのスポンサーであるのは、一見不可解なことではある。しかし、かつてナチスの台頭を財政的に支援したのは、ドイツのユダヤ系財閥であり、ロスチャイルド家とも姻戚関係がある、ウォーバーグ家であったとも言われており、今に始まったことではない。ユダヤ系とは言っても、かつてのナチスや現代のネオナチを支援する人々は、天地万物を創造した神を信仰してはいない、ヨハネの黙示録第2章に示されている種類のユダヤ人であろう。

 さて、ウクライナをめぐる情勢は、欧米諸国や日本で広く報道されているような、ロシア軍が苦戦しているという状況ではなく、その逆である蓋然性が高い。ロシア軍の進撃速度が遅いように見られるのは、一般市民の犠牲を最小限に抑えよとの、プーチン氏の厳命があるためであろう。これに対して、ウクライナ側は、ネオナチ部隊などが市民を人間の盾としていると見られる。欧米諸国による対露制裁においても、ダメージが大きいのは、天然ガスや小麦、肥料などをロシアから輸入している西欧諸国の方である。ドイツやイギリスなどは、現時点でもロシアからの天然ガス輸入を続けているが、アメリカの圧力にいつまで抗し切れるかは分からない。欧米諸国の中でも、対露制裁の強度については、足並みが揃っていない現状であるのに、日本は右に倣えで、国際決済システム(SWIFT)からのロシア締め出しに加え、中央銀行やプーチン大統領らの資産凍結に踏み切った。輸出入の規制も同様である。案の定、ロシア側は対抗措置として、平和条約交渉の中断や共同経済開発からの離脱を表明した。こんな時こそ日本政府は、ウラジミール、シンゾーとファーストネームで呼び合える関係の元首相を特使としてロシアに派遣し、ウクライナ侵攻の停止と同じ未来を見ていたはずの平和条約交渉の継続を訴えるべきであろう。もっとも、くだんの元首相は、最近はウクライナ側に乗り換えたようではあるが。

 ロシアが特別軍事作戦と称する、今般のウクライナ侵攻は、間もなく大詰めを迎えると思われる。ゼレンスキー氏の発言も、NATO加盟を諦めるような内容に変化しているが、アメリカやNATO(念のためであるが、正確には、アメリカやNATO加盟諸国に寄生しているグローバリストら)が、どこまで妥協を許すかによって、ロシアの動きも変わって来ると思われる。ロシアの主要な目的は、侵攻当初から一貫しており、ウクライナのNATO加盟阻止と、東部ウクライナなどのロシア系住民を虐殺から救うこと、そのためのネオナチ勢力排除である。これらの目的が達成されれば、彼らはウクライナから引き上げ、占領統治を続けることは無い。そのことが分かっていながら、ウクライナに対して大量の武器・弾薬を支援し、義勇兵と称する傭兵らを送り続けているのが欧米諸国である。このような状況に対して、日本としては、国益を守るためには、お付き合い程度の対露制裁に止めておくべきであった。言わんや、法令の解釈を曲げての防衛装備品の提供など、(性能が低いこととは別に、政策として)愚の骨頂である。紛争当事国の一方に対する軍用装備品の提供は、敵対行為一歩手前の行動である。ロシアとしては、日本に対する想定軍事行動計画をアップデートしたものと思われる。ここで、私が今朝、思いの中に強く浮かんだ聖書の箇所を挙げておきたい。

「獅子がうなり、熊が襲いかかる。神に逆らう者が弱い民を支配する」(箴言 28:15 新共同訳)


 これは、この聖書箇所の一般的な解釈そのものではなく、また、現時点では預言的示しでもなく、私の個人的な超意訳に過ぎない。歴史的に、獅子とは中国のことを指す。19世紀から20世紀初頭にかけて、中国は「眠れる獅子」とも言われることがあった。熊は、伝統的にロシアを表す動物である。1980年の、モスクワ・オリンピックのキャラクターは熊であった。現在、欧米諸国と歩調を合わせて、ロシアに対する敵対行為スレスレの行動に出ている日本の近未来を思い巡らしていた時、この聖句が思い浮かんだ。そして、中国が日本を威圧し、ロシアが限定的であったとしても、軍事的に日本に攻撃を加え、弱小国日本は、衰退途上であるアメリカの助けも得られずに、彼らの勢力下に組み入れられてしまうことを想像した。これが、単に私の空想が飛躍したに過ぎないことを願いたい。世の中には、ロシアとウクライナとの紛争が早期に終結することを願わない人々がいる。ネオナチをもコントロールしている彼らは、米露核戦争と第3次世界大戦を引き起こそうとしている、人間性を喪失した、悪魔崇拝のグローバロストらである。実際的な戦争の背後には、霊的な戦争があるのだから、日本人は霊的に目覚めないと、このままでは悲劇的な未来が待っているだろう。私たちは、この世において直面する問題は様々あっても、心を奮い立たせて、平和のために祈らなければならない。

「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、 言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない』」ルカによる福音書 19:41−42 新共同訳)
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日系人のこと(記事No.97)

 京都新聞2022年3月20日日曜版記事に、「世界の日系社会」と題された記事が掲載されていた。世界には現在、推定約380万人の日系人がいると言う。その大半は、南北アメリカ大陸の国々に住んでいる。最多はブラジルの約190万人で、次いでアメリカが約130万人である。日本国内にも、約25万人の日系人がいるが、大半は出稼ぎ労働者として来日し、その後家族共々定住した人々だと思われる。群馬県太田市、同大泉町や静岡県浜松市など、自動車関連工場が多く立地する街には、工場労働者らとその家族である、日系人の大きなコミュニティーが存在することは知られている。

 日系人の定義とは、日本から国外へ移住し居住国の国籍または永住権を取得した日本人とその子孫のことである。歴史上記録がある範囲では、16世紀まで遡ることが出来る。朱印船貿易で、主として東南アジアの各地に日本人町が形成されたが、そこに定住した人々と彼らの子孫である。フィリピン、タイ、ベトナム、カンボジア、マレーシアなどの貿易港があった地に、数百人から数千人規模の日本人町が存在していた。この他、朝鮮の蔚山(ウルサン)には、倭館と呼ばれる日本人居住地があった。貿易だけでなく、キリスト教との関係で海外に渡航した日本人もおり、マカオなどには相当数の日本人が居留していたようである。キリスト教弾圧が始まると、マニラに追放された高山右近などの人々や、自ら国外に逃れた人々がいた。徳川幕府の鎖国政策により本国との交流が途絶えると、これらの日本人町は次第に衰退し、在留日本人らの子孫は現地に同化して、今日ではその痕跡もほとんど残っていない。

 キリスト教との関連では、この他に、1613年に日本を発った、支倉常長ら慶長遣欧使節(彼らの多くは出発時に既にキリシタンであったか、滞在国で受洗した。)の中で、道中のメキシコやスペインに自らの意思で残留した人々もいて、現在に至るまで、その子孫が存在している。特に、出身地を苗字に付けることが多いと言われているスペインでは、「ハポン(スペイン語で日本の意味)」姓の人々がおり、現在では少なくとも600名ほどが日本人の子孫とされる。彼らは、もはや日本人の風貌は持っておらず、文化や習慣も現地のそれを有しているが、 日本人の子孫としての自覚と誇りを持っているとも聞く。

 時代が下り明治になると、日本は国策的に海外移民を送り出すようになった。端的に言えば、国内の口減らしが目的であり、初期に渡航した人々は出稼ぎ感覚の人々も多かった。移民先は、ハワイや南北アメリカ諸国が多かったが、中国大陸や東南アジア方面に渡航した人々も少なくなかった。1885(明治18)年から1924(大正13)年までの約40年間に、ハワイに約20万人、アメリカ合衆国本土に約18万人が移民している。現在日系人人口が最大のブラジルには、1908(明治41)年から1941(昭和16年)までの約34年間に、約19万人が移民し、第2次世界大戦後も、1952(昭和27)年から1993(平成5)年までに、約5万4千人が移民している。アルゼンチン、パラグアイ、ペルーなど、南米諸国には多数の日本人移民が渡っている。

 海外移民の中には、南樺太、満州、朝鮮半島、台湾、南洋諸島など、日清戦争から第1次世界大戦に至るまでの期間に、割譲、併合、植民化、委任統治などにより、日本の勢力圏に置かれた国々・地域への移民も多かった。満州だけで、少なくとも27万人程度が満蒙開拓団などに参加して移民している。ソ連軍侵攻後の彼らの悲劇や、残留孤児の苦難は、涙無しに聞くことは出来ないであろう。敗戦時には、朝鮮半島に移住していた約90万人の人々や、同じく台湾の約40万人(内約20万人は台湾生まれ)の日本人移民は、少数の人々を除き、全員日本へ帰還させられている。中世以来、日本人移民とその子孫である日系人らは、日本と移住国との関係や、それぞれの国策に翻弄もされて来た。それでも、多くの日系人は、残留の自由がある場合には、現地での生活を継続することを選択したであろう。彼らの子孫が、現在の日系人の大多数である。

 さて、私自身は、これまで主にアメリカと日本国内で、何人かの日系人と個人的に知り合う機会があった。その中で、最も日常的に関わった1人が、前職で在日米軍基地に勤務していた時に、私の直属上司として2年間仕えた、ナカモト氏という、広島県出身の親を持つ日系2世であった。当時私は30代になったばかりの頃であり、ナカモト氏は70歳くらいであった。その頃までの米軍には、戦争に従軍した元軍人の軍属(文民職員)は、一定条件のもと定年の適用除外となる特例があった。第2次世界大戦中に日系人部隊に志願し、イタリア戦線などに従軍したナカモト氏も、定年対象外の1人であった。謹厳実直だが、時には人情味も見せるナカモト氏であったが、その後私は異動となり、それから間も無く同氏は退職した。ナカモト氏が退職してから2、3年経った頃であったが、同氏が病気で相模原市の病院に入院したことを聞き、私は退勤後に見舞いに訪れたが、あいにく面会謝絶で会うことは出来なかった。それから日をおかず、同氏が亡くなったとの知らせを受けたのである。

 大和市内の教会で執り行われたナカモト氏の葬儀に、私のかつての同僚や同氏の元上司らと共に参列した。生前の同氏は、特に信仰深いとは聞いておらず、お互い聖書の話などもしたことが無かったので、米軍基地内のチャペルではなく、日本の教会で葬儀が行われたことが少し意外であった。その疑問は、すぐに故人の紹介の中で解けた。ナカモト氏は、病の中でキリストを救い主として受け入れ、お嬢さんの通う教会の牧師より、病床洗礼を受けていたのである。実は私は、ナカモト氏の元で働いていた時に、福音を伝えることが出来なかったことを、ずっと後悔していたので、同氏がイエスを信じて天国へと帰ったことに、深い慰めを感じた。式が終わり、参列者が遺族の方々に挨拶する機会があったのだが、ナカモト氏のお嬢さんの前に立ち、かつて上司部下として同じ職場で働いていた時に福音を伝えなかったことを、ずっと後悔していたと話し出した瞬間、私は不覚にも涙が溢れ、その後の言葉を継ぐことが出来なかった。クリスチャンであったお嬢さんには、少なくとも、私のナカモト氏に対する真実の想いが伝わったのではないかと思う。

 このように、私は、日系人と聞くと、ナカモト氏のことを思い出す。ハワイを含めてアメリカの場合には、日系人には今でも仏教徒の人々もいるが、私の知る限り、クリスチャンとなった人々が多い。現在の韓国系移民がそうであるように、日系人が多い町には必ずと言っていいほど、古くは移民事業最盛期に設立された、いくつかの日系教会がある。そこでは通常、英語礼拝と日本語礼拝の両方が持たれている。特に、母語が日本語である移民1世の場合は、日本語で説教を聞き、聖書を学び、賛美を捧げることを願う人々が大半である。彼らの中には、戦争により困難な道を歩んで来た人々もいるが、すでに多くは天に帰っている。彼らは、移住したアメリカで、差別や偏見に苦しみながらも、日本人としての誇りを失わず、社会の中で活躍の場を築いて来た立派な人々である。しかし、彼らを送り出した祖国日本は、残念なことに、彼らと正しく関わることが出来なかった。本当は、これについても書きたいと思うが、話題が少し分散してしまうので、今回はこの辺りで終えたい。全世界の日系人たちに、主なる神の恵みがありますように。

「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』」(創世記 12:1−2 口語訳)
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イエスの御名の権威(記事No.96)

 読者の皆さんは、金縛りに遭ったことはあるだろうか?私は、子供の頃から今まで、2、3回くらいしか経験が無い。妻は、子供の頃から霊的に敏感で、しばしば金縛りにも遭ったそうである。そして、数日前の朝のことである、中2の次男が起きて来ると、夜中に突然金縛りに遭ったと言う。その時、「イエス・キリストの御名によって命ずる…」と、悪霊を退ける祈りをしようとしたが、声が出なかったと言う。咄嗟に、これなら声が出せると思い、「イエス様…」と必死に呼び求めたところ、瞬時に金縛りが解けたそうだ。

 ネット検索すると、金縛りの原因は、不規則な睡眠や過労、あるいは精神的ストレスなどとある。それらが原因の場合も多いとは思うが、一方で、霊的要因により起こる場合もある。俗に霊障と呼ばれることもある、霊的現象の1つである。2つの違いを見分けることは、そんなに難し事ではない。単に、睡眠中に体が急に引きつけを起こして動けなくなっただけなら、身体的・精神的要因により起こった可能性が高いだろう。しかし、何者かの声が聞こえてきたり、誰かが近くにいる感覚が伴うものであった場合、霊的要因により起こった可能性が高い。先ほど書いた次男のケースも、笑い声と溜息が聞こえて来たと言うことから、霊的要因のカテゴリーに属するものであり、悪霊による攻撃であったと思われる。次男が金縛りに遭った時、「イエス様」と呼び求めたが、その名を聞いた途端、悪霊は攻撃を続けることが出来ず、慌てて逃げ去ったと言う訳である。イエスの御名には、悪霊を退ける力と権威があることが、今回の出来事でも証明された結果である。悪魔や悪霊どもが、どれほどイエスの御名を恐れているのか。私たちが想像している以上であるのは確かであろう。

「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカによる福音書 10:17−20 新共同訳)

 私たちにとって、イエスが神であり、主であるのなら、私たちには、イエスの御名を用いる資格がある。だが、私たちは、時には、自分にはその資格が無いと思ってしまう。信仰と確信を持って祈ることが、常に出来るとは限らない。自分の弱さや罪深さ、欠点や愚かさに目を留めるなら、自分には、イエスの御名を用いて、悪霊どもに命じる権威があるとは思えなくなってしまう。しかし、それこそ敵の惑わしである。真実は、イエスが語られたとおり、私たちには、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられている。私たちは、その権威を用いるべきである。そうすれば、私たちは、神の業を見るであろう。
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オリンピック、中国、戦争(記事No.95)

 中国・北京オリンピックに続き、パラリンピックが開催されている。ロシアによるウクライナ侵攻で、同国の選手が参加を拒否されるなど、オリンピックと国際政治が不可分であることが、改めて示されたと言えよう。国内で激しい人権侵害を続けている中国には、平和の祭典とも称されるオリンピックを開催する資格など無いと考えるが、ロシアを批判する諸国のダブルスタンダードによれば、特段の問題は無いようである。キエフと姉妹都市関係にある京都市では、二条城をウクライナ国旗色にライトアップするなど、平和と連帯のメッセージを発信しているが、これはこれで目くじらを立てることでは無いだろう。

 さて、オリンピック、中国、戦争と言うキーワードから、ある人物のことを連想した。その人は、ウクライナにもロシアにも直接関係は無かったと思うが、中国とは深く関わりがあった。1924年のパリ・オリンピック陸上男子400メートルで金メダルに輝いた、エリック・リデルその人である。リデル氏は、イギリス・スコットランド出身のキリスト教宣教師夫妻の息子として、1902年に清朝時代の中国・天津市で生まれた。学齢期になり、彼は母国の学校に入学するため、スコットランドに渡り、1920年にエジンバラ大学に入学した。大学時代に、ラグビー選手や陸上選手としての才能が開花したリデル氏は、パリ・オリンピックの陸上短距離のイギリス代表に選出される。しかし、100メートルの競技は日曜日に行われることが分かり、聖日を重んじる彼は出場を拒否する。その代わりに、400メートルに出場することになったリデル氏は、人々の予想に反し世界新記録で金メダルを獲得した。その記録は、その後20年間破られることは無かったと聞く。

 パリ・オリンピックのエピソードを中心に、青年時代のリデル氏を描いた映画、「炎のランナー(原題:Chariots of Fire)」(ヒュー・ハドソン監督)が1981年にイギリスで公開されている。日本でも翌1982年に公開され、当時のイギリスにおける時代背景がよく描かれているとの評価を受けた。私は、その数年後にビデオで観たのだが、リデル氏の生き様に感動し、DVDが出た際には、改めて買い求めた。映画の中では、クライマックスはオリンピックでのリデル氏の活躍であり、丁寧に描かれているのは、優れたアスリートとしての彼の姿であり、また、ライバルを含めた周囲の人々の心情や生き方である。しかし、リデル氏の活躍は、オリンピックがピークではなかった。映画では、詳しくは語られていなかったが、彼は1925年に大学を卒業した後、両親と同じく宣教師として中国に渡る。1934年には、同じ宣教師のカナダ人と結婚し、後に、彼女との間に3人の娘をもうけている。この間、1931年には満州事変が勃発し、1937年には日中戦争が始まるなど、中国大陸に戦火が拡大していった時代である。

 1941年になると、中国は西洋人にとっても危険な場所となり、イギリス政府は、在留国民に対して、国外退避するようにとの勧告を出す。リデル氏は、妊娠中の妻と2人の娘を妻の母国であるカナダに帰し、自分は宣教師としての働きを全うするために中国に残った。同年の12月8日、イギリスと日本との間に戦争が勃発し、中国に在留していたイギリス人は抑留されることになった。その後の抑留生活については、日本軍収容所に入れられていた、スティーブン・メティカフ氏の著書が日本語にも訳されており(邦題:闇に輝くともしびを継いで)、その中に詳しく記されている。同氏は、別のイギリス人宣教師の息子として中国に生まれ育ち、当時14歳で収容所に抑留された人物である。メティカフ氏は、移送された山東省濰坊(ウェイファン)市にあった日本軍収容所で、リデル氏と巡り合うことになった。前述の同氏の本には、収容所におけるリデル氏の人となりや、彼から受けた聖書の教えのことも記されている。

 リデル氏は、収容所の中でも被収容者たちに聖書を教えていたが、ある日、「山上の垂訓」として知られるキリストの教えの中の、「あなたの敵を愛せよ」という一節をめぐって議論が起こったそうである。当時のメティカフ氏らにとって、敵とは日本兵のことであり、彼らが中国人に対して行った残虐な仕打ちや処刑も見て来たことから、この聖書の教えは、理想を語っているに過ぎないと受け止めることしか出来なかった。しかし、リデル氏は、聖書の続きに、「迫害する者のために祈れ」とあると教え、彼自身も毎朝日本と日本人のために祈っていると語った。メティカフ氏も一大決心をして、リデル氏に倣い、日本のために祈り始めたところ、やがて、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分で分からないのです。」と祈れるようになったそうである。憎むべきは、日本兵ではなく、戦争であり、神は日本兵のことも愛し、彼らが神に立ち返ることを願っておられることを悟ったのである。

 イギリスと日本との戦争は4年目に入り、日本の敗色は次第に濃くなっていたが、外国人収容所に抑留されている人々の厳しい生活は続いていた。壮健であったリデル氏も次第に体力が衰え、脳腫瘍の兆候が現れ始めていた。1945年2月21日、かつてオリンピックのイギリス代表選手として金メダルの栄誉に輝き、その後の20年間中国派遣宣教師として神と中国の人々とに仕えたエリック・リデル氏は、中国山東省の日本軍収容所において43年間の地上の生涯を終え、天の故郷に帰った。今は、神から永遠の栄冠を受け、天の御国で安らいでいる。映画「炎のランナー」では、ラストの、かつてのライバル選手でもあった、イギリス陸上競技界の長老の葬儀シーンで、「エリック・リデルは、第2次世界大戦末期、日本占領下の中国で死去、全スコットランドが喪に伏す」と短くテロップが出ただけであった。2000年代に入って、リデル氏の収容所生活を描いた中国映画も作られたが、こちらの方は、中共のプロパガンダ映画であり、キリスト教信仰については一切描かれておらず、彼の元アスリートとしての中国人との交流がテーマであると聞く。

 前述のメティカフ氏の書には、リデル氏の棺を墓地まで担いだ1人であったが、その時、次のような思いを抱いたと記されている。「これが中国にいのちを捧げた男の迎える結末なのか。(中略)ゴールドメダリストであり、聖人のような人物だったのに。でもいつかきっと、神様がエリックに栄誉を与えてくださるに違いない。(中略)神様、もし僕が生きてこの収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます」(「闇に輝くともしびを継いで」P.55)リデル氏の最後の数年の証人ともなったメティカフ氏は、収容所の中で戦争を生き延び、その後1952年、宣教師として来日、以後38年間、青森、北海道、千葉で教会開拓などの活動に従事し、その後イギリスに帰国、ロンドン日本人教会の働きに携わった。2014年6月7日、メティカフ氏は、86年の生涯を終え天に召された。召天のその時まで、イギリスと日本の和解のための働きを続けていたと言う。彼も、リデル氏と同様に、神からの栄冠を受け、永遠の報償を与えられている。2人の命のランナーが掲げたともしびは、今もなお多くの人々に受け継がれて、暗闇の中で輝き続けている。

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」(テモテへの第二の手紙 4:7−8 口語訳)
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正教会と日本人(記事No.94)

 このところ連日、テレビ、新聞、インターネットなど、様々なメディアで、「侵略国ロシアの悪行」が激しく非難されている。国会でも、れいわ新選組を除く全会派一致で、ロシアに対する非難決議が両院で採択された。国を挙げてのロシア糾弾の様相であるが、子供の頃からアマノジャクと言われていた私としては、あえて、ロシアと日本との関わりについて1つ書いてみたい。両国の宗教的、文化的関係、霊性の交流についてである。日本とロシアとの関係を語る上で、正教会のことに触れない訳にはいかない。私自身は、プロテスタントにおける、広義の聖霊派の信仰を有しているが、他のキリスト教諸派との教理上の違いは、同じイエスを主として信仰する限りは、互いの個性として受け入れ合うべきと考えている。

 さて、数少ないロシアの日本語ニュース・サイトである、スプートニック日本語電子版2022年3月1日付記事に、ロシア在住の日本人イコン画家のことが紹介されていた。京都出身の正教徒である、渡邊紅月(わたなべ こうづき)氏である。渡邊氏の祖父母は正教徒であり、生前京都の教会に通っていたと言う。その教会、京都ハリストス正教会は、京都御所(御苑)の南端から徒歩5分くらいの所にあり、その丸屋根の聖堂は、1903(明治36)年に建築された、現存する日本最古の木造正教会聖堂である。つい最近の2月9日に、国の重要文化財に指定された。私も聖堂の外観は見たことがあるが、ロシア式の建築様式ながら、京都の街並みに溶け込んでいて、美しい建物である。教会の本質は建物ではないが、このような文化的価値が高い聖堂は、よく保存されるべきであろう。

 イコン画家渡邊氏の話に戻るが、彼女が正教の信仰を持ったのは、祖父母が亡くなった後のことだったと言う。彼らの遺品を整理していたところ、たくさんの美しい十字架やイコンが出てきたことをきっかけに、教会の日曜学校の教師を務めていた祖父の、かつての教え子だった正教会信徒たちと交流を持つようになり、いつも穏やかに祈りを捧げていた祖母の記憶とも相まって、正教会信徒となる決心をし、京都教会で洗礼を受けたのだと言う。当時、美術教師であった渡邉氏は、日本にイコン制作の学校を作りたいとの、正教会東京教会に派遣されていたロシア人宣教師のビジョンに共鳴し、教師候補者として2017年にロシアに渡り、モスクワ神学アカデミー付属イコン学校に入学して4年間学んだ。イコンとは、正教会で信者の宗教心を涵養するために用いられている、聖画のことである。日本人のイコン画家と言えば、山下りん氏が知られているが、その後約1世紀もの間後継者が不在で、現代の日本にはアップデートされた技術が伝えられていないとのこと。渡邉氏によると、イコンの重要なポイントは、祈りの邪魔にならないと言うことだそうだ。もちろん、イコンは礼拝の対象では無く、正教会では伝統的に、偶像崇拝の誤解を生じさせないよう、聖像などは作らないようである。

 現在渡邉氏は、モスクワでイコン画家として活躍しながら、教会の「鐘つき」の働きもしているそうである。鐘つきには特別な技術が必要であり、彼女はロシア留学後、専門の修道士のもとで修行したと言う。渡邉氏は、「皆さんが手を振ってくれ、お祈りのお迎えやお見送りが出来るのが嬉しい。本当に良い仕事をさせてもらっている。」と語る。当初の留学目的であった、日本に設立されるイコン学校の教師となるとの目標は、計画が頓挫してしまったことで白紙となったが、「それもお導き」と運命を受け入れているているそうである。「日本では若い正教徒がほとんどいないので、帰っても教える対象となる人がいません。」と語る彼女は、これからの道を神の導きに委ねていると言う。「でも、私は、福音書の通り生きられることが本当に嬉しい。」と、神と共に生きる日々は充実しているようである。渡邉氏は現在、ロシアに戻った宣教師のリクエストに応じ、ロシア南部のコーカサス地方にある北オセチア共和国で、イコン学校を開設する準備を始めた。今月には、モスクワで、これまでの代表作を発表する個展を開催する予定である。

 日本における正教会は、正式には、日本ハリストス正教会と称し、現在全国に約60の教会と1万人ほどの信徒がいるとのこと。人口比では、約1万人に1人であるから、社会の中では少数派の中の少数派である。私もこれまで、日本人正教徒とは知り合ったことがない。本記事で紹介した渡邉氏のような、専門教育を受けたイコン画家となると、1世紀に1人か2人くらいの極めて希少な存在である。その起源は、1868(明治元)年に、函館(当時は箱館)で3人の日本人が信徒になったことに始まる。当時の日本は、まだキリスト教禁教下にあったが、ロシア領事館付属礼拝堂のニコライ司祭の元を3人が訪れ、教えを受けるようになり、受洗に至った。3人のうちの1人は、当初邪教の教えを広める司祭を斬ろうとしていたが、ニコライ師から教えを聞き、逆にキリストを信じるようになった。その沢辺氏は、後に日本人初の正教会司祭となった。最初に受洗した3人のうち2人が司祭となったが、もう1人は後に棄教したとのこと。キリスト教を知識として受け入れたのかも知れないが、霊の内にイエスを迎えてはいなかったと言うことだ。

 明治初期から中期にかけては、日本における正教会の伝道は、活発に展開されており、各地に次々と教会が設立された。ところが、1891(明治24)年に発生した大津事件(日本訪問中のロシア皇太子が、警護の警察官に切り付けられ負傷した事件)の頃から、対露国民感情の悪化に伴い、正教会は各地で迫害を受けるようになる。日露戦争が勃発すると、主教となっていたニコライ宣教師は日本に留まることを選択し、ロシアのスパイ扱いの迫害下において、日本人信徒と共にある牧会者としての務めを忠実に果たす。日露戦争中、正教会の教役者(司祭など)と信徒らは、人々の反感にも関わらず、ロシア人捕虜のケアを行うなど、神の愛を実践する活動に従事した。こうした活動が実を結び、1911(明治44)年には、日本正教会は全国に265教会、約32,000名の信徒を擁し、カトリック教会に次ぐ規模にまで成長した。しかし、1917(大正6)年に起きたロシア革命の影響により、日本正教会は、またしても日本社会で白眼視されるようになる。ロシアでは、正教会を憎悪する革命勢力により、京都主教を務めたこともある、元日本派遣宣教師アンドロニク氏が銃殺されるなど、正教会にとっては苦難の時代が続く。第2次世界大戦中には、正教会の宣教師はソ連のスパイと見られ、セルギイ主教は1945年5月に特別高等警察(特高)に逮捕され、1ヶ月以上の拘禁の後釈放されたものの、拷問で衰弱した同師は、終戦間際の8月に死去している。

 このように、日本における正教会の歴史は、日本とロシアとの関係が多分に影を落として来た。プロテスタントやカトリックの場合は、明治以降は、ここまで特定の国との関係が、教会のあり方に決定的な影響を及ぼして来たことは少なかったと思う。現在、日本正教会の最高指導者である首座主教は、日本人の府主教である、主代(ぬしろ)氏がその地位にある。ソ連崩壊後には、ロシア正教会との関係も正常化され、前述の渡邉氏のように、ロシアで活躍する信徒もいる。その教勢が100年前よりも小さいことは残念ではあるが、近代以降の日本において、正教の文化や霊性も、少なからず日本人に影響を与えてきたと思う。特に、音楽やバレエなどの芸術や、ロシア文学においては、正教的な霊性が根底にあるものが多く、日本人がそれを意識していないだけで、それらによりプラスの影響を受けて来たのだと思う。私自身は、小学校5年生か6年生の時に級友に勧められて読んだ、ソルジェニーツィン氏の大作「収容所群島」により、ロシア文学に触れ、正教会の存在を知り、ロシアに興味を抱くようになった。

 今般のロシアによるウクライナ侵攻により、かつてのように正教会が白眼視されることは無いであろうが、ロシア人に対して、否定的な感情を抱く人々が増えないことを願う。日本とロシアとの関係は、領土問題もあり多難ではあるが、人と人との関係は政治とは別であろう。日本において、今後正教の信仰を持つ日本人が少しでも増えるなら、それは日本社会にとって、文化の厚みをもたらす点においても良いことに違いない。

「父なる神と主イエス・キリストから、平和と、信仰を伴う愛とが、きょうだいたちにありますように。 恵みが、私たちの主イエス・キリストを変わることなく愛する、すべての人と共にありますように」(エフェソの信徒への手紙 6:23−24 聖書協会共同訳)
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