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貧乏人は虫を食え(記事No.142)

 2023年1月7日付京都新聞夕刊に、「昆虫食レストラン人気」という見出しの記事が掲載されていた。取材対象は京都府内ではなく、東京都内のレストランである。ここから先は、食事前の方は、食後しばらく経ってから読み進めることをお勧めする。記事に紹介されていた昆虫料理は、スズメバチの幼虫スープ、タガメのクレープ、コオロギラーメン、ハムシの幼虫のデザート等々である。記事にある食後感は、いずれも肯定的なニュアンスであったが、取材した記者も仕事とは言えご苦労なことである。ちなみに、紹介されていた昆虫食のコースは、締めて1万1千円の料金と言う。そんなに出すのなら、ステーキやしゃぶしゃぶのコースを食べたいというのが率直なところだが、それらはSDGsに反する食事メニューなのか?最近は、昆虫食を取り上げる報道も増えているようであり、実際、給食メニューに試験的に導入する学校もあるなど、日本においても、普及を進めようとする動きが見られる。

 記事の中では、さらっと書いていたが、「国連は世界の人口が80億人に達しており、2080年代に約104億人まで増えると推計している。肉や魚で供給できるタンパク質が足りなくなる『タンパク質危機』に陥る恐れがある。」と読者を脅すことも忘れてはいない。国連食料農業機構(FAO)や世界経済フォーラム(WEF)などは、2010年代半ばより、家畜や魚類などに比べて環境に負荷を与えることが少ないという理由により、それらに代わる動物性タンパク質の供給源として昆虫食を推奨している。国連の推進するSDGs自体が、巨大な欺瞞であり、本質は原子力発電の拡大などによる利権の寡占と、世界支配のための仕組み作りであろう。日本の一部地方を含めて、世界各地に昆虫食の食文化があることは事実であるが、いずれも、どちらかと言えば、自然環境が耕作には厳しい条件であるなど、貧困に苦しんできた地域に見られるものである。その他に、薬用としての昆虫食文化がある国々もある。だが、今さらこれを世界的に推し進めようとするのは、裏を返せば、一握りの支配者階層を除く、世界の民衆の大半を、貧困層に追いやろうとする計画であると思う。

 昆虫食自体には、特段の明瞭な宗教的意味は無いと思われる。聖書でも、昆虫食に関する記述が何箇所かある。例えば、新約聖書には、バプテスマのヨハネと呼ばれた預言者が、イナゴを常食としていたとの記述がある。また、旧約聖書にある食物規定には、食べても良い種類と、食べてはいけない種類の昆虫が区分されている。ちなみに、当該箇所では、昆虫の足の数は4本とされており、その他に跳ね足を含めて、合計6本という考え方であるようだ。

「羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである」(レビ記 11:20-23. 新改訳)


 聖書でも、食べられる昆虫があると教えている訳であるので、本来は、それぞれの好みや、食文化に属することであり、昆虫を食べるも食べないも、選択の自由である。私自身は、昆虫食には興味は無く、昆虫は食べない。しかし、自分たちを世界の支配者として選ばれた者たち(誰に?もちろん、神にではない。)と見なす集団にとっては、大衆の自由な選択など認めたくはないのだ。彼らは、世界を一握りの支配層と、その他の被支配層=大衆≒貧困層とに区分し、それを固定化しようとしている。食物に関して言えば、支配層は肉類や有機野菜を食べ、被支配層は代用肉や遺伝子組み換え食品、それに昆虫を食べることが、彼らの目指している世界である。FAOやWEFが、昆虫食を推進していることから、これが陰謀論などではなく、進行中の現実であることが分かる。なぜなら、それらの組織は、いずれも、彼らが目的を持って作ったものだからだ。

 昆虫食が地球温暖化対策になり、また、食糧不足を解消し、世界を救うと言うのは、欺瞞もいいところであり、悪質なデマである。牛などの家畜のゲップが、温室効果ガスであるメタンガスを発生させるので、地球環境に悪影響を与えると言われているが、百歩譲って事実が含まれているとしても、家畜のゲップや糞尿をバイオマス発電に利用する技術は既に実用化されている。世界の国々は、何も無理に昆虫食を導入しなくとも、今ある技術や、それらの改良で、十分に自然環境に配慮した循環型農業に転換して行くことが可能である。しかし、それでは、人々の食生活がより豊かで安全なものになってしまうことから、世界の支配者を自認する、悪霊に取り憑かれた者たちが、そうはさせじと、人々に誤った認識を持たせようとしているのだ。私たちは、食べ物のことについても、正邪や善悪、良いものと悪いものを見分ける必要がある時代に生きている。

「それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません」(テモテへの手紙第一 4:2-4 新改訳)
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「亡命者」としての人生(記事No.141)

 先週、高橋たか子と言う作家の「亡命者」(講談社文芸文庫)を、移動中の飛行機などで2日間かけて読み切った。底本は、1995年12月に刊行された同名の小説である。不勉強で同氏の小説は読んだことが無かったのだが、今月京都新聞で関連記事が掲載され、彼女がカトリックの洗礼を受けたクリスチャンであったと知り、早速代表作の1つである同書を買い求めて読んだのである。京都新聞は、少しでも京都にゆかりがある著名人などは、大きく取り上げるが、高橋氏は1932年京都生まれであり、結婚後の1965年に神奈川県鎌倉市に転居するまで、大部分を京都で過ごしていたと言う。

 京都大学でフランス文学を専攻した高橋氏は、結婚後はフランス語記事の翻訳などの仕事をしながら、小説を書き続けた。しかし、39歳の時、1歳年上の夫が病没し、以後、魂の安息を求めてか、内面的な世界についての考察を深めて行く。その後、43歳の時、東京・目黒に在ったカトリック修道院において、交流のあった作家・遠藤周作が臨席する中、洗礼を受け、正式にカトリック信徒となった。その少し前から、彼女は、宗教とは何か、神とは誰かを求めて、主としてフランスの、ヨーロッパ諸国を幾度となく訪れていた。クリスチャンとなった後も度々フランスを訪問し、修道院に数ヶ月間滞在するなど、魂と信仰の深みを追い求め続けた。「亡命者」は、高橋氏の魂の旅路を描きつつ、小説としても際立っている秀作である。

 「亡命者」は、「亡命者」、「小説『亡命者』」、「手記『亡命者』」の三層構造から成っている。主人公は、最初は高橋本人であろう「私」であり、次に巡礼途中に出会ったあるフランス人夫婦、そして最後はその夫の方の手記という形をとる。優れた小説の常として、読みながら、あたかも自分もその情景を見たかのように思わされ、ぐいぐいと引き込まれて行った。ここから先は、ネタバレが含まれているので、これから「亡命者」を読んでみようと言う方は注意していただきたい。

 この作品中で、私が最も印象に残ったのは、「私」と、同じ古いアパートの別室に住むフランス人老婦人との会話であった。「私」が、修道院生活を送っている修道士たちのことを話題に取り上げて、こう言う。「あの人たち、亡命者ですね」「こちらから、あちらへと、亡命したのですね」それに対して、老婦人は返す。「マドモワゼル、それは逆ですよ」「何が、逆なのです?」「わたしたち全て、人間すべて、あちらからこちらへ亡命してきているのです」何と!私たちは全て、亡命者であると言う!亡命者とは、戦争や迫害などの理由により、心ならずも祖国を離れ、異国で生活している人々のことではないのか?霊的に捉えれば、神を信じることで初めて、人は神の国の国民になるのであって、それまでは、この地上に属しているのではなかったのか?

 「私」は、「生まれて以来、何処にいても、居場所でないと感じつづけた、わけが、わかった。」と気づく。老婦人は、次のように言葉を締めくくる。「あちらへ亡命するのではなく、この亡命地からあちらへ帰っていくのです。かつて、そこに居たのですから」そうか、そのような捉え方があったのか!最初の人アダムが罪を犯し、エデンの園から追放された時、彼は、この地上への亡命者となった。その時以来、彼の子孫らもまた、亡命者として生まれたのだ。亡命者にとって、今居る国は、彼らの祖国ではない。祖国は別の所にあって、本来はそこに居るべきであったのだ。だから、亡命者は祖国へ帰還出来る日を待ち焦がれる。聖書では、神に対する信仰を持つ人々を、この地上では旅人であり寄留者であると語る。その全く同じ本質的な意味において、私たちはまた、亡命者でもあるのだ。私たちの地上の人生は、亡命者としてのそれなのである。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」(ヘブル人への手紙 11:13-14 口語訳)
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私たちの言葉に在る力(記事No.140)

 昨日は、東京都内の教会で、日曜礼拝のメッセージを語らせていただいた。その教会の牧師とは、かれこれ20年以上のお付き合いになる。もちろん、お互い家族ぐるみの友人関係である。以前から留学生らも集う教会であったが、今回は、ユース・ウィズ・ア・ミッション(YWAM)という国際的青年宣教団体のチーム7人が米国カルフォルニア州から来ており、彼らも含めて出席者の半分近くが外国人であった。日本語でメッセージを準備していたので、牧師が通訳をしてくださった。メッセージのテーマは、「言葉の力」としたが、メインの聖句は旧約聖書の箴言から取り上げた。

「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(箴言 18:20-21 新改訳)


 聖書の教えを信じるクリスチャンであれば、「神の言葉」に力があることは、少なくとも、知識としては知っている。創世記第1章には、神が、「光あれ」と言葉を発せられた時に、その通りになり、天地創造が始まったことが記されている。神は、その言葉で無から万物を創造されたのである。悪魔の巧妙にして壮大な創作である「進化論」は、創造主の実在を否定すると同時に、神の言葉の絶大にして無限の力を否定しており、人類にとっての破壊的な危険思想であることは明白である。

 さて、創世記にはまた、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(1:27a. 新改訳)とある。もちろんそれは、姿形といった外観のみを指すのではなく、霊を有する人格的存在という形のことである。人が神の性質に似せて造られているということは、神性の一部を分与されていると言うことでもある。神の言葉に在る力も、その神性の一部である。即ち、私たちの言葉にもまた、神よりも劣ってはいるものの、創造的な力が与えられている。創世記第2章19節には、「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」とある。最初の人であったアダムが被造物に名を付けた時、それぞれの性質が決まったとも言える。それくらいの力と権威とが、人の言葉に与えられたのだ。

 約6、000年前(正確な年については諸説あるので、ここでは踏み込まない。)にアダムが創造されて以来、神と人の言葉に対する悪魔の攻撃が続いて来た。聖書の改竄の試みや、解釈を変質させることがそうであり、また、人の言葉を堕落させることも、その攻撃手法の1つである。俗語の類は、古代からどこの社会にもあったと思うが、今日ほど広範囲に使われているのは歴史上無かったのではないか。例えば、英語ではカスワード(curse word)と呼ばれる粗野な俗語が数々あるが、直接的な意味は「呪いの言葉」であり、神の名前さえも罵り言葉として使われている始末である。そのような言葉を使う時、人々は意識せずとも、神を呪っているのである。

 私たちは、神や他の人々を呪うだけでなく、自分自身をも呪ってしまうことがある。何か大きな失敗をした時、何もかもうまく行かないような時、自責の念を抱くだけでなく、自分はダメな人間だと呪ってしまうことがある。あるいは、子供の頃から、親や教師など大人から、お前はダメな奴だと言われ続けて育つと、他者からの呪いの言葉に加えて、自分自身も同様に自らを呪い続けてしまう。呪いは祝福の対極であり、呪いの言葉は祝福を遠ざけてしまう。私たちは、自分自身に失望することがあるが、その時は、神の前に自分の思いを吐き出すべきであり、自分自身に呪いの言葉を投げつけてはならない。私たちの言葉には創造的な力があり、逆に破壊的な力もある。他者や自分を建て上げることも出来るし、壊すこともできる。私たちは、自分を呪うのはもう止めよう。神から与えられた言葉の力を、自分と他者を祝福するために用いたいものである。
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年賀状やめますか、それとも人間やめますか(記事No.139)

 今年は、年賀状が昨年に比べて明らかに少なかった。毎年、少しずつ減っているが、今年は特に減ったと感じる。理由としては、例年よりも喪中の人が多かったことと、70代以上の人の中には、今回で年賀状は最後にするという人も何人かいたからである。プライベートの付き合いの方だけでなく、仕事関係でも、代表者の死去で年賀状の授受を差し控えたり、あるいは、今年限りで年賀状を廃止するという企業も複数あった。廃止の理由は、「虚礼廃止」や「SGD'Sに貢献するため」などであったが、ほとんどこじ付けであり、本音は手間が面倒であることと、経費削減であろう。個人でも、企業など法人でも、年賀状を煩わしく思っている先が増えているようではある。

 私はと言えば、年末の慌ただしい時期に年賀状を書くのは、特にそれが単なる儀礼で送る先であれば、面倒臭く感じてもいる。一方で、長い付き合いのある人々との年賀状のやり取りは、生存確認の意味も含めて、必要性があると思っており、やめる理由は見当たらない。心がけていることとして、プライベート関係でも、仕事関係でも、必ず一言は手書きで添えて書くことにしている。仕事関係では、これまでは、毎年数百枚の年賀状のほとんど全てに手書きで、相手に応じた一言メッセージを書き添えていた。しかし、今年の分からは、いつも印刷だけの文面で送ってくる先で、なおかつ、付き合いがほとんど無い所には、メッセージを書き添えるのをやめた。「受けるよりも、与える方が幸いである。」を座右の銘としている私としては、必ずしも本意ではなかったが、読んでいるかも疑わしいような先に、毎回丁寧にメッセージを書くのは虚しさも覚えていたからである。

 日本全体でも年賀状の枚数は減少しており、昨今では、全く出さずに、親しい相手にだけメールやLINEなどで新年のメッセージを送る人も増えていると思う。日本郵便によれば、年賀状が初めて発売された1949年には約1.8億枚、ピークの2003年には約44.6億枚がそれぞれ発売されていたという。その後は、一貫して減少に転じ、2021年には約19.4億枚、2022年には18.2億枚の発売枚数となったそうである。何年か後には、紙の年賀状を送る人は少数派になり、やがては、民営化された日本郵便にふさわしく、土曜配達のように廃止されるのではないだろうか。

 そのような年賀状を巡る状況であるが、中には、ここぞとばかり自慢のツールとして使う人もいるから面白い。今年、妻宛に来た年賀状の中にあった、20数年前の同僚からの1通もそうであった。それは、写真入りの年賀状であったが、お嬢さんが入学した音楽系ではトップクラスと言われている大学の、校門の大学名のプレートの前でポーズを取っている写真であった。私は、よほど嬉しくて自慢もしたかったのだろうと推察し、分かり易い行動を笑い飛ばすくらいの思いで聞いたが、妻は少し違った受け止め方をしたようで、これはマウントを取っているんだよと言う。なぜなら、妻の出身校も別の音楽系大学だからである。もちろん、相手の過去の言動に照らして、そのように受け止めたと言う。この種の自慢行為に対しては、男性よりも女性の方が敏感に受け止めるようである。実にくだらない話ではあるが、妻は、これまで何人もの知人からの自慢行為を数々経験して来たことから、私は、今回のことも含めて、いずれ本にまとめて書いたらどうかと勧めた。

 はっきり言って、年賀状を自慢のツールに使うくらいであれば、出すのをやめた方がはるかにマシである。また、明らかに毎年自慢をするような人へは、年賀状を出すのをやめた方が精神衛生上も良いと思う。どうせ、心からの親しい付き合いは出来ないのだから、そのような人間関係は整理しても良いのではないだろうか。30数年前のテレビ・コーマーシャルで、「覚醒剤やめますか、それとも、人間やめますか。」と言うものがあったと思い出したが、そのフレーズに倣えば、「(自慢のための)年賀状やめますか、それとも、(思いやりを持った)人間やめますか。」である。

 振り返ると、自分たちも以前、知らず知らずのうちに、無神経な年賀状を出していたのかも知れない。子供たちが小さい頃は、お揃いの服を着た写真入りの年賀状を作成して送っていた。親族や家族ぐるみの付き合いをしている友人なら良いが、そうでない人々の中には、もしかしたら、自慢と受け止めた人もいたかも知れない。世の中には、結婚したいのに良縁が中々無い人もいれば、結婚していても、様々な事情で子供がいない人もいる。そのような人々の中には、小さな子供の写真付き年賀状を受け取って、心がざわつく人もいると思う。他人に少しでも不愉快な思いをさせてしまう可能性があるのなら、いっそのこと年賀状など出さない方がまだ良いと思う。年賀状は、せいぜい70年くらい前からの風習であり、何がなんでも後世に受け継いでもらうべきものでも無い。限られた先に出すのは良いとして、そんなことよりも大切なのは、年賀状のやり取りをしていた相手を思いやる気持ちであろう。形式よりも、実質の方が大事なのは、ここでも真実である。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」(コリント人への手紙第一 13:4 新改訳)
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2023年を展望する(記事No.138)

 2023年の元旦は、個人的には静かに迎えた。午前中、家庭礼拝を捧げ、昼食後は妻と2時間ほど散歩をしたが、昨年の正月よりも道往く人々の数は増えていた。いい加減、ほとんどの人が行動の自主規制には辟易しているし、良く言えば、無意味な自粛はもうたくさんであり、悪く言えば、警戒心が弛緩してしまっているのかも知れない。私としては、いかに人造ウイルスであっても、変異を繰り返して弱毒化しており、インフルエンザや風邪の予防と同様の注意を払いながら、それよりも少しばかり感染防止対策を強化することで足りると考えている。ただし、不特定多数が長時間密集・滞留するような場所は、念のため避けているのは、今さら言うまでもない。感染予防と同時に、シェディング防護のためでもある。これまでに何回か、シェディング曝露と思われる状況で、急激な体調不良に見舞われたことがあり、防護には特に注意を払っている。また、解毒材料としては、良質の重曹や、にがり(マグネシウム)などを使用している。

 さて、2023年の初頭に当たり、今年1年を少し展望してみたい。世界の大きな流れとしては、このまま終末へ向かおうとする激しい動きと、同時並行的に現れる、世界を建て直そうとする動きの両面があると思われる。過去3年間は、終末への動きが激しく加速した年月であった。それは、間もなく、聖書が預言する7年間の患難時代に突入することを思わせる状況であり、現時点でそれは変わっていない。新型コロナ・パンデミックは、日本や中国などを除くほとんどの国で、事実上ほぼ終息しつつある。アメリカのワクチン入国規制や軍人などに課せられている接種義務は、今年前半には撤廃あるいは大幅緩和され、同国における感染症非常事態は終焉を迎えるであろう。中国は、ゼロコロナ政策を転換したが、共産主義体制では、一気に規制を全廃することには慎重なのであろう。どうやら、最後までコロナと付き合わされるのは、日本と言うことになりそうである。グローバル製薬会社にとっては、中国を除きアジア最大級の市場であり、とことん貪り尽くすつもりなのであろう。政府が売国・反国民である以上、大衆の一人一人が、これ以上奪われることを断固拒否するしかない。

 ウクライナでの戦争は、今も圧倒的にロシアが有利な戦況と考えられる。ロシアとすれば、いつでもウクライナ全軍を壊滅させることは可能であるのに、何故ここまで戦争を長びかせているのか?最大の理由として考えられることは、米欧に対して、対露制裁のブーメラン効果を与えることで、国力を費消させ、ロシアの優位性を高めることではないだろうか。また、ウクライナへの兵器や弾薬などの軍事支援は、NATO軍の備蓄を枯渇させているとされ、軍事力のバランスにおいても、西側に比してロシアが優勢となっていると考えられる。加えて、停戦が未だ実現しないことで、ウクライナ軍は激しく損耗しており、ロシアが侵攻当初要求していた、ウクライナの非軍事化が強制的に達成されそうな雲行きである。戦争の最大の被害者はウクライナ国民と、これまで迫害を受けてきたロシア系住民であるが、今ではヨーロッパ諸国民も、制裁ブーメランによるエネルギー不足や物価高騰の被害者である。これに対して、最大の受益者は、米欧諸国の軍需産業であり、それらを所有する超富裕層の資本家らであろう。もちろん、彼らは、文字通り人の生き血を吸う悪魔崇拝者である。だが、ウクライナ戦争を機に、米露核戦争を引き起こそうとの彼らの企ては、プーチン氏に最初から見破られており、これまでのところ回避されているのは、不幸中の幸いと言える。今年についても、アメリカがロシアへの直接攻撃を行わない限り、核戦争にまでは至らないであろう。だが、万が一、米軍がロシアを直接攻撃するようなことがあれば、その時は、核戦争を覚悟するべきであろう。その場合、日本も、主要な米軍基地や自衛隊基地がある都市は、灰塵に帰することになるだろう。いずれにせよ、ウクライナでの戦争は、ゼレンスキー氏が(米欧側に)除去されれば停戦となり、そうでなければ、今年も続くと思われる。

 今年は、日本を含む西側諸国の経済がクラッシュする可能性が高いと思う。私たちの多くは、近くはリーマンショック、30年ほど前にはバブル崩壊を経験した。だが、今年始まるであろう経済崩壊は、それらが軽微な出来事と思えるほどのものである。リーマンショックでは、不動産や金融セクターの一部は大打撃を受け、上場会社を含めて倒産した企業が続出した。また、バブル崩壊に際しては、巨額の不良債権を抱えた大手銀行が倒産するなど、2000年代初頭まで影響が及んだ。だが、次に起こる経済危機は、そのスケールにおいて、史上最大規模となる可能性が高い。その始まる時期は、今年夏から秋にかけてではないかと予測する。これまでの各国における金融緩和政策により、世界の市場には膨大なマネーが供給されており、デリバティブと称される金融派生商品の総額は実体経済をはるかに凌駕していると言われ、世界的バブル崩壊が起きる条件が整いつつある。経済崩壊のトリガーとなる出来事が何であるのかは、現時点では分からないが、それを引くのは、前記の超富裕層の資本家らであり、コントロールされた経済危機である。ちなみに、彼らの表の巣窟が、世界経済フォーラム(WEF)であり、裏のそれは、イルミナティとも呼ばれる集団であって、それらの人脈は表層部の一部を除き重複していると考えられる。状況からして、もし読者の皆さんの中に、株式投資をしている人がいれば、遅くとも3月から5月頃迄には、一旦手仕舞いして様子を見ることをお勧めしたい。もちろん、私たちは、米、缶詰など、保存に適した食料や日用品の備蓄も増やしておくことが賢明である。

 ここまで書いたように、2023年は昨年にも増して、世界の暗闇が深まるであろう。場合によっては、患難期の初年となるかも知れないが、これについては、特に慎重に見極めねばならず、これ以上の推測は言うべきでないと思う。私としては、もちろん、そうならないことを願っている。日本についても、既に再生されるという希望は失われており、ますます世相は暗くなるであろう。今年も、ひたすら国家滅亡の時に近づくだけである。こう言っては身も蓋もないが、例え4月の統一地方選挙で政権与党が議席を減らしたとしても、大きな流れが変わることは無い。だが、それでも、完全に諦めてはならないと思う。まだ、神がこの世界に、この国に、介入してくださるという希望を捨てるべきではない。なぜなら、日本でも、世界の諸国でも、多くの人々が、神の憐れみを求めて祈り続けて来たからだ。確かに神は、それらの祈りを聞いておられる。私は、既に神は、世界のこの状況に介入するため、御使(天使)の軍勢を用意されていると思う。彼らは、神の命令が下されることを今かと待っており、その時が来れば速やかに行動を開始するだろう。だから、目に見える状況とは逆であるが、あえてこう言いたい。この2023年に、これまで私たちを苦しめて来た敵は敗北する。私たちは、必ず勝利し、この世界を、日本を、再建する神の働きに加わるのだと。

「あなたを破壊した者は速やかに来たが あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る」(イザヤ書 49:17 新共同訳)
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2022年を振り返って(記事No.137)

 早いもので、あっという間に2022年も残すところ数時間となってしまった。毎年のことであるが、達成感や充実感とは逆に不完全燃焼感を抱いてしまうのが、正直な思いである。いつも全力疾走を続けられる人はそう多くはないのかも知れないが、毎年自分自身の歩みに満足感を抱けたことはない。まず自分を顧みなければならない者が、世の中の動きを振り返ってものを書くのは、ある種おこがましいが、あえて少しだけ取り上げてみたい。

 2022年を一言で振り返るならば、終末への扉が開いた年であった。その扉は、これまでも少しずつ開いていたのだが、今年は一気に大きく開いてしまった。これまで約3年に渡り続いて来た、グローバリストらにより造られた新型コロナ・パンデミックは、彼らの世界支配の完成に向け大きく時計の針をすすめた。以下は、本ブログの2022年1月2日付記事「2022年を展望する」(記事No.81)の一部である。

 「既に世界は、ヨハネの黙示録が預言する患難期の入り口に到達した可能性が出てくる。これについては、患難前携挙説を信じるクリスチャンは、別の受け止め方をするだろう。なお、新型コロナ・パンデミックについては、ワクチン接種キャンペーンを中止する国々では、今年半ば迄には終息し、そうでない国々は、少なくとも来年前半頃までは終息に至らないと思われる。日本は、残念ながら、後者に該当するのではないか。人々の自然免疫力を生かすのか、それとも、失わせるかの違いである。(中略)今年はまた、戦争の勃発が現実となる可能性が高い。発火点は、ウクライナと台湾海峡が最も可能性が高いが、中でも前者では、今月中にロシア軍による侵攻が起こる可能性がある」

 まあ、この程度であれば、予測するのは難しいことではないと言われるのかも知れない。新型コロナ・パンデミックについて言えば、日本では、終息に向かうどころか、人口当たりで世界最高水準の感染者数が続いている。1日あたりのコロナ死者とされる人数も、12月には過去最多を記録した。新型コロナ・ワクチンのブースト接種が感染拡大抑制にはつながらず、明らかに逆効果になっている。2021年2月以降、日本の前年同月比超過死亡者数は増加の一途を辿っていることが何を意味しているのか、賢明な読者諸氏はとうに気づいていると思う。このままでは、イーロン・マスク氏に言われずとも、日本の人口は急減すること必至である。

 日本の報道各社による2022年の10大ニュースは、国内1位が軒並み「安倍元首相の暗殺」であり、海外1位が「ロシアによるウクライナ侵攻」であった。社会に与えたインパクトとしては、その通りであったと思う。どちらの出来事も、背後には、悪魔崇拝のグローバリスト集団が暗躍していたことは共通している。暗殺犯とされた山上某は見せ球であり、安倍氏は「彼ら」にとって用済みであったから消されたと考えられる。また、ロシアは外形的には「侵略者」であるが、戦争を周到に準備し、ロシアをして自国の安全のため軍事行動に踏み切らざるを得なくさせたのは、「彼ら」である。先に触れた、新型コロナ・パンデミックもそうであるが、2022年は、「彼ら」が公然と尻尾を出した年でもあった。世界統一政府樹立に向けて計画を大きく進める上での、「彼ら」の自信と、同時に抱いている、「焦り」の両方が伺える。

 ところで、終末の様相が着実に濃くなっている世界であるが、私は、現時点では未だ、世界が7年間の患難期に入ったとは考えていない。聖書預言を信じる人々の中で、患難前携挙説の支持者が多いと思われるが、その説に立つならば、クリスチャンは地上で患難期を通過することは無い。だが、本ブログでも、2021年10月3日付記事「携挙は近いのか?」(記事No.48)でも書いたように、患難前携挙説が正しいと断定することで良いのであろうか?真のクリスチャンは患難期の前に地上から取り去られるという考え方は、希望を持つには良いのだが、「通過するはずの無い」患難期突入のサインを見逃してしまうことにもなりかねない。本ブログ読者の皆さんには、世の終わりに関する聖書の教えについて、今一度祈りつつ熟考することをお勧めしたい。

 今年は、10月頃から、世界が終末に向けて、もう後戻り出来ないとの確信が強まり、否定的な論調にしか記事を書けないとの思いから、筆が(キーボードを打つ手が)進まなくなってしまった。日本の将来にも、残念ながら希望は残っていない。だが、最後まで残っているのが、神に在る希望である。世の終わりがいつ来るのかは、全く神の主権の内に決定されることである。あるいは、神は、もう少しの猶予を与えて下さるかも知れない。それは、少しでも多くの人々が、イエス・キリストを信じることによって、神の民に加えられ、永遠の命に生きるようになるためである。暗黒の世にも、確かな希望があることを強調しつつ、2022年最後のブログ記事を締めたいと思う。

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(ペテロの第二の手紙 3:9 口語訳)
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