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受けるよりも与える方が幸い(記事No.104)

 今月半ば以降、他の人々のためのボランティア的な作業に相次いで取り組んだこともあり、ついブログ記事の更新間隔が開いてしまった。時間を要したことの1つは、奨学生応募者のためのサポートであった。ある国際的な奉仕団体が募集している、大学院レベルの海外派遣奨学生プログラムの応募者の推薦人となるために、求められた手続きを進めていた。その中で、推薦人もいくつかのオンライン講座を受講しなければならないとの、降って湧いたような話があり、仕事の合間に受講したのである。全て英語版の各講座の最後には、合否判定テストが付いていたので、一応は通しで視聴しなければならず、忙しい中で余計な時間を取られてしまった。

 この他にも、プライバシーの問題があるので詳細は書けないが、仕事のストレスで鬱病になったと主張する社員への対応や、別れた前妻に身包み剥がされてしまったも同様な友人への支援など、ここ半月ほど、問題を抱えた人々等との関わりが続いた。さすがに、短期間で集中的に、他人のために、自分の時間、労力、金銭を消費すると、少し疲れも覚えてしまった。専門職が仕事として関わるなら、それで報酬を得る訳であるし、当然のことではあろう。しかし、自社の社員の問題以外は、全くの奉仕であり、選択出来たならば、避けたかったのが本音である。このような時はいつも、イエスの言われた言葉を思い起こして、自分の励みとしている。

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒行伝 20:35 口語訳)


 多くの人は、誰かに善意を示す機会があれば、そうしたいと願っていると思う。なぜなら、自分の善意が誰かの助けになり、その人から感謝される時、自分自身も嬉しくなり、助けることが出来て良かったと思うからだ。ケースバイケースではあるが、時間的、経済的負担がそれほど大きくなければ、対価はもちろん実費も求めることもしないであろう。その場合、相手からの感謝が何よりの報酬である。同時に、天にいくばくかの宝を積むことも出来るかも知れないが、そのあたりは計算するような話ではない。しかし、誰かを助けることが、時間的、経済的、精神的に少なくない負担を伴う場合は、果たしてどうであろうか?時には、そのような状況に直面する場合も起こり得る。

 人々のために自分の全てを捧げられた、イエスの生涯から学ぶべきではあろう。だが、時には、イエスは神だから可能であったのだ、自分は弱い人間に過ぎない、と思えてしまうことがあるかも知れない。他の人の重荷を共に背負うことは、多少なりとも自己犠牲的な精神が無ければ出来ないが、私たちは常にそうすべきとも思えない。自分の方が倒れてしまったり、共倒れということも無いとは言えない。何だか自分自身に言い聞かせているようでもあるが、私たちは、自分の力の範囲で他の人々に善意を示すことが良いのであって、義務感で自分を追い込むべきでは無い。まして、他の人に義務感を押し付けることは、もっての他である。(特定の人々や団体等を指して言っている訳では無い。)

 私の場合は、他の人々に善意を行動で示すことに、少し疲れを覚えた時には、「受けるよりは与える方が幸い」とのイエスの言葉を、繰り返し唱えることにしている。そして、神からの知恵を求める祈りをする。私たちは、悪意のある人々に付け入られるようなお人好しであってはならないが、かと言って、他の人々に愛を示すことを惜しんではならない。与えられたものの中から分かち与えることで、それらは減るのでは無く、倍加して行くという、神の法則を体験することが出来る。与えない人は、与えられることも無い。与える人は、また自分も与えられる。私たちは、人々に、良いものを多く与える者となりたい。そうすれば、神から多くの良いものを与えられるであろう。

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカによる福音書 6:38 口語訳)
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戦争への道を進む日本(記事No.103)

 昨年末以来、本ブログでもウクライナ情勢に関わるテーマを多く取り上げて来た。私も、明るい話題の記事を多く書きたいと常々思っているのだが、現在進行形で、危機的な状況が続いている以上、目を背ける訳にもいかず、必然的に重いテーマが多くなってしまう。そのうち、時々は京都のグルメ記事なども書くかも知れないが、暫くは今のようなテーマが中心になるだろう。

 さて、またも、日本の将来が危ぶまれるニュースが報道されている。岸防衛大臣は、4月19日の記者会見で、ウクライナに対して、新たに監視用ドローンと化学兵器対応用の防護マスクと防護衣を提供すると発表した。提供されるドローンは、防衛省が保有する民生品であり、搭載しているカメラで、状況監視の目的に使用されるという。監視と言っても、防災やインフラ保守管理の為ではなく、軍事目的に使用されるのは自明の理であろう。日本が提供したドローンが、例えば、ウクライナ軍が砲撃目標を探索するために使用されたなら、どのような意味を持つことになるのか。それは、日本が戦争当事者であるウクライナを軍事的に支援したことになり、ロシアは自国防衛のために、日本を攻撃する正当な権利を持つことになる。具体的には、日本がウクライナに提供した各種装備品の工場、貯蔵施設、輸送手段などに対して、ロシアは攻撃する権利を持つと言うことである。

 自公政権(公明党が平和の党というのは、ブラックジョークである。)が、国外の戦争へ関与することに対するハードルが低いのは、別に今に始まったことではないが、今般のロシア・ウクライナ戦争では、これまでに無く日本自体を危険に晒す行動が続いている。日本が国際社会の一員として、本来やるべきことは、双方への停戦の呼びかけであり、一方に加担して戦争継続を支援することではないはずだ。特に、日本自体の安全が脅かされる台湾有事の場合とは異なり、ヨーロッパの一角における局地戦争であって、中立的な立場を採ろうと思えば採れるはずである。もっとも、アメリカの属国である以上は、宗主国の命令には逆らえないのであろうが、お得意の決められない政治を駆使して、直接関与から逃げ回っていた方が良かったと思う。ところで、今日の箴言(箴言は31章あるので、毎日1章づつ読んでいる。)には、今の日本を言い表しているような、タイムリーな聖句があった。

「争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆、争いを引き起こす」(箴言 20:3 新共同訳)


 私は、ウクライナは遅かれ早かれ、実質的な降伏に近い形で、ロシアと停戦に合意することになると考えている。しかし、米欧諸国に巣食うグローバリストらは、第3次世界大戦の火種としてのウクライナを、決して諦めないだろう。もちろん、ウクライナの主権や国民を守るためでなく、戦争から利益を得続けるためと、何よりも、米露核戦争を引き起こすためである。日本の為政者や官僚たちが、グローバリストらと心中覚悟でいるのは、彼らだけで自己完結するなら勝手であるが、国民を巻き添えにする以上、とんでもない権力犯罪である。日本政府のウクライナ軍事支援を支持している国民は、ロシアとの戦争を覚悟しているのであろうか?大変残念であるが、いずれ米露戦争が勃発する可能性は高く、その時日本は、ロシアによる核兵器を含めた攻撃のターゲットになるだろう。

 このような日本と世界の危機に直面して、私たちが出来ることは限られているが、少なくとも、平和のために祈ることが大切である。祈りは、世界を変える最も強力な手段であり、武器である。また、実際的な備えとしては、今後の食糧危機を見据えて、食料品や水などの備蓄を増やすことや、将来的に難民となる場合も想定して、パスポートの取得・更新も欠かせない。もちろん、外国語の勉強も有益であろう。ウクライナの人々は、米英などの外国と通謀して自国を戦争へと導いた、邪悪な国家指導者の暴政により、苦難の道を歩んでいるが、それが将来の日本人の姿とならないことを願う。戦争への道を進む日本であるが、こんなはずでは無かったと、後悔しても遅い日が来る可能性が高いと思う。神を信じて、その庇護のもとに自分と家族を置くことが、命を守るためには決定的に必要である。

「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(詩篇 121:4−8 新共同訳)
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エルサレム第三神殿とは何か(記事No.102)

 ウクライナ情勢に関する報道の陰で、扱いは小さかったが、エルサレムで重大な事態が発生したことが伝えられた。これまでの報道を総合すると、現地時間4月15日の早朝、黄金の丸屋根を戴く「岩のドーム」として知られる、エルサレムのアル・アクサ・モスク周辺でパレスチナ人群衆とイスラエル警察が衝突し、150人以上が負傷した模様である。イスラエル警察によれば、衝突に先立つ午前4時頃、覆面の男たち数十人がモスクの敷地内に侵入し、花火に火をつけたと言う。その後彼らは、隣接する嘆きの壁(西の壁)に投石したそうである。警察発表のとおりだとすれば、イスラム教とユダヤ教のそれぞれの聖地を冒涜する行為であり、両教徒らの対立を煽動したものと考えられる。現時点では、誰が煽動者であったのかは明らかでないが、ユダヤ人かパレスチナ人のどちらかの過激派ではないだろうか。タイミングとしては、イスラム教の断食月であるラマダンとユダヤ教の過越祭の初日が重なった日であり、どちらの側も信仰的熱情が高まっていた時を狙った、計画的な扇動であるだろう。

 アル・アクサ・モスクは、イスラム教の開祖であり、彼らが「預言者」と信じるムハマンド(マホメット)が立ち寄った地と伝えられている。また、同じく預言者とされている、イブラヒム(アブラハム)にまつわる故事の舞台とも言われる。イスラム教徒にとっては、メッカ、メディナに次ぐ、3番目に重要な聖地である。モスクが建っている場所は、かつて、ユダヤ人の第一神殿、第二神殿が建っていたと考えられており、「神殿の丘」と呼ばれる、ユダヤ教徒にとって最も重要な聖地となっている。嘆きの壁は、第二神殿(ヘロデ神殿)の外壁の残存部分とされており、かつ、ユダヤ教徒が神殿跡地に最も近づける場所であり、壁の前に立って熱心に祈る人々が絶えない。私も一度訪れたことがあるが、異教徒の私も、キッパという帽子を借りて頭に被り、神妙な面持ちで壁の前に立ったものである。各国の要人らも多く訪れており、2006年には、小泉首相(当時)が壁に手を置いて祈り、2017年には、アメリカのトランプ大統領(当時)が訪れて祈りを捧げている。2015年には、安倍首相(当時)も訪れて壁に手を触れているが、祈ってはいなかったようである。

 神殿の丘では、これまでにも、ユダヤ教徒とイスラム教徒、イスラエル警察とパレスチナ人群衆が、度々衝突を繰り返して来た。両教徒とも、教理や歴史に加えて、信仰的熱情が伴っているので、極めて根が深い対立構造である。しかも、現状でも一触即発の状態であるのに、ユダヤ教徒の側は、この地に神殿を再建することを目指している。いわゆる、「第三神殿」の建設である。イスラエルでは、ユダヤ教の研究所において、第三神殿で用いられる予定の祭具などが既に製作されており、神殿で祭儀を司る祭司らの訓練も行われていると言う。ひとたび神殿の建設が始まったなら、短期間でそれは完成し、旧約聖書の規定通りの祭儀が行われるようになるだろう。資金も含めて全ての準備は整っていると思われるが、最後に必要なことは、現在のアル・アクサ・モスクの除去である。しかし、ユダヤ教徒たちは、イスラム教徒の第3の聖地である同モスクを、どのように除去するつもりであろうか?仮に、武力を行使して物理的にイスラム教徒らを排除し、モスクを解体しようとすれば、イスラエルとイスラム諸国との間に、戦争が勃発することは避けられないであろう。かと言って、イスラム教徒側が土地買収に応じるとも思えない。そのような動きをする者がいれば、宗教指導者であっても、イスラム過激派に直ちに暗殺されること必定である。

 第三神殿が建設されると信じているのは、ユダヤ教徒だけではない。クリスチャンの中にも、神は必ずユダヤ人をして、第三神殿を再建させると信じている人々が少なくない。特に、福音派やペンテコステ派(聖霊派)と区分される、保守的な教理を有する教会に属する人々の大半は、そのように信じていると思われる。彼らは、神の不思議な業により、アル・アクサ・モスクは取り除かれると考えている。中には、大きな地震が起こって、モスクが倒壊すると想像している人もいるようだ。モスクの建物が倒壊したとしても、それだけでは、イスラム教徒らが同地を明け渡すとは思えないのだが…。どんなことが同モスクに起こるのかはさておき、多くのクリスチャンにとって、第三神殿の建設が重要な意味を持っている理由は、それが世の終わりと密接に関連しているからである。すなわち、そのことが起こると、イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることになるとの考えである。イエスは、弟子たちの質問に答える形で、自身の再臨の前兆として、こう言われた。
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(マタイによる福音書 24:15-16 口語訳)


 第三神殿が建設されることを信じるクリスチャンたちは、ここでイエスが言われた「聖なる場所」とは、エルサレムの神殿を指すと解釈する。イエスの時代にあった第二神殿は、紀元70年にローマ軍により破壊されたので、世の終わりの時代に、同じ場所に、第三神殿が建設されることになるという考えである。私も、20歳くらいの時に再臨信仰を持って以来、何年もそのように考えていた。ところが、あることをきっかけに、その点についての疑問を抱くようになった。確か、1994年だったと思うが、京都府下でペンテコステ派のセミナーが開催され、私も参加する機会を得た。そのセミナーの講師の1人が、オーストラリア人の牧師であり聖書学者であった、ケビン・カナー師であった。ある日本人参加者の、「第三神殿はいつ建設されると思うか?」との質問に対して、カナー師は、直接的な回答の代わりにこう答えた。「主は、もはや手で造られた神殿には住まわれない。私たち自身が、神の神殿であるからだ」
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント人への第一の手紙 3:16-17 口語訳)


 カナー師は、「The Tabernacle of David(ダビデの幕屋)」(1976年刊、邦訳版の有無は不詳)という本を著し、その中で、旧約聖書に記録された幕屋が、いかに新約聖書の教えとリンクしているかを、聖書の言葉から詳細に解き明かしている。同書には、こう記されている。「神は常に、彼の、贖われた人々のただ中に住むことを願われて来た。旧約聖書の典型的な(神の)住まいは、この贖いについて漸進的な啓示を現している」また、こうも記されている。「完全な啓示は、神の幕屋また神殿が人となられた、主イエス・キリストの内にある」今日、神が住まわれるのは、イエスの十字架の血潮で罪が潔められ、贖われた、クリスチャンの霊の内にである。神の霊は、クリスチャンの内に、また、彼らの霊的共同体である神の教会の内に住まわれる。物質的な建物としての教会には、神は住まわれず、仮に将来第三神殿が建てられたとしても、それは同様である。ユダヤ教徒らが、第三神殿と称される建物を建設したとして、それは宗教的な聖所とはなり得ても、もはや霊的な神の聖所とはなり得ない。果たしてそれは、聖書に預言された、「聖なる場所」としての神の宮だろうか?本ブログ記事を読まれた皆さんも、このことに関心を持たれているなら、どうか考えてみていただきたい。そして、祈りつつ、聖書の言葉を素直に読んでみていただきたい。この地上における聖なる場所とは、私たち自身と神の教会である。
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嘘も「真実」になる(記事No.101)

 数日前の朝のTBSラジオで、パーソナリテイが鈴木宗男参議院議員のブログ記事を取り上げ、ウクライナ紛争の報道に関する同議員の疑問を批判的に紹介していた。早速、私も鈴木議員のオフィシャルブログを読んでみたが、ラジオ番組内で批判されていたのは、以下の記事である。「テレビから、ロシア側、ウクライナ側の主張、映像が知らされるが、なにが真実で、なにが正しいのか、受け止めに躊躇してしまう。情報化の時代、それぞれ都合の良い頭づくりで作られてしまう危険性をつくづく感じながら、同時にメディアの使い方、発信の仕方によって全く違う価値観が出てくることに恐ろしい限りである。(中略)今回も直感で目に入るメディアによる時には印象操作とも思える場面場面に、何とも言いようのない虚しさが去来した」その後は、こう続く。「私の願いはただ一点、早く停戦し尊い命が亡くならないことだ。一般の人に武器を持たせては犠牲者が増えるだけである。兎にも角にも話し合いで、停戦してほしいと祈るしかない」

 いったい、鈴木議員のブログ記事のどこがおかしいのか、一読するだけでは分かり難いかも知れない。キーワードは、「印象操作」であろう。この記事を取り上げたラジオ・パーソナリティにとって、ロシアが侵略者であり、悪であることは自明の理であって、所与の事実であると言うことだ。日本のみならず、欧米のマスコミの大半は、同様の観点に立って、ウクライナ紛争を報道していると考えられる。当然のことながら、それら諸国の政府も、侵略者ロシアを厳しく非難し、果敢に立ち向かうウクライナを支援するという姿勢である。日本のテレビや新聞、インターネット・メディアのほとんども、ロシアによるウクライナの一般市民に対する残虐行為の数々が、連日これでもかと言うほど報道されている。今回の鈴木議員のブログ記事は、そのような一方向に集中する報道や情報の流れに対して、一石を投じたものとも言えるであろう。

 最近、ロシア軍の蛮行として報道された中で、特に注目されたのは、首都キエフの北西約24キロにある町、ブチャでの犠牲者400人以上の住民虐殺とされる事案であろう。4月4日に、ニューヨーク・タイムズ紙が、アメリカ・マクサー社の衛星写真を入手したとして報道し、BBCも、これが3月19日撮影の写真であると確認したと報じた。ロシア軍は、2月24日のウクライナ侵攻開始後間もなくブチャを制圧し、その後3月30日に同地を撤収するまで支配していた。もし、その衛星写真が3月19日に撮影されたものであり、そこに写っていた遺体の数々がロシア軍撤収後に発見されたものと同じであれば、虐殺はロシア軍の凶行となる。ところが、報道されたその衛星写真を見た専門家らが解析したところ、影の位置などから、当該写真は、4月1日のグリニッジ標準時11時57分に撮影されたものであることが判明した。もし本当にロシア軍の仕業であるなら、衛星写真の撮影日を、ロシア占領下の日と偽る必要は全く無い。ウクライナ側の案内で現地を取材したロイター通信は、ロシア軍の虐殺を証言する現地住民や行政当局者らの話を伝えているが、その記事は、「死亡した住民を誰が殺害したのか、独自に確認することは出来なかった。」との注釈付きで報道された。SNSなどでは、各地で住民を攻撃しているのは、ウクライナ軍や(ネオナチの)アゾフ連隊であるとの避難民の証言も多く出ているが、何故か、そのような記事は次々と削除されている。

 日本を含む西側メディアでは、これまでほとんど報道されず、各国政府も問題視して来なかったが、ウクライナにおける住民虐殺を行って来たのは、アゾフ連隊(以前は大隊)などのネオナチ勢力と、彼らの影響下に置かれたウクライナ軍である。特に、東部のドネツク州やルガンスク州など、ロシア系住民が多数を占める地域では、2014年から今年2月のロシア軍侵攻までの約8年間に、14,000人ともされる一般住民が虐殺されて来た。ウクライナ政府とネオナチ武装勢力による、このような蛮行に対して、国際社会は厳しい非難と制裁を行うことなく黙殺し続け、ロシアによる軍事侵攻への道筋を作って来たのである。もとより、他国へ軍事侵攻することは許されることでは無いが、このような事態に至った原因について言えば、ロシアの側に道理があると思う。

 さて、これまで書いたような、米欧諸国などの政府や報道機関によるロシア非難であるが、事実と嘘をない混ぜにして、いかにも真実であるかのような情報を流す手法自体は、今に始まったことではない。近代史上最も知られている前例としては、ナチス・ドイツの宣伝手法が挙げられるであろう。ナチス政権の宣伝大臣であった、ゲッペルスが語ったとされる、「嘘も100回繰り返せば真実となる。」という言葉がある。この手法は、第2次世界大戦後も、ソ連や中国のような全体主義国家のみならず、自由主義国とされている国々でも用いられて来た。今回、ウクライナと米欧諸国の政府が、報道機関なども巻き込んで、ロシア軍による戦争犯罪行為の数々について情報発信しているが、これらも同じ手法と言えるだろう。さすが、ネオナチに支配されたウクライナ政府と、ナチスの思想や人脈を密かに受け継いだアメリカ政府(正確には、政府内部のグローバリスト集団)の合作(もちろん、首謀者はアメリカ側)ではある。

「偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる」(箴言 19:9 口語訳)


 歴史を顧みると、偽りの思想や歴史観の上に築かれた国家や体制は、いかに強大な国力や覇権を誇ってはいても、結局は例外無く崩壊している。近くは、ソ連、大日本帝国、ナチス・ドイツなどがそうであった。今は権勢を誇る中国共産党支配体制も、いずれ崩壊する日が来るだろう。今般のウクライナ紛争において、世界に嘘を撒き散らしている、アメリカやヨーロッパ諸国、それに追従国日本はどうなるだろうか?ロシアには、日本に対しても牽制する動きが見られるが、その中には、左派政党とされる、「公正ロシア」のミロノフ党首による、「ロシアは北海道に全ての権利を有している」という発言もあった。今のところは、一政治家による単なる恫喝発言であろうが、そのような暴言を引き出してしまったのには、日本のロシアに対する一方的な圧力にも原因がある。日本も独立国家である以上、自国を侵略しようとする者には、断固たる態度をとる必要はある。しかしながら、国際協調の美名のもと、自ら隣国との緊張を高める行動をとるのは、いささか知恵に欠けているとは言えないか。せめて私たちは、政府や報道機関の言うことを無批判に受け入れるのではなく、自ら吟味し考える習性を身につけておくことが、今の時代には大切であろう。

「あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない」(ゼカリヤ書 8:16 口語訳)
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日本の最後の希望(記事No.100)

 一昨日、高速道路のサービスエリアにあるガソリンスタンドで給油したのだが、ハイオクで何と1リッター198円であった。2週間くらい前に街中のスタンドで給油した時には、リッター185円であり、随分と値上がりしたと思ったのだが、あっという間に200円の大台に乗りそうな勢いである。次に給油した時には、本当にそうなっているかも知れない。世界のどこかで戦争が起きたり、あるいは、情勢がきな臭くなるだけでも、資源価格は敏感に反応し、日本でも末端小売価格が上昇することになる。当然のことながら、燃料価格が上昇すると、電気・ガス料金や物流コストも増加し、結果的に広範囲な物価上昇となる。いわゆる、コストプシュ型インフレであり、需要の増加による物価上昇とは異なり、勤労者の給料が上がる訳ではない。99パーセントの生活は、苦しくなる一方である。

 エネルギーだけでなく、食品も次々と値上げされている。今年6月から、各社のインスタントラーメンが値上げされることは知られているが、既に多くの食品が値上げモードに入っており、特に、小麦を使用した加工食品は顕著である。ウクライナ紛争に伴い、欧米諸国を中心に対ロシア禁輸を含めた制裁を実施しているが、世界第3位の小麦生産国であり、同第1位の輸出国のロシアとしては、他の諸国に輸出を振り向ければ良いだけであり、最もダメージを受けるのは、制裁実施国の大衆である。食料自給率がカロリーベースで37パーセントの日本は、世界的な食料価格上昇の影響をまともに受けることになり、今後も食品インフレが進むであろう。それだけでなく、輸入依存度が高い品目では、やがて入手自体が困難になる可能性が高い。

 ところで、日本は失われた30年と言われるように、先進国とされる諸国の中で、経済的に最も低成長の国である。国内総生産(GDP)は、1991年の492兆円が30年後の2021年で553兆円である。30年間でわずか12パーセントの成長であるが、ドル建てで比較すると諸外国と比べて悲惨な結果となっている。細かい統計数字は挙げないが、30年間で日本のGDPは1.39倍となったが、同じ期間でアメリカは3.72倍、中国は40.82倍にGDPが増加している。購買力平価GDPという指標で見ると、日本の1人あたりGDPは、既に2019年に韓国にも抜かれている。日本は第2次大戦敗戦後これまで、直接戦争を経験していないにも関わらず、この30年間年々着実に貧しくなっている、世界でも稀な国である。聖書は、「人はパンだけで生きるのではない」と教えるが、一方で、イエスは、その教えを聞きに来た大群衆が空腹であるのを見て、「5つのパンと2匹の魚」として知られる奇蹟により、彼ら全員を満腹させられた。「衣食足りて礼節を知る」との諺にもあるように、あまりに生活が苦しいと、人心が荒むのも当然であるが、閉塞感漂う現代日本がまさにそうであろう。

 なぜ、このような惨めな国に堕してしまったのか。多様な原因があるであろうが、最大の原因は政治が間違ったからであろう。政治が間違った理由は、日本と日本人とを愛していない人々が政治家の多数を占めて来たからである。そして、彼らを選んだのは、国民自身である。特に、組織的に政治への影響力行使を続けて来た、統一教会と創価学会の罪は極めて重い。政権与党が彼らの強い影響下にあることは、日本人にとっての不幸であろう。何故なら、彼らの政治的影響力が日本をより良くするためには作用して来なかったことは、結果が証明しているからである。また、政治家の影に隠れて政策を取り仕切っている、官僚たちの罪も重い。書きたいことは山ほどあるが、この辺にしておく。なお、私は酒は飲まない生活なので、酔ってくだを巻くことは無いが、この種の話題は相手を選ばなければ話せず、たまに意見の合う人と話すと饒舌になってしまう。

 日本の現状と行く末を思うとき、憤りや怒りだけでなく、哀しみと憂いを抱く。同時に、微かに起ころうとする諦観の念に対して、拒否することをしている。日本は外圧でしか変わることが出来ないとは、よく言われることである。確かに、鎖国下の幕藩体制から、開国して一応の近代国家になったのは、米欧諸国の圧力を契機としてであった。帝政と軍国主義から民主制と平和主義への転換も、敗戦を通らなければならなかった。戦後も、主としてアメリカからの度重なる外圧により、良かれ悪しかれ、各種制度改革を行って来た。こうして見ると、日本は、主体的に国家レベルでの改革をすることが出来ない国なのだと思う。ほとんどの選挙で、投票率がしばしば半分以下という状況は、単なる諦めだけでなく、棄権という白紙委任の方が、自ら考えて投票行動することよりも楽だからであろう。そのような状況が長年続き、現在の日本社会に至った訳である。

 今後日本には、さらなる不況だけでなく、数年以内には、大地震や火山の噴火などの自然災害が発生し、国力の低下と国民貧困化が加速すると思われる。これらの災害に加えて、再び原発の重大事故が発生するなら、今度こそ日本終了のゴングが鳴るだろう。さらに、自らロシアの「非友好国」の道を選択したことで、米露戦争が起きた暁には、日本も核攻撃のターゲットになることがほぼ確定したと言えよう。その場合は、最低でも米軍基地と海空自衛隊基地は、初期の段階で壊滅させられる。ロシアとしては、敵国の攻撃力を早期に除去しなければ、自分たちがやられるのだから、彼らの立場では当然の行動である。これらの厄災以外にも、急激に進む少子化、科学技術力の相対的低下などもあり、日本の未来には、残念ながら、もうほとんど希望は残っていないと感じる。

 人間の考えでは、わずかの希望しか無い日本であるが、もはや絶望して諦めるべきであろうか。あるいは、敗戦後に坂口安吾が書いた「堕落論」のように、ある種開き直った方が良い結果をもたらすのだろうか。私は、人間の努力だけでは、日本が再生することは困難であると思う。個人や集団レベルでの、ミクロの再生は可能であっても、国家レベルでの、マクロの再生は望めないだろう。その意味では、日本にはもう希望はほとんど残っていない。しかし、最後に残った希望がある。それは、創造主たる神による希望である。先ほど、日本が堕落した最大の原因は、政治が間違ったからであると書いた。その通りだと思うのだが、しかし、それは外形的、表面的なことでもある。その深部には、霊的な間違いが存在する。それは、日本が、日本人の多くが、真の神に背を向けて歩んで来たということである。本来、神の占めるべき位置にあったのは、有限の存在でしか無い、自己であった。日本人一人一人の自己中心的な歩みが集合体となり、日本という国の独善的な歩みとして現れて来た。しかし、神は憐れみ深く、罪を赦してくださる方である。日本人の多くが神の前に自らの罪を悔い改めるならば、日本は必ず癒やされ再生し、世の終わりが近づく困難な時代の中でも、平和と繁栄が回復されるであろう。神の言葉である聖書が、それを約束している。

「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」(エレミヤ書 33:6−8 新共同訳)
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