今般報道された京都市大岩山における問題は、昨年熱海市において26名の命を奪った土石流災害の原因となった、土砂不法投棄問題とも共通点がある。それは、いずれの場合も、行政当局が業者に対して、低姿勢とも言えるほどの及び腰の姿勢であったことである。熱海市の場合は、市は一旦業者に対して、安全対策を行わせる措置命令を出そうとしたが、最終的に発令を見送ったことが明らかになっている。なぜ、市当局が静岡県条例に基づく措置命令を出すことを取り止めたのか、その真の理由は報道されていない。だが、東京新聞電子版2021年11月10日付記事によると、2011年6月に静岡県と熱海市が、それぞれ措置命令案を作成し、翌7月に発出すると決めたところ、6月下旬に土砂を投棄した不動産管理会社の代表が市役所を訪問、状況が一変したと言う。結局、業者が条例に基づく変更届を提出することが認められ、措置命令の発出は見送られた。
一部のマイナー系独立メディアの報道によれば、熱海市の土石流災害の原因となった盛り土を作った業者は、小田原市に本社を置いていた、株式会社新幹線ビルディングという会社である。同社はJR東海の関連会社のような社名であるが、JRとは無関係であり、社長を務めていたのは、天野二三男氏という自由同和会神奈川県本部会長であった人物である。こうなると、何故熱海市が土砂不法投棄の業者に対して、まるで腫れ物に触るような対応を続けていたのかが推測出来るであろう。実際、2007年8月の熱海市議会建設公営企業委員会で、当時の水道温泉課長は、同社を同和系列の会社であると答弁している。今回は、多数の住民が犠牲となる災害が発生したために明らかとなったが、報道されていないだけで、この種の同和系企業優遇案件というのは、全国の自治体で多数あると考えてよいだろう。京都市大岩山の不法投棄問題の背景は今の所不明であるが、ジャーナリズム精神を失っていないメディアがあるなら、是非とも調査報道を行ってほしいものである。
本記事で、同和系企業が絡む問題の一端を紹介した理由は、差別と利権の問題について、読者の皆さんに考えていただきたいからである。世の中には、様々な差別問題が存在する。その中で、日本において、利権と密接に結びついている問題がいくつかある。取り分け、部落差別と在日韓国・朝鮮人差別は、そのスケールにおいて2大差別問題と言えるであろう。念のため明記するが、私は、あらゆる差別は悪であり、根絶を目指すべきものであると考えている。同時に、差別問題を利用した利権構造も悪であり、存在を許してはならないと考えている。先に挙げた2大差別問題は、それぞれ別々の根を持つ問題であるが、現代の日本において、共通点を有する問題でもある。それは、差別されていたはずの側が、一部であったとしても、差別問題に絡む利権あるいは特権を有しているということである。
私自身が実際に体験した出来事を、1つ紹介したい。10年以上前の話であるが、会社に1本の電話がかかって来た。個人名を名乗ったので、私の知人と勘違いした社員が電話を取り次いだのだが、私が電話口に出ると、相手の男は、自分は同和系団体(実在する同和団体の名称を挙げた。)の関係出版社の者であるが、人権問題を啓発する機関紙(「誌」だった可能性もある。)を購読して欲しいと言う。丁重に断ると、口調が次第に威圧的になり、それでも断り続けると、捨て台詞を吐いて電話を切った。この出来事自体は、些細な出来事である。その時私が思ったのは、彼らは、このような実質的に強要にも近いようなアプローチ方法で、これまでに大小どれだけの経済的利得を得て来たのかということである。
同和関係者を名乗り出版物を購読させるのも、一種の利権(あるいは、似非同和)と言えるだろうが、最大の利権は、同和対策事業に絡むものであろう。同和対策事業は、1969(昭和44)年に国会で成立した同和対策事業特別措置法に始まり、2002(平成14)年に終了するまで、33年間で約15兆円の国家予算が投入されたと言う。それ以外に、全国の自治体で独自の同和対策事業が行われて来たので、国と地方合わせた累計支出総額は数十兆円にものぼる可能性がある。もちろん、前述の熱海市のケースのような、同和系企業の不法事業収益は、これらとは別である。これだけ巨額の金が動くところには、議会や行政監察機関による実効性のあるチェック機能が働いていない限り、必ず利権構造が生じるものである。そして、利権構造のインナーサークル内にいる者たちにとっては、差別問題が固定化し存続している方が都合が良いのである。
私は、差別と利権の構造を終わらせるためには、全ての政府機関や地方自治体で、あらゆる種類の同和対策事業や特別措置を終了させるべきだと考えている。同時代に生きる同じ日本人の中で、出身地によって差別も特権もあってはならない。かつての被差別部落地区に生まれた人々が、それ故に穢れていることなどあるはずもない。逆に、それらの人々が特権的利益を得ても良い道理など無い。日本各地には、かつて処刑場であった場所があるが、その辺りに住んでいるからと言って、穢れていると決めつける人がいるだろうか?個人的心情として、そのような場所に住みたくない人々はいるだろう。例えば、東京都品川区には、鈴ヶ森刑場跡があるが、江戸時代に10万とも20万とも言われる人々が処刑された地である。現在は、かつての刑場跡周辺に住宅街もあるが、その地に生まれ育った人々が穢れているとは言えない。刑場跡地であっても、長い年月の間に、人々の忌避感は次第に薄らぎ、ついにはほとんど無くなるものである。部落差別問題は、制度的にも過去の遺物にするべきであろう。そうすれば、世代交代や地域を超えた移動が繰り返されるに従い、人々の意識からも消えて行くだろう。差別問題は、資料館や図書館の中だけに残しておけば良い。
部落解放同盟という、全国最大規模の同和団体がある。そのルーツは、1922(大正11)年に設立された、全国水平社であるとされる。彼らが全国水平社から受け継いだ、部落解放運動のシンボルとして、荊冠旗と称される旗がある。赤地の左上部分に、黒地に赤い荊の冠が配されている。1923(大正12)年にデザインされたとされる、その旗に描かれた荊冠とは、イエス・キリストが十字架に架けられた時に被せられた、荊の冠のことである。その意味は、受難の象徴であるが、それだけでなく、勝利と栄光をも表している。部落解放運動に関わっている人々は、今一度、荊冠の意味するものに思いを巡らせ、さらに進んで、キリストとその言葉に思いを向けてもらいたいと思う。もし利権と関わっているのであれば、自らを差別の中に止まらせない為にも、それを断ち切り、心に自由を得て欲しい。私たちは、誰でも神の前に罪人であり、また、誰でもキリストにより罪から解放され、真の自由を得ることが出来るからである。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳)