毎日、日本と世界のニュースを、主にインターネットで見ている。日刊新聞も、事務所用と合わせると一応数紙購読しているが、全国紙は政府や各種業界の広報紙に近いと受け止めているので、熱心に読むのは地方紙の方である。その流れで、出張や旅行で宿泊する時には、その地方の新聞を読むようにしている。札幌なら北海道新聞、福岡なら西日本新聞という具合である。また、普段は週刊誌は読まないのだが、興味がある記事が掲載されている時には、なるべく購入するようにしている。つい最近は、女性セブンという雑誌に、「子供のワクチン接種 本当に必要なのか」という記事が掲載されていると知り、少し勇気を出して、書店で買って来て読んだ。大手新聞やテレビではタブー扱いされているテーマを取り上げるメディアは、やはり購入して記事を読むことが、報道の自由を支持する上でも必要だと思う。
私が今、継続的に最も注目しているテーマは、新型コロナ・ワクチンに関する国内外の状況と、ウクライナ情勢など戦争勃発の可能性についてである。それらは、日本人にとっても大きな影響を受けることが必至の事柄であり、同時に、世の終わりが近づいていることの兆候を見極めるためでもある。関心を持ってチェックしているニュースは、それらだけでなく多岐にわたるのだが、事件や事故についてもそうである。犯罪のニュースがあると、容疑者の写真が出ていれば、必ずよく見るようにしてる。もちろん、容疑者の段階では犯罪者と決めつけられない場合もあるが、それでも、特に凶悪事件の場合などでは、どんな人相をしている人物が、犯行を疑われているのかを知っておきたいと思う。どんな雰囲気の人物に気をつけたら良いか、学習するためである。また、事故のニュースでは、どのような状況でそれが起こったのか、新聞などの記事をよく読むように努めている。自分が車を運転する際になど、決して事故を起こさないように、他山の石とするためである。
数日前のニュースで、川崎市宮前区の県道で、ワゴン車が反対車線に飛び出し、3人を死傷させた事故が発生したことが報道された。運転していた50代女性は、カゴに入れたペットのインコを助手席に乗せて動物病院に連れて行く途中であり、走行中に気を取られてハンドル操作を誤ったとのことである。単なる運転ミス以上の重大な不注意であるが、運転中にスマートフォンを操作しているドライバーも少なく無いので、運転する者は誰でも、自らを顧みて一層安全運転を心がけることが、加害者を非難することよりも必要であろう。私自身は、幸いこれまでに人身事故を起こしたことは無いが、交通事故の被害者になったことは、これまでに4回ある。いずれも軽傷で済んだが、高校生の時にバイクの免許を取得して以来、平均約10年に1回は事故に遭っているので、回数的には多い方かも知れない。ちなみに、車を運転中に追突されたのが2回、あとの2回は、バイクを運転中に車が急転回して転倒した事故と、夜間に信号の無い横断歩道を歩いて渡っていた時に、側道から一時停止しなかった車に撥ねられた事故であった。
今でも、ごく稀にではあるが、交通事故にあった時のことを思い出すことがある。それ以外にも、自分が山道を車やバイクを飛ばしていて、スピードを出し過ぎて、ヒヤリとしたことを思い出すこともある。いや、それだけでなく、小学生の頃、友達と学校の近くの川に降りて遊んだ時、擁壁をよじ登って戻る途中に、体が固まって動けなくなったことを思い出すこともある。その時は、必死に友達に助けを呼び求め、駆け付けてくれた級友が手を差し伸べてくれて、何とか這い上がることが出来た。体が固まった時に下を見ると、洗剤のような泡が川に渦を巻いており、もし落ちたら大怪我をして破傷風になるだろうと、心底恐怖を感じたものである。このような恐怖体験は、普段はすっかり忘却の彼方にあるのだが、本記事を書いているうちに思い出してしまった。
過去に事故や危険に遭遇したことは、痛い経験であり記憶であるのだが、話はそれだけではない。それらの出来事を思い出す時は、いつも、ある事実を思わざるを得ないのだ。それは、私は、その時には気づいていなかったのだが、神に守られていたのだという事実である。先に書いた川崎市の交通事故では、歩行者の30代の女性と、母親の運転する自転車に乗っていた3歳の男児が死亡している。なぜ彼女たちが死んだのか、外形的には交通事故死であるが、なぜ、その時、その場所にいて事故に遭ったのか。私が、その理由を明確に示すことは出来ない。危険な状況に直面した時、死ぬ人もいれば、助かる人もいる。人の生き死には、運命であると考える人もいる。聖書は、人の命は、神の主権の中にあることを教えている。それでも、人は与えられている自由の中で、意識して、また無意識の内に選択を重ね、それが結果的に、自分や他人の生と死の結末に現れることがある。
神を明確に信じる以前にも、自分が気づいていなかっただけで、神の守りの内にあったことを思わされる。自分には、その守りを受ける資格など無かった。ただ、恵みにより守られたのだと思う。子供の頃、わずかでも神に顧みられる理由があったとすれば、カトリックの幼稚園に通っていた時に、単純に「イエズス様…」と祈ることをしていたくらいしか思い当たる節はない。小学校もカトリック系だったので、漠然とではあったが、神様と言えば、「天の父なる神様」であり、「イエズス様」であった。子供の頃の、文字通り小さな祈りさえも、神の耳に届いていたのだろうか。今こうして、幸いにも神に対する信仰を持ち、これまでの人生を断片的にでも振り返ると、私を災いから防ぎ守って来た、神の恵みに感謝せずにはおられない。神は、親鳥が雛鳥をその翼で覆い、外敵から守るように、私たちを守ってくださる。多くの危険が潜んでいるこの世の中において、御翼の守りは、最も確実で、全幅の信頼を置ける守りである。
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私が今、継続的に最も注目しているテーマは、新型コロナ・ワクチンに関する国内外の状況と、ウクライナ情勢など戦争勃発の可能性についてである。それらは、日本人にとっても大きな影響を受けることが必至の事柄であり、同時に、世の終わりが近づいていることの兆候を見極めるためでもある。関心を持ってチェックしているニュースは、それらだけでなく多岐にわたるのだが、事件や事故についてもそうである。犯罪のニュースがあると、容疑者の写真が出ていれば、必ずよく見るようにしてる。もちろん、容疑者の段階では犯罪者と決めつけられない場合もあるが、それでも、特に凶悪事件の場合などでは、どんな人相をしている人物が、犯行を疑われているのかを知っておきたいと思う。どんな雰囲気の人物に気をつけたら良いか、学習するためである。また、事故のニュースでは、どのような状況でそれが起こったのか、新聞などの記事をよく読むように努めている。自分が車を運転する際になど、決して事故を起こさないように、他山の石とするためである。
数日前のニュースで、川崎市宮前区の県道で、ワゴン車が反対車線に飛び出し、3人を死傷させた事故が発生したことが報道された。運転していた50代女性は、カゴに入れたペットのインコを助手席に乗せて動物病院に連れて行く途中であり、走行中に気を取られてハンドル操作を誤ったとのことである。単なる運転ミス以上の重大な不注意であるが、運転中にスマートフォンを操作しているドライバーも少なく無いので、運転する者は誰でも、自らを顧みて一層安全運転を心がけることが、加害者を非難することよりも必要であろう。私自身は、幸いこれまでに人身事故を起こしたことは無いが、交通事故の被害者になったことは、これまでに4回ある。いずれも軽傷で済んだが、高校生の時にバイクの免許を取得して以来、平均約10年に1回は事故に遭っているので、回数的には多い方かも知れない。ちなみに、車を運転中に追突されたのが2回、あとの2回は、バイクを運転中に車が急転回して転倒した事故と、夜間に信号の無い横断歩道を歩いて渡っていた時に、側道から一時停止しなかった車に撥ねられた事故であった。
今でも、ごく稀にではあるが、交通事故にあった時のことを思い出すことがある。それ以外にも、自分が山道を車やバイクを飛ばしていて、スピードを出し過ぎて、ヒヤリとしたことを思い出すこともある。いや、それだけでなく、小学生の頃、友達と学校の近くの川に降りて遊んだ時、擁壁をよじ登って戻る途中に、体が固まって動けなくなったことを思い出すこともある。その時は、必死に友達に助けを呼び求め、駆け付けてくれた級友が手を差し伸べてくれて、何とか這い上がることが出来た。体が固まった時に下を見ると、洗剤のような泡が川に渦を巻いており、もし落ちたら大怪我をして破傷風になるだろうと、心底恐怖を感じたものである。このような恐怖体験は、普段はすっかり忘却の彼方にあるのだが、本記事を書いているうちに思い出してしまった。
過去に事故や危険に遭遇したことは、痛い経験であり記憶であるのだが、話はそれだけではない。それらの出来事を思い出す時は、いつも、ある事実を思わざるを得ないのだ。それは、私は、その時には気づいていなかったのだが、神に守られていたのだという事実である。先に書いた川崎市の交通事故では、歩行者の30代の女性と、母親の運転する自転車に乗っていた3歳の男児が死亡している。なぜ彼女たちが死んだのか、外形的には交通事故死であるが、なぜ、その時、その場所にいて事故に遭ったのか。私が、その理由を明確に示すことは出来ない。危険な状況に直面した時、死ぬ人もいれば、助かる人もいる。人の生き死には、運命であると考える人もいる。聖書は、人の命は、神の主権の中にあることを教えている。それでも、人は与えられている自由の中で、意識して、また無意識の内に選択を重ね、それが結果的に、自分や他人の生と死の結末に現れることがある。
神を明確に信じる以前にも、自分が気づいていなかっただけで、神の守りの内にあったことを思わされる。自分には、その守りを受ける資格など無かった。ただ、恵みにより守られたのだと思う。子供の頃、わずかでも神に顧みられる理由があったとすれば、カトリックの幼稚園に通っていた時に、単純に「イエズス様…」と祈ることをしていたくらいしか思い当たる節はない。小学校もカトリック系だったので、漠然とではあったが、神様と言えば、「天の父なる神様」であり、「イエズス様」であった。子供の頃の、文字通り小さな祈りさえも、神の耳に届いていたのだろうか。今こうして、幸いにも神に対する信仰を持ち、これまでの人生を断片的にでも振り返ると、私を災いから防ぎ守って来た、神の恵みに感謝せずにはおられない。神は、親鳥が雛鳥をその翼で覆い、外敵から守るように、私たちを守ってくださる。多くの危険が潜んでいるこの世の中において、御翼の守りは、最も確実で、全幅の信頼を置ける守りである。
「瞳のように私を守り 御翼の陰にかくまってください」(詩篇 17:8 新改訳)