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ハロウィンは呪いを招く(記事No.135)

 去る10月29日の夜、韓国ソウル市内の繁華街梨泰院(イテウォン)で、ハロウィンの仮装パレードに繰り出していた人々が、狭い道路に密集していたところ将棋倒しとなり、これまでに154人の死亡が確認されたとの報道である。死者の大半が圧死ともされるが、中には、立ったまま押し潰された人もいたとのことで、あまりにも悲惨な事故となった。SNSの投稿映像などを見ると、群衆が狭い道路にすし詰め状態のまま塊となって動いており、これでは危険を察知したとしても、脱出は困難であったと思う。

 いつの頃からか、日本でもハロウィンのイベントが行われるようになり、仮装パレードなどに参加する人々もいる。2018年には、渋谷でハロウィンの仮装パレードに集まった人々の一部が騒動を起こし、車をひっくり返したりの器物損壊や、暴力行為や痴漢などの犯罪に及んだ者たちなど、逮捕者が出たことは記憶に新しい。テーマパークなどのイベントならまだしも、公共の場で仮装パレードを行うことはいかがなものか。現に、コロナ前には毎年ハロウィンの仮装パレードが行われていた、首都圏にある大都市の商店街組合の人々に直接聞いたところでは、参加者はコンビニなどは利用しても、商店街の店はほとんど利用せず、その日は常連客が敬遠して売り上げも下がり、騒音やゴミの問題もあって、むしろ迷惑だと言う。

 社会的な存在意義や治安維持という観点からすると、ハロウィンのイベントは、少なくとも公共の場所で不特定多数が参加できる形では行うべきはないと思う。どうしても、ハロウィンを楽しみたい人は、彼らだけで貸切の場所にでも集まって、全く私的なイベントとして行うべきであろう。それはさておき、ハロウィンとは、その起源においても、現代における実情においても、私たちにとっては、本来決して関わってはいけないものである。何故なら、その本質は、悪霊共らと一緒になって、悪魔を崇拝するイベントであるからだ。そのルーツは、古代ケルト人らが信仰していたドルイド教のサウィン祭であり、それは、悪霊を召喚して悪魔に人身御供を捧げる儀式である。ハロウィンのシンボル的な、人の顔を模してくり抜かれたカボチャは、ジャック・オー・ランタンと称されるが、その由来は、生贄の人を差し出した家の前に置かれた、人肉が詰められたカボチャである。ドルイド祭司らは、「トリック・オア・トリート」と叫びながら、生贄を求めて家々を訪れたと言う。生贄とされた人々は、悪魔に捧げる犠牲の供え物として、生きたまま焼き殺されたのである。

 ハロウィンは「クリスマス」と同じく、キリスト教の行事であると思っている人も多いと思うが、もちろん、これは誤解である。カトリック教会では、毎年11月1日を「諸聖人の日」と定めているが、一部のプロテスタント教会では、この日を「万聖節」として死者を記念する日としている。もちろん、そのような教えは聖書には無いが、キリスト教化される前のヨーロッパで広く普及していた、死者を祭る日をキリスト教的な装いに変えたのが始まりである。言わば、ヨーロッパ版の「お盆」のような行事であり、その本来の考え方は、死者の霊を呼び戻すことを禁じている聖書の教えとは矛盾している。万聖節の前日の異教由来のイベントに、キリスト教的な化粧を施したとしても、その本質が一新されている訳ではなく、霊的意味合いは変わらないと思う。すなわち、ハロウィンは、悪魔崇拝と密接に関係しており、クリスチャンはもちろんのこと、誰も関わるべきではない。まして、例え意味が分からずとも、祝うなどはもってのほかである。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(申命記 18:10-11 新共同訳)

 かつてそうであったように、今日でも、ハロウィンは悪霊共の祭典であることに変わりは無い。遊びのつもりで、気軽に楽しむようなイベントではないのである。知らずにであっても、関われば、悪霊共の呪いに対して接点を持つことにもなってしまう。恐らくは、この時期には世界の至る所で、生贄として殺される人々、特に子供たちがいると思う。今般のソウル市イテウォンの事故も、悪魔崇拝者たちが人々に呪いをかけたことにより、悪霊の仕業を呼び起こした可能性が高い。彼らの祭典には、悪魔に捧げる血の犠牲を必要とするからである。「イテウォンの悲劇」をきっかけに、ハロウィンの真実について自分で調べ、その悪魔性と危険性に気づく人が少しでも増えると良いのだが…。
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クリスチャンにとっての軍隊(記事No.134)

 前回のブログ記事で、「クリスチャンにとっての戦争」をテーマに取り上げたが、今回は、それとも関連して、「クリスチャンにとっての軍隊」について書いてみたい。日本を除くほとんどの国では、軍隊の存在は当たり前のこととして受け入れられていると思うが、そのあり方については議論も多々あり、また、個人レベルでも多様な考え方はあると思う。聖書においては、軍隊そのものをはっきりと認めない教えは、私が理解している限りでは無く、考え方の違いは、聖句の解釈の違いに加え、それぞれの思想的立ち位置から生じるものだと思う。

 日本においては、軍国主義の末路が悲惨な敗戦であったことと、日本国憲法に規定されている戦力不保持など平和主義の国是があることで、クリスチャンの中でも、軍隊には否定的な考え方を持つ人が少なくないと思う。これに対して、諸外国では、軍隊の保持は独立国として当然との考えが一般的であり、多くの国で、軍人は人々の尊敬の対象である。一例を挙げるなら、アメリカでは、軍人は尊敬される職業であり、空港での搭乗順位もハンディキャプがある人や乳幼児連れの人などの次は現役軍人である。アメリカが関与する戦争には反対の人々でも、ほとんどの場合、軍人に対する敬意は持っていることが多い。

 世界のキリスト教会の中でも、メノナイト派など聖書的平和主義の立場から兵役を否定する教派があるが、大きな流れとしては、軍隊や兵役には肯定的な立場が多数である。それゆえ、共産主義国やイスラム教国などを除き、ほとんどの国の軍隊には、従軍牧師や従軍司祭が配属されており、将兵に対する精神面での支援や軍内の宗教的活動を司っている。私の友人の中にも、神学校を卒業した後、教会での副牧師の働きを経て、アメリカ陸軍の従軍牧師となった人物がいるが、士官の階級を与えられた、れっきとした軍人である。そう言えば、30年くらい前に、日本でもアメリカ系の宣教団体と提携してか、軍人宣教会のような団体が立ち上げられ、自衛官らに対する牧会・伝道(彼らは、「軍牧」と称していた。)を進めるとしていたが、どうも、その後活動を休止したか解散したようである。これとは別に、「コルネリオ会」という現・元自衛官らを中心とした宣教団体があるが、こちらの方は、現在も活動中である。

 さて、人間の歴史において、戦争が無かった期間よりも、圧倒的に戦争が行われていた期間の方が長かったと言われている。軍隊があるから戦争があるのだと言う人もいるが、それでは、仮に軍隊を無くせば戦争も起きないのかと言えば、決してそうではないと思う。何故なら、アダムを通して人類に罪が入って以来、人間の魂には闘争心(闘争本能と言うのは正確でないと思う。)が生じる性質があり、それが高じれば物理的な争いに至ることは必然であるからだ。そのような人の世界にあって、軍隊を持たないことは、国を守るオプションを1つ放棄することであり、賢明な選択とは言えないのではないだろうか。永世中立国であるスイスも、他国の侵略を拒絶するに足る軍隊を保有しており、国民皆兵体制であることはよく知られている。私の知人のスイス人牧師も兵役経験があり、退役後も確か42歳くらいまでは予備役兵として、毎年の軍事訓練に応召していたと聞いた。1815年のウィーン会議で、ヨーロッパ諸国から永世中立を承認されたスイスであるが、自国領土を他国の軍隊に利用させない保証の1つとしても、彼らは軍隊を保有しているのだ。

 それでは、私自身の軍隊についての考えであるが、率直に言えば、自国防衛のために必要な範囲において軍隊を保有することが、独立国としては必要であるとの立場である。目指すべきは、スイスのような武装中立であると思うが、一方的に中立を宣言さえすれば、中立国として国際的に認められると言うことではない。少なくとも、周辺諸国の承認がなければ、中立国にもなれないのである。そうなると、現在の日米安保体制を、段階的に米軍常駐無き安保体制へと移行し、緩やかな同盟関係を維持しながらも、対米従属からの脱却を図るプロセスが必要であると思う。身もふたもない言い方であるが、日本政府に、そのようなダイナミックな外交交渉が出来るとは思えない。仮に、世の終わりの日に至るまで、アメリカの属国状態が続くとすれば悲しく悔しいが、どこかで国内外の状況に歴史的な変化が生じないとも言い切れない。そして、キリスト再臨の暁には、軍隊をめぐる様々な論争や闘争にも終止符が打たれる。その時には、世界中の軍隊は、その役割を終えるからである。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書 2:4 新共同訳)
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クリスチャンにとっての戦争(記事No.133)

 ウクライナにおける戦争は、米英を中心としたNATO諸国が継続を強く望み、ゼレンスキー政権を後押し(督戦)していることで、中々終わりが見えない。ロシアが核兵器を使用するのではないかという予測もされているが、それを期待しているのは、むしろ米英の方であろう。ロシアが核兵器を使用するとしたら、彼らが国家存亡の危機に立たされたと判断する状況に至った場合であり、その時は、限定的な小型核兵器の投入ではなく、米英の戦略目標や在外米軍基地に対する核兵器の全面使用ではないだろうか。何故なら、反撃の余地を与えれば、ロシアも大打撃を受けることは必至だからである。そうなれば、その言葉の用法が聖書的に正確かどうかは別として、ハルマゲドンの戦いとなることは明白である。来る第3次世界大戦においては、多くの米軍基地を有する日本もロシアの攻撃目標となり、都市部でも甚大な被害が生じるだろう。いずれにせよ、日本と世界の民衆にとっては、戦争は何一つ良いことが無い。

 政治的な立ち位置に関わらず、現在進行中のウクライナ戦争は、日本人にとっても、戦争とは何かを、改めて考えさせられる契機になっていると思う。とりわけ、私たちクリスチャンにとっては、聖書が戦争についてどう教えているかという観点からも、一人一人が深く考えるべきことであろう。戦争そのものは、決して正義の発現ではなく、人間の罪の結果である。旧約聖書には、聖戦の概念があるが、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに入るために、神の命令に従って先住民らと戦い、彼らを駆逐した。日本語新改訳聖書では、「聖絶」と訳出されているが、先住民との戦いにおいては、神は、彼らを一人残らず根絶するようにも命じられた。その理由は諸説ある中で、これら先住民らの中には、堕天使と人間の混血であるネフィリムの血統に属する者たちが存在していたからとの説は、私にとっては腑に落ちるものである。旧約聖書時代においては、時には戦争は、神によって是認されていたと言えるだろう。

 それでは、イエス・キリストが地上に来られてから今日に至る、新約聖書時代においてはどうだろうか?もちろん、旧約聖書に記されている神の教えは、何一つ廃棄されたものではなく、それらは、新約聖書の啓示によって、言わば上書きされたようなものである。それゆえ、旧新約聖書の教えは互いに打ち消しあっているものではないが、クリスチャンの間でも、受け止め方や解釈の違いが大きな部分もある。戦争について、また軍隊についての考え方もその1つである。これらのテーマにおいて、ほとんど全てのクリスチャンに共通した認識は、先に触れたように、戦争そのものは悪であり、人間の罪の結果起こるものということであろう。だが、そこから先は、神学は勿論のこと、文化的背景や政治的思想によっても考え方は様々であり、自分の考えは絶対に正しく、異なる考え方は絶対に間違っていると決めつけることは出来ない。大切なことは、それぞれが自分自身の考えを持ち、良心に従って行動することであると思う。

 今般のロシアとウクライナの戦争において、それぞれの当事国でキリスト教会は、兵士たちのための祈りと併せて、戦争の早期終結と平和の回復を祈っているであろうが、それだけではなく、祖国の勝利のためにも祈っていると思う。世界には、生きた信仰を持っていない形だけのクリスチャンも多いことはさておき、同じ神を信じる者同士であっても、敵対する双方の国で、全く正反対の結果となるよう祈っているのである。この状況を神は深く悲しんでおられることは疑いないが、反対に、悪魔と悪霊どもは哄笑しながら、国家指導者らや国際金融資本家らを用いて戦争を煽っているのである。中世のヨーロッパにおいて、いわゆるキリスト教国同士が度々戦火を交えた歴史から、正戦論という、キリスト教的戦争論が編み出されたのだが、非戦闘員に対する人道的扱いなどの基準が作られる土台となったことは評価されるべきであろうが、これをもって戦争そのものを正当化することまでは出来ないと思う。

 これまでの人間の歴史の中で、外敵の侵略に対して、戦わなければ、あるいは戦いに勝利しなければ、捕虜や民衆は虐殺され民族浄化されるという実例は無数にある。日本でも、2度にわたる元寇において、元軍(その主力は、元軍に加えて、元の属国の高麗軍や南宋軍であった。)を鎌倉武士たちが撃退しなければ、日本は確実に元(モンゴル)の属国になっていた。その場合、日本の歴史は全く違っていたであろう。もし、徹底的な非戦論を貫徹するのであれば、侵略を受けた時には、征服者らのなすがままに身を委ねるということを意味する。今日でも、中共に併合されたチベットやウイグルの現実を見るならば、外国に武力征服されることは、国自体が消滅するだけでなく、しばしば文化や宗教、さらには言語でさえも蹂躙されることが分かる。それでも、侵略に対して、ただ座して死を待つのみで良いのだろうか?

 残念なことではあるが、世界には、自分たちの利益のために、戦争が起こることを望み、それどころか、戦争を起こしてきた者たちがいることは歴然たる事実である。今日では、軍産複合体やディープステイトなどと称される者たちであるが、彼らの本尊は悪魔であり、パシリの小物たちはいざ知らず、中核的な者たちは全て悪魔崇拝者であろう。そうなると、物理的、実際的な戦争とは、究極的には霊的な対立と戦いであることが分かる。ならば、やがてキリストが再臨され、神の最後の審判を経て、悪魔と悪霊どもを永遠の地獄に投げ入れられる時までは、この地上から戦争の種は無くならない。私たちは、平和のために祈ることが不可欠であるが、それぞれ地上での祖国も与えられている訳であるから、どうしたら戦争の発生を防げるのか、また、万が一外国の侵略を受けた場合には、どのように国を守ることが出来るのかを考えなければならないと思う。戦争についてよく考察し、特に導かれた場合には、それについて専門的に学ぶことは、戦争を肯定することとは異なる。神を認めない「英知」は弱く、戦争を防ぐ力は無いに等しいが、神からの「知恵」には力があり、平和を実現するためには得ることが不可欠である。結局のところ、そこに帰結することが必要であろう。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書 5:9 口語訳)
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超自然的な神の導きの話(記事No.132)

 ここしばらく、本ブログの更新が滞っていた。弁解ではあるが、世の中を観察していると、あまりにも憤りや危機感を覚えることが多く、書くと必然的に批判的な、あるいは、深刻な論調になってしまうことから、自分でも、もう少し希望の持てる話題にせねばと悩んでいたからである。そこで今回は、時事問題や終末の話などは置いて、私自身の体験談を1つ書きたい。クリスチャン用語で、「証し(証詞)」というものである。これまでのブログ記事の多くとは異なり、読みながら気が滅入ることは無いと思う。

 ところで、皆さんの中で車を運転する人は、初めて行く目的地に向かう時には、カーナビをセットすると思う。カーナビが登場する以前は、ほとんどの車には、道路地図が積まれていたのではないだろうか。私は、少年時代にボーイスカウトに入っていたこともあり、地図を見る(「読む」と言っていたが。)のは得意な方ではあった。それでも、目的地付近の詳細な地図が無かったり、道に迷うこともあって、そのような時には、通行人に道を尋ねるのが普通であった。通行人も見当たらなければ、交番を探して聞くか、いずれにせよ、目的地に到着するのに一苦労することもあった。

 さて、ここからは、30年以上前の、私のアメリカ留学時代の話である。当時、大学本科に直接入るには英語力が足りなかった私は、まず付属の外国人向け英語学校(ESL)で数ヶ月学ばねばならなかった。そのため、渡米したのは、中途半端な10月であった。入国した空港から出迎えの車で数時間ドライブし、大学の寮に到着したのは、金曜日の夕方であった。次の日の朝、私は、翌日に訪ねようと思っていた教会の場所と礼拝時間を確認しようと、英語力に自信がなかったので、アメリカ人の学生に代わりに電話をかけてもらった。教会の名称、住所、電話番号は、日本でアメリカ人宣教師から教えてもらっていた。一応、知りたかった情報は得たが、果たして無事翌朝の礼拝に出席できるだろうか?一抹の不安と、神に信頼していれば大丈夫だという思いが交差し、あまり落ち着かずに一日を過ごしたように思う。

 翌日の朝となり、11時から始まる日曜礼拝に間に合うように、大分余裕を持って寮を出た。寮から教会までは、徒歩でせいぜい20分くらいのはずである。ところが、歩き出して数分もしない内に、住宅街の中で道に迷ってしまった。きれいに区画整理された、映画に出てくるような典型的なアメリカの住宅街であり、目標物になるような物が無いのである。私は、渡米3週間前に受けた聖霊のバプテスマ(聖霊により満たされ、「異言」と呼ばれる未知の言葉で祈り始めることが伴う。)以来実践していた、異言での祈りも用いて、神に導きを祈りながら、30分かそれ以上も歩きまわっていた。11時5分前くらいになった時、歩いていた私のすぐ横の家から、若い女性が1人出てきた。年齢は20代前半か半ばくらいの、少しヒスパニック系も入っているような感じの、美しい白人女性であり、手には本のような物を持っていた。

 私が、その家の真ん前に差しかかったのと、その女性が歩道に出ようとしたのが、ほぼ同時のタイミングであり、とっさに私は、彼女に教会への道を尋ねた。次の瞬間彼女がとった行動は、驚くべきことであった。彼女は、家の前に停めてあった車の助手席を開けると、「どうぞ、乗って!」と言ったのである。車に乗った私は、この状況で何を話して良いか分からず、無言で助手席に座っているだけであった。走ること、3、4分だったか、彼女はある建物の前で車を停めて言った。「ここが、あなたの教会よ。」そして、はす向かいの建物を指差し、「こちらは、私の教会よ。」私は、驚きのあまり、彼女の名前を聞くのも忘れ、ただ御礼を言って車を降りた。彼女も、聖書を手にして車を降りたと思う。教会に着いたのは、11時丁度であった。

 読者の皆さんは、私の体験談が、アメリカでは通常起こり得ないことであったことが理解できると思う。若い白人女性(若くなくても、また、白人女性でなくても。)が、見ず知らずの東洋人男性(東洋人男性でなくても。)を単独で車に乗せることなど、普通はあり得ない。それが例え、教会への道を尋ねた人であったとしても、普通は道を教えるだけで十分親切である。私は、私を車で教会まで送ってくれた女性は、瞬間的に聖霊の促しを受けたか、あるいは、白人女性の姿をとった神の御使(天使)であったか、そのどちらかであったと信じている。真相は、いつの日にか、天の御国(天国)に入った時に知ることが出来るだろう。

 アメリカに着いてから3日目の不思議な体験を皮切りに、私はその後、数々の超自然的な神の導きを経験するようになる。今では、スマホに地図アプリも入っており、車にはカーナビが着いているが、これらのツールを使って目的地に行こうとするときは、当たり前かも知れないが、神の超自然的な導きは感じられない。超自然的なものは、人造物の代替物ではないし、それらを補完するものでもない。もし私たちが、何かの時の保険として、神の超自然的な導きを期待するなら、恐らくそれは、願ったようには与えられないであろう。だが、私たちが、それが場所であれ物事であれ、自分の知識や経験ではどうすべきか分からない時、自分の手にある方法ではどうにもならない時、ただ神の超自然的な導きを信じて願い求めるのであれば、それは必ず与えられる。私が思うに、聖霊は、わたしたちに超自然的な導きを与えることを喜び、楽しまれているのではないか。私たちは、神の超自然的な助けを、いつでもどこでも、どんなことにでも、大いに期待して良いのである。

「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」(ヘブライ人への手紙 2:4 新共同訳)
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