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常識は疑ってみるもの(記事No.157)

 本ブログを約3ヶ月も休載してしまい、読者の皆さんには申し訳なく思う。ほとんど忘れ去られてしまったと思いつつも、どうにか再開することにしたい。この間、記事をアップしなかった最大の理由は、何か書けば悲観的な内容の記事になってしまうことで、せっかく読んで下さる方々に対して、希望を閉ざすようなメッセージを送ることが嫌だったからである。つまり、世の中の動きに目を向けるなら、それほど末期的な酷い状況が展開されているということになる。そのような中にあって、私が今どうしても発信したいメッセージを、最近のエピソードを交えて書くことにする。

 さて、去る7月下旬のこと、旧知の牧師に頼まれ、京都を訪れたクリスチャンのオーストラリア人夫妻を一日車で案内した。彼らは、イスラエルの失われた10部族(支族)の研究者であり、オーストラリアとインドに宣教拠点を持ちながら、諸国を訪問して10部族の痕跡を探していると言う。今回の来日では、京都に次いで東京を訪れるとのこと。私たちは、彼らを秦氏ゆかりの広隆寺や三柱鳥居で知られる蚕ノ社などに案内した。当日は、酷暑であり、ガイド役の牧師は80歳くらい、オーストラリア人夫妻は70歳前後ということもあり、午後3時頃には見学を切り上げた。ご主人の方と牧師はそれぞれ次の用事があるとのことで京都駅まで送ったのだが、夫人の方はまだ少し時間があるので残ると言う。さて困った、話が合うかなと思ったが、取り敢えず涼を取ることを兼ねてカフェに入った。案ずるより生むが易しとは言ったもので、何と話が大いに盛り上がり、久しぶりに知的好奇心が刺激され、良い時を持つことが出来たのである。

 ブログで名前を公開する許可を得た訳ではないので、仮にM姉妹と書いておきたい。M姉との会話は、失われた10部族の話を皮切りに、聖書の話から国際情勢の話まで多方面に及び、ほとんどのテーマで認識が共通する点があったのも驚きであった。M姉の母国であるオーストラリアは 本ブログ2021年12月6日付記事「風前の灯となったオーストラリア(記事No.70)」でも書いたように、新型コロナ流行対策の名目で、政府が国民に対して強権的にワクチン接種を進めるなど、民主主義の衣の下に全体主義の鎧が見えたような国である。ロックダウン期間中は、特にワクチン非接種者に対しては厳しい行動制限が課され、規制に違反すると逮捕され投獄や高額な罰金を科せられるなど、人権無視の過酷な状況であった。このことに関して聞くと、彼女はワクチン接種やロックダウンが進められていた期間、子供たち家族を呼んで、ほとんどの時間共に自宅に篭り、ワクチン接種も拒否したそうである。食料などは大量に備蓄しながら、抵抗の意思を同じくする近隣の人々と融通し合って凌いだとのこと。クリスチャンも、サバイバルのための実際的な備えが必要不可欠であることを、改めて思わされた。

 M姉との1時間半ほどの充実した会話の中で、世の終わりとも密接に関係するテーマについても話が弾んだ。その内の1つを、ここに紹介したい。終わりの時に回復されるイスラエルと、現在あるイスラエル国家のことである。聖書には、世の終わりの時に、世界中に散らされたユダヤ人が再びイスラエルの地に集められるという預言がある。ユダヤ教では、超正統派とされる人々を除き、1948年に建国されたイスラエルを旧約聖書預言の再生ユダヤ人国家(あるいは回復されたイスラエル全家)と同一視してる。クリスチャンの中でも、プロテスタント福音派や保守派(多くの場合は重なる)と位置付けられる人々は、同様の認識である。彼らは現イスラエル国家の誕生を、旧約聖書の預言者たちの預言や、新約聖書のイエスの預言の成就であると考えている。これについては、世界の終末に関わる非常に重要な事柄でもあるので、私は、この点についての自分の理解をM姉に話し、彼女の見解を問うてみた。私の理解とは、現イスラエル国家は人造国家であり、聖書で預言された終末の時に神によって再生されるイスラエル全家とは違うというものである。日本でも、多くの著名な牧師たちが現イスラエル国家は聖書預言の成就であると教えているため、私のような者が異論を唱えても相手にされないし、聖書解釈が誤っていると言われるのが関の山である。

 私の質問に対するM姉の回答は、驚くべきことに、全く同じ理解であると言うものであった。ユダヤ教超正統派の人々が、メシア来臨(ああ、彼は2,000年前に既に来られているのに!)が無ければユダヤ人国家の再建はあり得ないと信じているように、M姉も私も、終末時代に起こるとされるユダヤ人の民族的回心がイスラエル全家再生の必要条件であるとの見解で一致していたのである。その時、イスラエルの全12部族が再び1つにされ、彼らは皆、メシアであるイエスを信じる者たちとされ、同じくイエスを信じる異邦人らと共に、天の御国の相続人となる。これが、M姉と私の共通認識であった。これに対して、現イスラエル国家(世俗国家)を聖書預言の成就と理解する人々は、1948年の同国の成立は、2段階で進むユダヤ人国家の再建の第1段階であると考える。すなわち、最初は、メシアへの回心無き国家再建であり、それは神の憐れみにより許される。そして、国家再建後に、ユダヤ人の回心が漸進的に進み、やがては全てのユダヤ人がメシアを受け入れ、ここに第2段階として、名実ともにユダヤ人国家の再建が成し遂げられる。国家としてのイスラエルの再生は、2段階のステップを踏むと言うのだが、似たような話があると思われないだろうか?そう、世の終わりの時に起こると預言されている、キリスト再臨と信者たちの携挙である。携挙が起こることは間違い無く聖書預言であるが、その時期については諸説がある。前述の福音派あるいは保守派の人々の多くが、患難期前携挙説という解釈に立っており、それは再臨と携挙は患難期直前と患難期直後の2段階で現されるというものである。この説も、現イスラエル国家が聖書預言の成就であるという理解と同様に、多くの牧師たちが確信的に教えていることであり、広くキリスト教界に受け入れられている考えである。
「わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる」(エゼキエル書 36:24 口語訳)

 実は、患難期前携挙説というのは、比較的新しい教えである。知られているところでは、1830年頃にイギリス人の牧師・神学者であった、ジョン・ネルスン・ダービ(1800年- 1882年)が提唱したとされる。患難期前携挙説は、初代教会の指導者(教父とも呼ばれる。)たちも信じていたと主張する人々もいるが、教父らがキリスト再臨が切迫していると信じていたことが、イコール2段階の再臨及び携挙を信じていたことを意味するものではない。キリストの再臨が2段階あるというのは、聖書の言葉そのものではなく、聖書解釈の1つであり、19世紀に登場した教えである。現イスラエル国家の成立が聖書預言の成就であるとの教えに至っては、当然ながら、1948年に初めて世に出た新しい教えである。なお、その註解付聖書により患難期前携挙説を世に広めることに「貢献」した、アメリカ人牧師サイラス・インガスン・スコフィールド(1843年 - 1921年)は、シオニストらからの資金援助を受けていたと言われるが、彼の教理的流れに属する人々は、しばしばクリスチャン・シオニストとも称され、現イスラエル国家を聖書預言の成就と見做す教理を有している。つまりは、本記事で挙げた2段階のプロセスがあるとする2種の教えは、同根と言っても過言ではないと思う。それらに共通していることは、明瞭な聖書の言葉そのものではなく、聖書の解釈によって導き出された教えということである。果たして、それらは、真理と断じて良いものだろうか?少なくとも、各自で再考してみる必要があるとは思う。
「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(テモテへの第二の手紙 4:3-4 口語訳)

 私たちは、子供の頃から様々な「常識」を身に付けながら人生を歩んで来た。それら数え切れない「常識」の中には、マナーや礼儀など、文化的差異はあれども、それぞれが属する社会を生きる上で当然に備えるべきものもある。いわゆる常識人であることは、周囲の人々と良好な人間関係を築くために、また、他者との不要な摩擦を避けるためにも望ましいとは思う。だが、「常識」を全て無批判に受け入れることには問題がある。なぜなら、「常識」が常に正しいとは限らないからだ。前述のイスラエル国家や携挙の話も、たとえ著名な牧師や神学者の教えであっても、「本当だろうか?」と疑問を抱いてみることが必要ではないだろうか。もちろん、私のブログ記事の内容についても同様である。ただし、ここでは、あまり常識的なことは書いていないとは思うが。
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